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第三十一話 アクシデント

 そのアクシデントが起こる前兆はすでに第五ラウンドに現れていた。スケベニンゲンがイラケン選手の執拗なボディブローを受けまいと腰をかがめ、頭を低くした姿勢をとってきたのだ。

 スケベニンゲンのその姿勢を見てイラケン選手はスケベニンゲンの頭を狙う。しかしそのパンチはスケベニンゲンの頭に当らず、彼が目の前に掲げている赤いグローブに吸い込まれていく。

「そこでボディ、ボディ打っていこう!」

 しぃちゃんが立ち上がって声を張る。その声が聞こえたかのように、イラケン選手は、私がいくつ別れているのかを数えるのも面倒くさくなったスケベニンゲンのわき腹に、強烈な右のパンチを突き刺した。スケベニンゲンの目が大きく見開かれたように飛び出し、唇からマウスピースが顔を出した。

「うわー、今のはかなり痛そう……」

 はるちゃんが苦しそうにわき腹をさすりながら声を漏らした。

「いいですね、上に注意をひきつけてのボディブロー。これは効きますよ」

 解説者がイラケン選手をほめた直後、スケベニンゲンがそのわき腹の痛みを左フックに変えてイラケン選手の右頬へぶつけた。イラケン選手の上半身が大きく左へと流れる。

「うわー、当っちゃった。当っちゃったよ、しぃちゃん」

 ついに心配していた出来事が起きてしまったと私は慌ててしぃちゃんの肩を揺らす。

「もーう、かっちゃん落ち着いてよ。ボクシングではこれが当たり前のことなんだから。今のパンチでそんなにハラハラしていたらこの先体が持たないよ」

 「そのたびに揺らされていたら私の体も持たないよ」と、しぃちゃんは私の手をとった。

 イラケン選手の試合を決して見ようとはしない彼の両親の気持ちが少し分かったところで第五ラウンド終了のゴングがなった。

「このラウンドで初めて本格的なダメージを受けたとはいえ……。このラウンドもイラケン選手のものね」

 しぃちゃんがそう呟きながらパンフレットに何かを書いている。

「しぃちゃん、一体何を書いているの?」

 私がしぃちゃんのパンフレットを覗き込むとそこには「十」とか「九」とかいった数字が規則正しく並んで書かれている。

「何って……、これまでの採点結果だよ。かっちゃんやはるちゃんの持つパンフレットにも点数を書く欄が載ってあるでしょ」

 しぃちゃんに言われて私はパンフレットをよく見る。確かに載っている。まるで野球のスコアボードのような記入欄がイラケン選手とスケベニンゲンの写真の下にあった。

「ここに点数を記入して、試合の結果を予想していくんだよ」

 そう言ってしぃちゃんは私とはるちゃんに見えるようにパンフレットを広げた。第四ラウンドまでの合計得点は、審判の採点と同じだった。

「さすがボクシング好きなだけあるわね……」

 はるちゃんが半分呆れたように半分感心したような声を上げて、自分のパンフレットにしぃちゃんの書いた点数を写す。

 私も写そうとバッグから書くものを探しているうちに第六ラウンド開始のゴングがなってしまった。スケベニンゲンは先ほどと同じく低い姿勢を取り続けている。

 

 イラケン選手が前のラウンドのようにスケベニンゲンの頭へパンチを二発打った後、そのわき腹へパンチを打ち込もうと体勢を低くしたときにその事故は起こった。

 同じ手は二度も食わないとスケベニンゲンも頭を低くして前に出る。次の瞬間、今までパンチから出ていた音とは違う異常な音が後楽園ホール内に大きく響いた。そして両者が顔を抑えながら後ろへとよろめく。よくみるとスケベニンゲンはおでこを、イラケン選手は右目を抑えている。

 レフェリーによって抑えられた手が離され、イラケン選手の顔があらわになった。彼のまぶたの上の部分に数センチほどの赤い線が引かれている。その線の正体は傷口だということが分かった瞬間、私は小さな悲鳴を上げ、口を押さえた。

 レフェリーが試合を止めて誰かを呼ぶ、呼ばれた誰かがイラケン選手のまぶたをじっくりとながめる。どうやらお医者さんのようだ。

「ねぇしぃちゃん、イラケン選手怪我しちゃったけど、この試合どうなるの」

 はるちゃんの顔が少し青ざめている。

「偶然起こった事故だから……。このままでは試合ができないとお医者さんが判断したら、今までの採点結果で勝者が決まるよ」

 しぃちゃんがイラケン選手をじっと見つめながら答える。

「今までの採点結果ってことは……。このまま終わればイラケン選手の勝ちってこと!?」

 今まで青ざめていたはるちゃんの顔が、途端に明るくなった。このまま試合が終わればイラケン選手の勝ち――。この事実は私にとっても気分がよくなる材料だ。

「このまま試合が終われば、ね。もし試合が続行となったら……」

 今まで落ち着いて受け答えをしていたしぃちゃんが、「ああ……」と声を漏らして唇を噛み、答えを詰まらせる。

「続行だったらどうなるの?」

 私はしぃちゃんの左肩を強く掴んで揺らした。

「もうすでに血が目に入っているわ。イラケン選手の右の目は血のせいであまり見えない。このまま試合を続ければ続けるほどイラケン選手にとっては不利に……」

「大変お待たせいたしました。試合を再開いたします」

 しぃちゃんの答えを遮り、試合続行という私たちが望まない結果がリングアナウンサーから伝えられた。ホール内にイラケン選手を応援する声や、悲鳴や様々な声が入り混じって響き渡る。

「どうしよう……。試合続行だよ……」

 明るかったはるちゃんの顔が再び青くなっている。

「まだポイントではイラケン選手のほうが上だよ。その間はスケベニンゲンもイラケン選手の傷口を下手に広げようとすることはできない。イラケン選手が勝っているうちに試合が終わったらスケベニンゲンの負けだからね。だからスケベニンゲンのパンチを打つ範囲が限られている間になんとかなればいいけど……」

 今はまだイラケン選手が有利だが、時間が経てば経つほど彼が不利になるのは間違いないのだ。

 血止めした右の目をかばいながら、イラケン選手は再びスケベニンゲンのわき腹を執拗に狙いだした。もちろん頭への攻撃も忘れていない。私たちはマイクに声を拾われることを気にせず、精一杯の大声でイラケン選手を応援した。

 しかし、あのアクシデントで試合の流れは完全に変わってしまったようだ。今までほとんど受けなかったスケベニンゲンのパンチを何度も顔に受けるようになった。

「しぃちゃん、当っているよ。当っちゃっているよー」

 私は目を潤ませながらしぃちゃんの左肩を揺らした。

「かっちゃん、落ち着いて! イラケン選手のボディブローも確実に当っているから!」

 落ち着いて、と言うしぃちゃんだが声が先ほどよりも高くなっている。

 なんとか自分を落ち着かせて試合を見ようとすれば確かにしぃちゃんの言うとおりで、スケベニンゲンはイラケン選手がパンチを受け続けるので油断したのかわき腹への防御がおろそかになったようだ。試合の序盤よりもわき腹にボディブローを受ける数が多くなった。今までは当っても単発だけだったが、二発三発とスケベニンゲンのわき腹に連続でパンチが当る場面も見られた。

 それでもパンチを多く受けているのはイラケン選手だった。右目の傷口から再び開かれ、片方の左の目には青あざができる。目だけではなく頬もあざだらけになっている。

「苦しいですけどねー。根性でボディブローを打ち続けてほしいですよねー」

 解説者が精神論を語りだした。


 そして第八ラウンド残り一分――。ボディブローを打とうと腰をかがめたイラケン選手の右頬にスケベニンゲンの左フックが振り下ろされた。イラケン選手のパンチがスケベニンゲンのわき腹に届く前に、赤いグローブがイラケン選手の右頬を大きく曲げた。

 イラケン選手の右頬を捉えたスケベニンゲンの左腕が大きく伸びる。その左腕に導かれるように――というか押し付けられるかのようにイラケン選手の上体は青いリングに倒れた。

「しぃちゃん、イラケン選手倒れちゃったよ」

 私とはるちゃんが同時にしぃちゃんの両肩を揺らす。

「まだ、まだ終わらないよ! テンカウント取られていないから!」

 倒れてからレフェリーが十数えるまでに立ち上がらないとKOケーオー負けとなってしまう。ところがイラケン選手はレフェリーが五本の指を立てても立ち上がらない。

「しぃちゃーん。立たない、立たないよー」

 私は今にも泣き出しそうな声を上げた。

「大丈夫、時間を稼いでダメージを回復しているだけだから、十までには必ず立つから」

 私とはるちゃんに揺らされながらしぃちゃんが気丈な声を上げる。私たちを励ましているのか、それとも自身を励ましているのか――。

「それより肩を揺らすのはやめてよー。私、目が回っちゃうからー」

 しぃちゃんに言われて私は彼女の肩から手を離した。しぃちゃんの肩を揺らすのはもうこれで何度目だろう。

 イラケン選手はカウント八つ目で立ち上がりレフェリーに試合続行の意思を伝えるファイティングポーズをとった。レフェリーが試合を再開すると、イラケン選手は足を引きずるようにしてスケベニンゲンへと向かう。やはり先ほど受けたパンチのダメージは大きいようだ。

 ここでスケベニンゲンがさらなる攻撃に転じればイラケン選手の負けは必死だっただろう。しかし、そうはならなかった。スケベニンゲンの動きが慎重になったのだ。絶対倒せると思ったパンチで相手を倒せなかったので、動揺しているのだろうか。

 イラケン選手がスケベニンゲンの攻撃を交わしながら何とか一発わき腹に青いグローブを突き刺したところで第八ラウンド終了のゴングはなった。このラウンド終了後に二回目の途中結果が表示される。

(イラケン選手の勝ちでありますように……)

 私は祈るような思いで電光掲示板を見つめた。しかし結果が表示されると私は大きく肩を落とした。周りの観客からも悲鳴や落胆の声が聞こえてくる。

 審判の三人のうちの二人が七十六対七十六で引き分け。もう一人は七十七対七十六でスケベニンゲンの勝ちと判定したのだ。

「しぃちゃん、並ばれちゃったよ。どうしよう」

 はるちゃんはもう泣きそうになっている。しぃちゃんは何度も肩を揺らされ目を回しそうになっている。

「大丈夫だよ、まだ勝てるチャンスはあるから! 絶対あるから! だから揺らさないで!」

 しぃちゃんは電光掲示板から眼を離さず、しっかりと声を張り上げた。

 そんなしぃちゃんの顔色が少し優れないのは採点結果を見た反応なのか、それとも軽く目を回しているからなのか――。そして、イラケン選手に勝てるチャンスがまだ残されているのか――。私にはさっぱり分からない。

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