第三十四話 競歩で急げ!
「うーん、機嫌はよくなったけど……しぃちゃんには悪いことしちゃったなぁ……」
私にはまだしぃちゃんに謝りきれていないような気がした。
「そうね……、私はしぃちゃんにすごく世話になったのにまだそのお礼をしていないや……。それなのにあんなに怒らせるようなことして……」
はるちゃんが落ち込みモードに入りそうだ。はるちゃんは前にお父さんとダンスのことで喧嘩をしたとき、家出をしてしぃちゃんの家に泊まり続けることでお父さんを根負けさせたのだ。一方の私はしぃちゃんから料理を教えてもらっている。
「今回のお詫びと今までのしぃちゃんにお世話になったお礼に何かしぃちゃんにできないかなぁ……」
はるちゃんが落ち込みの世界へと行かないようにと私ははるちゃんに何か考えさせることにした。「うーん」とはるちゃんは口を尖らせ空を仰ぐ。
「そういえば、しぃちゃんって九月生まれだよね……。何日だっけ?」
空を見たまましぃちゃんが尖らせた口を動かした。
「確か十三日だったと思う」
私は急いでバッグからスケジュール帳を取り出した。
「そうだ、間違いない九月十三日だ。来週の木曜日だね」
私のスケジュール帳の九月十三日の欄にはオレンジ色で「しぃちゃんバースデー!」と書かれている。
「あと六日で何ができるか分からないけど、しぃちゃんの誕生日パーティーを開こう! 盛大に」
はるちゃんが私の両肩を掴んで激しく揺らした。私の視界が激しく揺れる。この揺れが昨日しぃちゃんをノックアウトさせたものであることを私は忘れていない。目を回さないように私は目を瞑って答えた。
「そうだね、はるちゃん。しぃちゃんの誕生日パーティーを開こう!」
「それで場所はどこでやる? しぃちゃんの家?」
「うーん、はるちゃん。誕生日パーティーを本人の家でやるのはどうかと思うよ……」
はるちゃんはまた口を尖らせて空を仰いで考え込んでしまった。そのとき私の頭に一つのアイデアが浮かんだ。
「はるちゃん、心当たりが一つあるよ。そこでOKならそこでパーティーを開こう」
「心当たりってどこ?」
「私の家よ」
はるちゃんはまた私の両肩を掴もうとした。しかし私はその両手をがっちりと受け止めた。
「そうだ、私しぃちゃんの家には何度も行ったけどかっちゃんの家に行ったことは無かったわ。いいね! やろう、かっちゃんの家で誕生日パーティー!」
「かっちゃんの家の人はOKしてくれるかな?」とはるちゃんは心配そうに首を傾げた。
「私の記憶が確かならばー。お祖父ちゃんとお父さんは必ず了承してくれるはずである」
私はピーマンが嫌いな美食家の物まねをした。
「ねえ、お祖父ちゃん。確か前に上杉は味方だった、って言っていたよね」
夕食の席で私はお茶をすするお祖父ちゃんに尋ねた。お祖父ちゃんは目を細くして目じりの皺を伸ばして喜んだ。
「よくぞ、聞いてくれた。上杉はなー、幕末の戦乱のおりに……」
話が長くなるので、私が簡単にまとめると、明治の新政府軍と幕府軍との争いの中、当時しぃちゃんの実家がある米沢の殿様だった上杉家は、周囲の大名と同盟を組み新政府軍に対抗したそうだ。
「その米沢が実家の友達がもうすぐ誕生日なのよだから……」
それを聞くなりお祖父ちゃんは私の話を最後まで聞かずに膝を叩いた。
「そうか、誕生日か! いやめでたい、めでたい。本人がよければそのお友達のめでたい日をこの家で祝おうじゃないか! なあいいだろう、理佐さん」
お祖父ちゃんがお母さんの顔を見ると、お母さんは目を細めて(普段から細いけどね)頷いた。
こうして私がお願いするまでもなく、しぃちゃんの誕生日パーティーが私の家で開かれることになった。
翌日――私とはるちゃんは、しぃちゃんへの誕生日プレゼントを買いに新宿に来ていた。日曜日と言うこともあり、東口の歩行者天国は道行く人たちだけではなく、大道芸人とそれを見る観客たちで溢れかえっていた。
九月の初めのためかまだ日差しが暑い。そのため私たちも含めてみな肌の露出の多い夏の服装である。私はピンクの半そでTシャツに黄色のカッターシャツを羽織る。下は青のジーンズ。はるちゃんは薄い黄色のTシャツ一枚、下は緑のハーフパンツだ。
私たちはしぃちゃんの誕生日プレゼントを探しにもう何件も店を回っているがなかなかしっくり来るものがない。はるちゃんは夕方に池袋で用事があるというので、それまでに見つけなくてはならない。
「もう九月というのにこれだけ暑いなんて、十二月になったらどれだけ暑くなるのかしら」
はるちゃんさらりと私やその周囲を寒くする発言をする。
「な……何を言っているの? はるちゃん、まだ九月に入ったばっかりじゃない」
私は寒さに耐えながら普通に突っ込みを入れるだけで精一杯だった。
「分かっているよかっちゃん、ただ言ってみたかっただけ」
自信満々に腰に手を当てるはるちゃん。まあ彼女のおかげで暑さも少し和らいだのだけど。
「しかし本当に暑いよ、かっちゃん。地球温暖化のせいかしら」
さっきの冗談とは違いいきなり真面目な発言をするはるちゃん。
「いや……地球温暖化はオーバーだと思うよ」
普通に突っ込んでいたらせっかく涼しくなったのにまた暑くなってきてしまった。
「かっちゃーん、どこかで休もうよー」
両手をだらしなく下げながら、はるちゃんが顎を私の肩に乗せる。
その時私たちの耳に一人の元気な女性の声が入ってきた。
「ただ今ケーキ食べ放題ですよー。涼しいルームでケーキ食べ放題。九十分千五百円でケーキ食べ放題ですよー」
その声を聞いたはるちゃんは顎を上げて叫んだ。
「聞いた!? かっちゃん、涼しいところでケーキ食べ放題だって!!」
「聞いてるよー、九十分千五百円だってねー」
私ははるちゃんに視線を移さずに答える。
「食べようよー。涼しいところでケーキィー」
はるちゃんが顎で私の肩をたたきながら叫ぶ。そのため、はるちゃんの声がまるでガラクタでできたロボットのような声になっている。
「はるちゃん、分かった。ケーキ食べよう。だから肩を叩くのはやめて」
私は右肩の痛さに負けてはるちゃんに従うことにした。というか、はるちゃんは顎は痛くないのか?
「やったー、ケーキだー!」
九十分後――。すっかりお腹いっぱいになった私たちは再び溶けるような熱さの新宿の街へと出た。
「いやーかっちゃん。美味しかったねー。ケーキ」
満足げに言うはるちゃんだが、ケーキよりも一緒にあったカレーや蕎麦をメインに食べている。
「ところで、はるちゃん。夕方に池袋で用事があるんでしょ。何時に着けばいいの?」
はるちゃんよりもケーキを食べた私は時計を見ながら彼女に尋ねた。
「うん、友達がただで髪をカットしてくれるって言うんだけど、四時半に美容室に来てくれって」
うーん、美容師の友達を持つとただで髪の毛を切ってくれるのか羨ましいなぁ……。ってうらやましがっている場合じゃない。
「はるちゃん、大変だよ。今三時半だよ! あと一時間しかないよ」
「嘘!? 急いでプレゼントを見つけないと」
いまさらどうしてケーキ食い放題に入ったか、と悔やむ暇はない。
「急いで、はるちゃん。走るわよ」
私ははるちゃんの手をとって叫んだ。しかしはるちゃんは首を横に振った。
「だめよかっちゃん! こんな大勢の人が歩いている中で走るのは危険だわ! それにお腹いっぱいでそんなに走れないわよ」
たしかにはるちゃんの言うとおりでこの思い思いの方向へ歩いている人だかりの中を走ると人にぶつかる可能性が高い。それにケーキがいっぱい入った状態で走ればわき腹が痛くなる。でも普通に歩くわけには行かない、一体どうすればいいのか?
「こうなったらかっちゃん、競歩で行くわよ!」
そういってはるちゃんはかけっこのスタートの構えを見せた。
「えっ、きょうほ!?」
初めて聞く言葉だ。普通の歩くのや走るのとどう違うのだろう。
「そうよ競歩よ。急いで歩くのよ。だから走っちゃいけないの。両方の足が地面から離れると走ったことになるのよ」
はるちゃんが足を前後に動かしながら競歩の説明をする。
「あと前足は地面に垂直になるまで膝を曲げちゃいけないの。曲げると走ったとみなされて審判から注意されるわ。三回注意されたら失格……」
「競歩の説明はもういいから急ぐわよ、はるちゃん」
話が長くなりそうなので、私ははるちゃんの手を引くと、早歩きで歩いた。
「だめよ、かっちゃん。膝が曲がっているわ」
早くもはるちゃんから一回目の注意を受ける私。膝を曲げないことを意識して歩く。
「あ、木久蔵さんだ」
後ろのはるちゃんがいきなり止まったので、私は引っ張られるようにして後ろへのけぞった。
バランスを取りながらはるちゃんの視線の先を見ると、イラケン選手の後輩の、腹打木久蔵選手がいた。
「木久蔵さーん、イラケン選手の世界チャンピオン就任おめでとうございまーす」
「あ、これはこれは、いやーどうもすいません」
はるちゃんの声に気づいた木久蔵さんが笑顔でぺこりと頭を下げた。
十五分後――。はるちゃんと木久蔵さんは暑さを気にせずすっかりボクシングの話で盛り上がっていた――。
「木久蔵さん、次の試合で勝てば日本チャンピオンになるんですか?」
「ああ、四年目にして初めての挑戦だよ」
「四年目ってことは木久蔵さん、年は幾つですか?」
「今年で二十二になります」
今年で二十二ってことは私たちと三歳差か……ってそんなことを言っている場合じゃない。
「ちょっと、はるちゃん。あと四十五分しかないよ、すいません、木久蔵さん。私たちはこれで、次の試合応援に行きますんで」
はるちゃんの左手を思いっきり引っ張りながら私は木久蔵さんに別れを告げた。
「またリングに近い席とって置くからー」
木久蔵がそう叫んで私たちに手を振る。その姿がやがて人の波に飲まれていった。
「もーう、はるちゃん話しすぎだよ。あと四十五分しかないじゃない」
「いやー、ごめんすっかり盛り上がっちゃって……」
「どうもすいません」とはるちゃんは木久蔵さんの真似をした。
「そんなことよりかっちゃん、両足が地面から離れていたわよ。あと一回注意を受けたら失格よ」
しまった、「膝を曲げない」ことしか意識していなかった。……ってまだ競歩をやっていたの? さらにあと一回で失格って、失格したら私はどうなるの?
急いでいるときに限って余計に時間のかかる出来事にぶつかるものである。私たちは観光旅行中であろう外国人の集団に声をかけられた。
「すいません、カメラ、お願いできますか」
「あの、すいません。急いでいるもので……」
と、断ろうとした私だが、外国人の顔を見るや私は思わず彼の名前を大声で叫んだ。
「あっ、スケベニンゲンだ!!」
私の大声に周囲の人間の視線が一斉に私たちに集まる。そう、先日イラケン選手に敗れた元世界チャンピオンのチャウワ・スケベニンゲンが家族を連れて新宿の街にいたのだ。
「おーう、私の名前を知っていることは、あの試合見てたね」
スケベニンゲンは周囲の視線も気にせずおどけた表情である。
「ええ、友達と一緒に生で試合を見ていました」
私が答えるとスケベニンゲンはいきなり私の手を掴んでカメラを渡した。
「試合を見ていた日本人のあなた、当然のことながら私ではなく、将軍の応援した。罰ゲームとして、あなた私たちの写真撮るです」
スケベニンゲンの微妙に上手い日本語と無茶苦茶な理論に私は勝てなかった。私の手に渡されたのは使い捨てカメラでボタンを押せば簡単に写真が撮れるものだった。しょうがないと私はカメラを構える。
「それじゃあ撮りますよー」
誇らしげに並ぶスケベニンゲン一家をレンズに収めて私はボタンを一回押した。これで彼らから解放されると、私はカメラを返そうとした。
「ダメです。次は一人ずつ撮るです」
一人ずつってあと五回も写真を撮れってこと!? 反論したかったけどかえって時間の無駄になると思った私は、スケベニンゲンの家族を一人ひとり急いでかつ丁寧に写真に収めた。(いい加減にやったら文句言われちゃうじゃない)
「どうもありがとです。助かりました」
と、スケベニンゲンはカメラを手にして喜んだ。その直後彼は笑顔を消して真剣な表情になった。
「もし、あなた将軍に会う、伝えて下さい。次はベルト取り返すと」
「分かりました。伝えておきます。ただ、イラケン選手は返り討ちにする、って答えるでしょうけど」
「返り討ち」という言葉が理解できたのかスケベニンゲンは笑いながら私たちに背を向けて左手を上げた。
「次に将軍と闘えること楽しみです。さようなら、日本のかわいいお嬢さんたち」
スケベニンゲン一家の背中が人の波に飲まれて消えていった。
「なかなかいい人だったね。スケベニンゲンって」
と私は笑顔ではるちゃんの方を見た。はるちゃんは暗い顔をして座り込んでいた。
「どうしたの、はるちゃん。気分でも悪い」
「あと三十分しかないよ……」
はるちゃんに言われて私は時計を見た。ただ今の時刻午後四時、はるちゃんの約束の時間まであと三十分――。
こうして私たちは翌日も暑い中をしぃちゃんのプレゼント探しに歩くことになった。しぃちゃん、プレゼント探しをおろそかにしてごめんなさい。