第三十三話 ご機嫌ななめ
しぃちゃんはご機嫌ななめである。
試合中散々私たちに振り回されてしまったので、目を回して倒れてしまったのだ。少し横になったので回復したものの、ちょっと怒っている。口をきつく結んで頬を少し膨らましている寝姿がちょっとかわいい。
「もーう、せっかくイラケン選手がチャンピオンベルト巻いているところ見たかったのに……。二人が振り回すからー」
「もーう」がつくから本気ではないとしても、機嫌が悪いことは確かだ。私はちらっとチャンピオンベルトを巻いているイラケン選手の姿を見たのだが、それを言ったらしぃちゃんの機嫌がもっと悪くなりそうだ。
「まあまあ、イラケン選手が勝ったのだから。いいじゃないしぃちゃん」
はるちゃんがしぃちゃんをなだめながら彼女に毛布をかける。
「もーう、全然よくないよー」
しぃちゃんがそう言って毛布を跳ね除けた瞬間、医務室のドアが開いた。
「嘘……、イラケン選手!?」
扉を開けて入ってきたのは闘いを終えたばかりのイラケン選手だった。Tシャツにジャージ姿。腰にはしっかりチャンピオンベルトを巻いている。顔はスケベニンゲンのパンチを受けて痣だらけだ。まぶたの傷もはっきりと線を残している。
「スタッフの人から医務室に運ばれた、と聞いたんだ……。怪我でもしたのか?」
怪我をしているのはあなたの方でしょ、とつい突っ込みたくなったのを抑えて私は事情をイラケン選手に説明した。
「……なるほど、二人とも興奮しすぎちゃったってわけだ」
イラケン選手は半ば呆れながらしぃちゃんが横になっているベッドに座った。しぃちゃんは恥ずかしそうに両手で顔を覆う。憧れの選手だからだろうか、すでに何度も会って会話もしているのに、しぃちゃんはイラケン選手の接し方にまだ初々しさがある。慣れて普通に会話をしている私とは大違いだ。
「えー、改めましてイラケン選手、世界チャンピオン就任おめでとうございます」
「イラケン選手おめでとうございます」
「おめでとうございます」
行儀良く一礼をしたはるちゃんに続いて私も礼をする。しぃちゃんも顔を隠しながら頭を少し起こした。
「いや、そんな改まらなくていいから……」
イラケン選手は恥ずかしそうに両手で腰のベルトを隠そうとする。しかし到底隠しきれるものではない。
「入場のときの曲を変えたのは町平健さんから許可をもらったのですか」
しぃちゃんがイラケン選手の背中越しに尋ねる。さすがにもう慣れたのか、手で顔を隠してはいない。
「ああ、『やんちゃ将軍江戸日記』のテーマ曲ね。あの日、町平健さんに会ったとき本人からお願いされたんだ。ぜひ次の試合で使ってくれって」
イラケン選手はその日の町平健さんの表情を思い出しているのだろうか。目を輝かせながら答えた。
「本人に会って喜んでいるってことは、もう将軍って呼ばれても平気ってことですか」
はるちゃんが大胆にもベルトに手を触れながらさらに大胆な質問をする。
「将軍か……、そうだね。前はあの人と一緒にされるのが嫌だったというか……、本人に迷惑じゃないかと思っていたけど、あの人が喜んでくれると知ってから、なんか嬉しくなって……、嫌がることは自分だけじゃなくあの人も否定しているような気がして……」
イラケン選手はそう言いながら町平健さんと二人で撮った写真を私たちに見せた。
「上手く説明できないけど、今ではもう大丈夫だよ。俺は世界を制したボクシング界の将軍だから」
そう言ってイラケン選手はチャンピオンベルトを誇らしげに私たちに見せ、触らせてくれた。イラケン選手の名前に対するコンプレックスはやはり町平健さんに会ったあの日完全に無くなったのだ。
その後私たちはイラケン選手と一緒に写真を撮った。イラケン選手が医務室を後にするころにはしぃちゃんの体調も機嫌もすっかり良くなっていた。これでもう安心、と私たちはそれぞれの家路に着いた――。
この日の試合の結果は、翌日のスポーツ新聞の一面を独占した。各紙とも予想通りの煽り文句である。
『日本の将軍が世界を制す!!』
『ボクシング界の将軍、スケベ人間を成敗』
先月のイラケン選手ならこのスポーツ新聞たちを見て機嫌を悪くしたであろうが、今は違う。なぜならイラケン選手は名前に対するコンプレックスをすっかり克服したからである。彼はこの煽り文句たちを見て大笑いするだろうなと私は思った。
しかし、翌日になってしぃちゃんがまたご機嫌ななめになっていたのである。喫茶店「御団子」でアルバイトをしているしぃちゃんは、私とはるちゃんが店に入るのを見るやいきなり叫びだした。
「もーう、二人のせいで恥ずかしくて街を歩けないよー!」
マスターはいきなりのしぃちゃんの叫びに驚いてコーヒーカップを落としそうになった。
「どうしたの? しぃちゃん、昨日はものすごく幸せそうな顔をしていたのに……」
私は頬を膨らましているしぃちゃんを眺めながらいつも座っている本棚の側にある席に着く。
「そうだよしぃちゃん、私たちが一体何をしたって言うの?」
はるちゃんが昨日のことなど忘れた、とおどけた顔をして座る。
「もーう、二人とも何でもないような顔をしてー、昨日二人が私に抱きついたり揺らしたりしている姿がしっかりとテレビに映っていたんだからー」
「えっ、今しぃちゃん何て言ったの?」
テレビに映った? 私の聞き違いだろうか。私は耳に手を当ててしぃちゃんに尋ねる。
「だから、私たちの姿がしっかりとテレビに映っていたの。私たちがふざけている姿が全国のお茶の間に広まっちゃったの」
しぃちゃんは家で試合が放映されているテレビ番組を録画したDVDを見て、テレビに映る私たちの姿を確認したらしい。私は額を木のテーブルにぶつけるくらいの勢いでくっつけた。
「嘘でしょ……。テレビに映っていたなんて……」
しぃちゃんは昨日の私たちの姿を思い出したのか顔を真っ赤にしている。しかしこの店の店員であることは忘れてはおらず、コップに入った水を私たちのテーブルに置いた後で続けた。
「映っていたよー。よくラウンドの合間に観客の様子が流れるんだけど、そこにしっかり四回も。観客席にいた芸能人よりも私たちのほうが映る回数が多かったんだから」
カメラマンの人は一体どういう気持ちで四回も私たちを映したのだろう。
「しかも実況席が映っているときも私たちの姿がしっかり画面に入っていたのよ」
私たちが変な動きをするたびに解説者は迷惑そうな顔をしていたらしい。私は昨日時々私たちを迷惑そうに見る解説者の顔を思い出してため息をついた。しかし実況席にカメラが向けられているときにも映っていたなんて、私たちは合計何回テレビに登場したのか。
「私たちもついに全国デビューか……」
はるちゃんは私たちとはまったく対照的で恥ずかしがるどころか喜んでいる。さすがあの試合でのおふざけの張本人である。
「もーう、はるちゃん喜んでいる場合じゃないってばー」
しぃちゃんが注文を取るペンを折らんばかりの勢いで握り締める。注文をとることをすっかり忘れているようだ。
「いや……かわいいしぃちゃんかっちゃんとおまけの私、女の子三人がいちゃいちゃしている姿がテレビに流れたんだなーと思ったらなんだか嬉しくなっちゃって……」
はるちゃんにかわいいと言われたので、私は再びテーブルに額をくっつけた。頬がちょっと熱くなっている。かわいいと言われた嬉しさと、テレビに映ったという恥ずかしさが入り混じっている。
「全然嬉しくないよー。同じテレビに映るならもっとマシな姿で映りたかったよー」
注文を取る伝票がしぃちゃんの握力のため真ん中で折れそうになっている。
「確かに私もちょっとやりすぎたと思っているよ……。だけどもうテレビに映っちゃったんだから、何事もポジティブに捕らえないと……」
はるちゃんは笑顔でしぃちゃんをんをなだめた。お父さんと和解してからのはるちゃんは、以前からあった変なポジティブさにさらに磨きをかけている。しかし実際にしぃちゃんが撮ったDVDを見たら一番落ち込むのははるちゃんなんだろうけど……。
「ごめんね、しぃちゃん。私も止めずに一緒にふざけたのがいけなかったね」
まだ熱の冷めぬ顔をしぃちゃんに向けて私は謝った。
「私も謝る。ごめん、しぃちゃん」
いいかげんふざけてはいられないという空気を読んだのか、はるちゃんは笑みを消し、目をきりっとさせてしぃちゃんに頭を下げた。真剣な表情のはるちゃんはなんかセクシーに見える。いつもそういう表情だったら男の人にかなりもてるんだろうな……。
「まあ済んだことだし二人とも反省しているから……。うん、許してあげる。その代わり今日はたくさん注文してね」
そう言いながらしぃちゃんはすっかり曲がってしまった伝票に私たちがいつも頼むメニューを書き始めた。
「ありがとーしぃちゃん。それじゃあ私はチョコレートケーキも注文するわ」
メニューを手に取りながらはるちゃんが笑顔に戻った。
「じゃあ私も……今日はチーズケーキとチョコレートケーキを頼もうかな」
太ることよりしぃちゃんの機嫌が悪いままのほうが私にとっては大事である。
「かしこまりました。アイスコーヒーが一つ、アイスココアが一つ、それとチーズケーキとチョコレートケーキがそれぞれ二つずつですねー」
すっかり店員モードに戻ったしぃちゃんが伝票をマスターに渡す。真ん中にくっきりと折れ線の入った伝票を見てマスターはちょっと苦笑した。
久しぶりに食べる「御団子」のケーキは昔と変わらず美味しかった。すっかりお腹いっぱいになった私たちは機嫌を取り戻したしぃちゃんにお代を払って店を後にした。