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第三十話 赤の一族

 スケベニンゲンの入場曲が後楽園ホールに流れている。彼への観客の声援は先ほどのイラケン選手のそれとは比べてまばらだ。そのおかげで、

「世界チャンピオンのチャウワ・スケベニンゲンとその一家がまもなくこの後楽園ホールに入場します」

 という、アナウンサーの声が実況席の真後ろにいる私たちに聞こえてくる。

「ああっ、来ました。チャウワ・スケベニンゲンです。例のごとく家族で隊列を組んでの入場です」

 スケベニンゲン入場の知らせを聞いて私は背筋を伸ばして赤コーナーの向こう側を見た。列の先頭に見える人物はこの前テレビで見たスケベニンゲンとは似ているが別人だった。

「スケベニンゲン一家の隊列がこの後楽園ホールのリングへと歩みを進めています。先頭を行くのは父親でトレーナーのタブン・スケベニンゲン。その後ろを歩くのはボクシング世界ウェルター級二位のオソラク・スケベニンゲン。その後ろに登場です。本日の町田イラケン選手の対戦者、世界チャンピオンのチャウワ・スケベニンゲン。彼の後ろを弟で総合格闘家のマジデ・スケベニンゲンが守ります」

 後楽園ホールを四人のスケベニンゲンがリングへ向かっている――。この事実に私はおかしくて思わず噴出しそうになったがこらえた。何しろ私たちは実況席の真後ろにいる。下手に笑い声を上げたらその声がマイクに拾われて日本全国のお茶の間に私の笑い声が聞かれる恐れがある。

 はるちゃんは右手で口を押さえ、必死で笑いをこらえている。その隣で真剣にスケベニンゲンを見つめるしぃちゃんの姿とのギャップが、私の笑いをさらに誘った。

 周りの観客席からは笑い声は聞こえてこない。アナウンサーの実況の声が聞こえるのは真後ろに座っている私たちとその周りだけだからだ。

 そんな私たちにアナウンサーは追い討ちをかける。

「ああ、お母さんの姿が見えます。母親のソダテタ・スケベニンゲンが、赤コーナー側の席で一家の隊列を見守っています。抱えているのは祖父で元世界ベビー級チャンピオンのオレガ・スケベニンゲンの遺影です」

 五人目そして六人目と続くスケベニンゲンの登場に、私は左の膝を思い切り叩くことでこらえた。解説者がちらっと私のほうを迷惑そうに見た。笑い声は拾われなかったが、膝を叩く音はお茶の間に流れたかもしれない。

「もーう、かっちゃんもはるちゃんも何がそんなにおかしいのよ。私にはさっぱりわからないよー」

 しぃちゃんが半分呆れたような声で私たちに注意する。私とはるちゃんからしたら、逆にしぃちゃんになぜおかしくないの? と尋ねたいところだが、私は笑いそうになっている理由を答えることにした。

「だって……チャウワ・スケベニンゲンだけならともかく……他にもスケベニンゲンが五人もいるんだもん……」

 理由を聞いてもしぃちゃんは私たちに同意することなく平然と答えた。

「もーう、そんなの当たり前のことじゃない。だって家族なんだよ。苗字はみんな同じ『スケベニンゲン』じゃない。かっちゃんの家だって苗字はみんな同じ『御徒おかち』でしょう?」

 確かにしぃちゃんの言うとおりなんだけど……。

 そんな私たちの苦労を知ることもなく、チャウワ・スケベニンゲンは、父親のタブン・スケベニンゲンとともにリングに上った。チャンピオンベルトを争う二人がついに同じリング上に立ったのだ。


「青コーナー、十七戦十七勝十 KOケーオーミドル級世界一位、町田ーイラケーン!」

 リングアナウンサーの叫び声と同時にイラケン選手は青のコートを脱ぎ捨て観客の声援に右拳を高々と上げてこたえた。初めて見るイラケン選手の裸(上半身だけだよ)に私は少し顔を赤らめた。隆々と鍛え上げられた筋肉。腹筋が綺麗に六つに割れている。そして背中は一瞬肩甲骨が異常に盛り上がっていると思ったけど、やがてそれが背筋であることに気づく。

(これが、世界を目指すプロボクサーの体か……)

 いつも会うときに来ている黒いジャージの下はこうなっていたのか、と私は顔を赤くしながら彼の肉体を見続けた。

「赤コーナー、二十二戦二十勝一敗一分十五 KO、ミドル級世界チャンピオン、チャウワー・スケベーニーンゲーン!」

 声援と笑い声が入り混じる中スケベニンゲンは冷静にワン・ツーパンチの練習をする。彼の体もかなり鍛え上げられた筋肉に包まれている。反対側のコーナーにいるからよくは見えないけど、腹筋の割れ具合はイラケン選手のそれ以上だ。

 実況のアナウンサーとしぃちゃんの情報によれば、両者ともタフで根性があり、ダウンした回数はそれぞれ二回だけだという。

「二人とも滅多に倒れないけど、パンチの破壊力はあるからねー。絶対どちらかは倒れるよ」

 しぃちゃんが興奮気味に話している間にも試合のゴングは徐々に近付いている。レフェリーが選手の二人にルールを説明しているところだ。

 レフェリーの指示によって、両者の付き人がリングから離れる。私たちを含め、観客の興奮が地鳴りとなって後楽園ホールに響く。

「ラーウンドワーン!」

 激しい金属音が鳴り響いた後、イラケン選手とスケベニンゲンは一瞬グローブを合わせた後、素早く互いのコーナーへと離れた。四角い水色のマットの上を、二人の鍛え上げられたボクサーが動き回る。

 激しい打ち合いを期待していて私だが、両者は互いににらみ合って牽制しあっている。どちらかが近付けば、近付かれたほうは左のジャブをはなつ。パンチを打たれたほうは遠ざかる。また一方が近付く。このパターンの繰り返しだ。

「なに、この静かな試合は? 派手な撃ち合いとかないの?」

 はるちゃんが左ひざを叩きながら呟く。

「両者とも互いの様子を見ているんですねー」

 ちょうどいいタイミングで解説者がはるちゃんの呟きに応える。

「打ち合うのはまだまだこれからよ。お互いどのような闘い方をするか様子を見ているところなんだから」

 イラケン選手の試合はいつもこういう始まりだ、としぃちゃんははるちゃんに諭した。

 第一ラウンドはこのパターンの繰り返しで終わってしまった。両者互いのコーナーに戻って休憩に入る。

「次のラウンドこそど突き合いよ!」

「もーう、まだ早いってば、はるちゃん!」

 はるちゃんの発言になぜか関西弁らしきものが混じっている。


 第二ラウンドは第一ラウンドと様子が違っていた。スケベニンゲンが積極的に攻撃に出たのである。左右へと繰り出されるスケベニンゲンのパンチに対してロープを背負ったイラケン選手は上半身を左右に振ってその攻撃を必死に交わす。

 スケベニンゲンのパンチがホールの空気を切る音がここまで聞こえてくる。あんなパンチをまともに食らってしまったら普通の人はひとたまりも無いだろう。

「そこだー、打ち返せー!」

「イラケン選手ー!そこでパンチー」

 私もはるちゃんにつられて声を出す。それに対してしぃちゃんは

「パンチをよく見て、パンチをよく見て」

 と防御面での声援を送る。さっきまで興奮していたのに、試合が始まる途端に冷静だ。いや、私たちのほうが彼女よりも興奮しているのだろうか。

 周りの観客からもイラケン選手が反撃に出るのを期待する声が上がる、その期待に応えるかのように、第二ラウンドの後半からイラケン選手が反撃に出た。

 スケベニンゲンの攻撃の合間を縫って、鍛えられたスケベニンゲンのわき腹に右のボディブローを当てていったのだ。数え切れないほど別れているスケベニンゲンの腹筋に青いグローブが突き刺さる。

 私がこのパンチを受けたら、そこから折れるようにして倒れて今まで食べてきたものを全て吐き出すことは確実だろう。しかしスケベニンゲンは世界チャンピオンである。パンチが当たっても攻撃の手を緩めない。私が汚い想像をしている間も激しくイラケン選手を攻め続ける。

 それでもイラケン選手は冷静にパンチをよけながらスケベニンゲンのわき腹を狙い続ける。スケベニンゲンもイラケン選手の狙いが自分のわき腹と分かればなかなかそこに隙を見せない。それでもイラケン選手は執拗にわき腹を狙い続ける。

「いいですねー。パンチをかわしてボディブロー、これで試合の主導権を握りたいですねー」

 解説者はイラケン選手の試合展開に満足しているようだ。

「ほんとにこれでいいの? しぃちゃん」

 解説者の言い分に納得できない私はしぃちゃんに尋ねた。パンチを打ち続けているのはスケベニンゲンのほうである。

「うん、これでいいよー。攻撃の数はスケベニンゲンが多いけど、当たっているパンチの数はイラケン選手のほうが上だよ。スケベニンゲンが四、五発当たらないパンチを打てばイラケン選手は確実に当たるボディブローを打つんだもん」

 しぃちゃんは満足そうに答える。激しく肉が打たれる音が私の耳に届いた。イラケン選手のボディブローがまたスケベニンゲンのわき腹を直撃した。ついさっき食べたばかりのラーメンを思い出しながら私は思わずわき腹をさすった。

 そんな想像をしながらも、私はスケベニンゲンの赤いグローブがいつイラケン選手の直撃するのかとハラハラしている。

 「イラケン選手のボディブロー対スケベニンゲンの右ストレート」というしぃちゃんの以前の予想とは全く逆の展開が数ラウンド続いた。


 第四ラウンドが終わったところで、三人の審判からこれまでの採点の途中結果が発表される。三人とも三十七対四十と三ポイント差でイラケン選手のリードという判定だった。スケベニンゲンが何発もボディブローを受けているのに対してイラケン選手はほぼ無傷だ。

 後楽園ホール中がその結果に歓喜の声を上げた。

「えっ、これってイラケン選手の勝ちってこと?」

 はるちゃんが、半分戸惑いながら、半分喜びながらしぃちゃんに尋ねる。

「これは途中経過だよー、はるちゃん。試合がこの状態のまま続けばイラケン選手の勝ち、っていう意味だよー」

 落ち着いて答えるしぃちゃんだが、イラケン選手のリードを知ってその喜びが少し口調に現れている。

「だけど、相手は世界チャンピオンだからねー。そう簡単にはいかないと思うんだー。何か大きく試合が変わりそうな気がする……」

 第六ラウンド――しぃちゃんの予想は的中する。

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