第三十二話 三十一分四十八秒
しぃちゃんの言う「イラケン選手の勝てるチャンス」を私は理解できないまま第九ラウンドのゴングは鳴った。イラケン選手の足取りは先ほどよりはよくなったものの、まだダメージを引きずっているようだ。
対するスケベニンゲンの足取りも慎重を期してかゆっくりとしたものになっている。出会いがしらに青と赤のグローブが交差し、互いの頬を捕らえる。
「うわー、また倒れちゃうよ、しぃちゃん」
と、私はしぃちゃんの肩を掴もうとしてその直前で手を止めた。これ以上しぃちゃんを揺らしては彼女が倒れてしまう。
イラケン選手はなんとか両足のかかとをしっかりと踏みしめて耐えた。スケベニンゲンも倒れなかったが、たたらを踏みながら後ろへ下がる。
「相打ちですが受けたダメージはスケベニンゲンのほうが上ですねー。これはチャンスですよ」
解説者の声を聞いたはるちゃんが喜びのあまりしぃちゃんの右肩を大きく揺らした。
「聞いた? しぃちゃん、チャンスだよチャンス」
スケベニンゲンが後ろに下がるのを見てイラケン選手は追撃に出る。左の拳をスケベニンゲンの頭にめがけて構える。それを見たスケベニンゲンは頭を両手で隠す。がら空きになったスケベニンゲンの腹筋の真正面にイラケン選手の右ストレートが突き刺さった。
「やった、フェイントが決まったよ! はるちゃん」
今まで散々揺らされてきたお返しにとばかりにしぃちゃんがはるちゃんの両肩を掴んで大きく揺らした。
「見て、しぃちゃん。スケベニンゲン今にも泣き出しそうな顔をしている」
負けない、とはるちゃんがしぃちゃんを揺らす。リングに目を向ければ今まで冷静な顔で試合を進めてきたスケベニンゲンの顔が母親に怒られた子供のように泣きそうになっている。
「効いているんだよ、ボディブローが。今までイラケン選手がパンチを受けながらも打ち続けてきたボディブローがやっと効いてきたんだよー。私はこの瞬間が来るのを待っていたんだよー!」
少し青い顔をしながらも満面の笑みを浮かべたしぃちゃんがはるちゃんをさらに揺らす。
「そこだー、いけー! チャンスだー!!」
はるちゃんは威勢のいい応援の声をイラケン選手に投げる。しかし彼女の両腕はしぃちゃんの肩をしっかりと捕らえ大きく揺らし続けている。
そのために二人の声も揺れている。解説者が不思議そうにちらりとこちらの方を見た。選手入場のときといい、今のこれといい完全に変な人たちと思われているだろうな。
今がチャンスと感じたのはしぃちゃんだけではない。後楽園ホールの他の観客もそれに気づいていた。あちこちで「イラケン」コールが湧き上がる。やがてそれが後楽園ホールにいるほぼ全ての観客に伝染した。
誰かが「イラケン」コールとともに片足で足踏みをし始めた。その足踏みが周りに伝わるのにそう時間はかからなかった。気づいたときには私もしぃちゃんもはるちゃんも「イラケン」と叫びながら片足で床を大きく鳴らしていた。
後楽園ホール中に響き渡る「イラケン」コールと足踏みの中でイラケン選手はスケベニンゲンに攻撃を続ける。しかしさすがは世界チャンピオン。パンチを受けても決して倒れず、逆にイラケン選手にパンチを浴びせる。
双方の打ち合いが続く中で第九ラウンド終了のゴングが鳴った。二人は手を止めてそれぞれのコーナーへと帰る。イラケン選手は用意された椅子に腰を下ろしたが、スケベニンゲンは立ったままコーナーに寄りかかった。
「打ち合いのダメージはスケベニンゲンが大きかったようだね。休憩時間なのに座らないのは、座ったら二度と立てないような気がしているからだよ」
しぃちゃんがはるちゃんの両手をがっちり握りながら解説する。これ以上揺らされてたまるかといった感じだ。しぃちゃんが今まで受けたダメージもかなりのものかもしれない。
第十ラウンド――形勢は完全に逆転した。イラケン選手がスケベニンゲンを一方的に攻め続ける。後楽園ホール中の期待と興奮が四角いリングの上に集まる。
「いけー、倒せー! ぶっ飛ばせー!!」
はるちゃんがしぃちゃんの右腕を引きちぎらんばかりに振り回しながら叫ぶ。
「イラケン選手ー! 倒してー!!」
私はしぃちゃんの手を握るのを我慢しながら叫ぶ。
右腕を振り回されているしぃちゃんは痛がることもはるちゃんに突っ込むことも無く、
「そうそう、ボディいこう、ボディ」
とリングの上のイラケン選手にまるでセコンドのような叫び声を上げる。三人がそれぞれ違った形でリングの上の戦いに熱中しているのだ。
しかしこのラウンドはイラケン選手がスケベニンゲンを倒しきれずに終わる。周囲からは期待の声とともに少し不満がる声が混じる。
「もーう、文句ばっかり言って……。相手は世界チャンピオン、イラケン選手はダメージがたまっているんだから簡単にダウンが取れるものじゃないのだから……」
しぃちゃんが顔も見えない観客に対して小さな怒りをぶつける。
「えー、でもスケベニンゲンが倒れるところ見たいよー」
はるちゃんが駄々っ子のように両手でしぃちゃんの手を上下に振る。
「だからね、はるちゃん。そんなに簡単にはダウンは取れないのよ……」
しぃちゃんが私に背を向けてはるちゃんを諭す。その背中が子供を持つ母親のように見えたのは決して私だけではないと思う。
そんなしぃちゃんに「お母さん」と甘えて抱きつきたかったけど、しぃちゃんに何されるか分からないし、前の解説者からさらに不審がられるので、なんとか耐えた。
第十一ラウンド開始のゴングが鳴る。私たちも他の観客ももう待ちきれないぞ、と言わんばかりに「イラケン」コールをあげる。
その瞬間はゴングが鳴ってから約四十秒後に訪れた。イラケン選手の強烈な右のボディブローがスケベニンゲンのわき腹に突き刺さる。もう数え切れないほど受けているボディブローにスケベニンゲンの体は「く」の字に曲がり、両腕がだらしなく垂れ下がる。
その瞬間を逃さず、わき腹に突き刺した右腕を一度腰の辺りに戻した後、すぐさまスケベニンゲンの顎を下から打ち抜いた。
「来たー、アッパーよ!」
しぃちゃんがはるちゃんの両肩を思い切り掴んで叫んだ瞬間スケベニンゲンはついに仰向けに倒れた。上から見たらたぶん大の字になっていただろう。
「やったー、倒れた!倒れたよしぃちゃん」
はるちゃんがしぃちゃんに抱きつこうとするが、しぃちゃんに肩を押さえつけられているのでそれができない。はるちゃんの代わりとばかりに私がしぃちゃんに思い切り抱きついき、いろんな意味で今まで我慢していた分を取り返す勢いで彼女を前後に揺らす。
「倒れたー! 倒れたよー!!」
「わー、かっちゃん、落ち着いてよー。まだ十カウントとっていないんだからー」
リングの上ではレフェリーが倒れているスケベニンゲンに五つ目のカウントを取っている。八つ目になってスケベニンゲンは立ち上がりファイティングポーズをとった。なんとか立ち上がったものの、彼の両足は子犬のように震えている。
「なんで立ち上がるのよー」
私は文句を言いながらしぃちゃんを再び前後に揺らす。
「もーう、かっちゃん世界チャンピオンだからだよー」
しぃちゃんは揺らされながら答えになっているのか分からない回答をする。
解説者が迷惑そうに三度私たちをちらりと見た。ええ、思いっきり怪しい人たちですよーだ。
足元がおぼつかないスケベニンゲンにイラケン選手は更なる攻撃を続ける。ホール中に三度の「イラケン」コールと足踏みの音が響き渡る。みんなイラケン選手が再びスケベニンゲンからダウンを奪うことを期待しているのだ。
スケベニンゲンが再び倒れたのはそれから一分後のことだ。今度はアッパーを打つまでもなかった。イラケン選手の右のボディブローをわき腹に受けたスケベニンゲンは両膝をリングにつき、ゆっくりとうつ伏せに倒れた。
「まだよ、まだ十カウント取っていないからね」
しぃちゃんが大きく両腕を左右に広げて私たちを制止する。
レフェリーがスケベニンゲンにカウントを取る姿を見ながらスケベニンゲンに念じた。
(起き上がらないで……起き上がらないで……あなたにはその倒れている姿がオシャレなんだから……)
十カウントになったら真っ先にしぃちゃんに抱きつこうと思ったのだが、その前に十カウントも取っていないのにしぃちゃんが抱きついてきた。
「やったー!かっちゃん、勝った!勝ったよー!!」
「しぃちゃん、まだ十カウントとっていないんじゃじゃない」
はるちゃんが今まで止めておいてなんだ、と抗議の声を上げる。
「タオルだよ、タオルが投げられたんだよ」
しぃちゃんが示した先には青いリングの上に真っ白なタオルが落ちていた。そして試合の終了を告げるゴングが鳴らされる。
セコンドがこれ以上は試合を続けられないと判断したときタオルを投げることで負けを認める――。白いタオルの意味を知った私は抱きついているしぃちゃんに頬を摺り寄せ思いっきり前後左右に振り回した。
「やったー、勝ったー、勝ったー!!」
「あー、二人ともずるいー、私にも喜ばせてよー」
はるちゃんがしぃちゃんの背中に抱きつきこれまた前後左右に振り回す。二人から振り回し攻撃を受けているしぃちゃんを、解説者がちらりと哀れみの視線を送っているように見えた。
十一ラウンド一分四十八秒――。イラケン選手のKO勝ちで試合は終わった。真っ白いタオルが宙を舞った瞬間、イラケン選手は世界チャンピオンになったのだ――。
ホール中に拍手と歓声が響き渡る。ホールにいる観客のほとんどがこの瞬間を待ち望んでいたのだ。
「新たな世界チャンピオンの誕生です、日本ボクシング界の将軍がついに世界を制しました」
実況アナウンサーの歓喜の声がやっと聞き取れるくらいの歓声の中、イラケン選手は木久蔵さんに肩車されながら観客に両腕を上げて喜びを表した。
四度目の「イラケン」コールが始まる。今までのそれとは違う歓喜の「イラケン」コール。
しかし、私たちはそれに参加することはできなかった。試合が終了して安心したのか、しぃちゃんが、椅子に座り込んだまま立ち上がらなくなってしまったのだ。
「ああー、安心したら目が回っちゃったよー」
元気なくしぃちゃんは頭を私の肩に預ける。試合中さんざん私たちが振り回していたためにとうとう目を回してしまったのだ。
大歓声の渦の中を私たちはしぃちゃんを支えながらスタッフの人を探した。事情を聞いたスタッフが私たちを医務室へ案内する。
私はちらりとリングの上を見た。チャンピオンベルトを腰に巻いたイラケン選手が再び木久蔵さんに肩車をされる姿が見えた。
(おめでとう、イラケン選手)
私は心の中で小さくガッツポーズをとりながら、ホールを後にした。