第二十九話 青のテーマ曲
今日はいよいよイラケン選手とチャウワ・スケベニンゲンの対戦の日だ。私はペルを連れて谷中霊園に来ている。今日私がペルの散歩をしているのはお祖母ちゃんがいないからではない。イラケン選手から今夜の試合のチケットをもらいに来たのだ。
いつもの時間にイラケン選手は黒ジャージとフード姿で現れた。ペルが鼻を鳴らして彼に飛びつく。
「よーし、よしよし。お前は今日も元気だな」
試合の日だと言うのに、イラケン選手には緊張の色が見られない。いつも通りペルの頭とお腹を撫で撫でする。
「おはようございます、いよいよ今日ですね」
「おはよう、真知さん」
イラケン選手はいつも通りの挨拶をすると、三枚のチケットを私の前に出した。
「はい、これ約束のチケット。ジムの会長に頼んで、リングからかなり近い席を確保したから」
「うわー、ありがとうございます。みんな喜びますよー」
私は嬉しさのあまり危うくペルの紐を離しそうになった。がっちりと左手でペルの紐をつかんで、右手で受け取る。
「そういえば、イラケン選手のご両親は今日来るんですか?」
聞けばスケベニンゲンは家族を連れて来日しているという。イラケン選手も家族を試合に呼んでいるのだろうか。
「いや……、両親は来ないよ。いつも息子が人に殴られるのを見たくない、と言うんだ。だから後で結果を電話で伝えるわ」
「そうなんですか……」
息子が痛めつけられる可能性も覚悟した上で、その雄姿を見届けようとする親がいる一方で、その可能性のために息子の試合を見るのを拒否する親もいる。
「いやいや、真知さんが落ち込むところじゃないから、ほんといつものことなんだから気にしないでくれ、たぶん息子の試合を見るのが心臓に悪いんだろうね……」
確かに仮に私のお祖母ちゃんがイラケン選手の親なら、昔悪くしていた心臓が再び悪くなりそうだ。
「両親は試合を生で見ることはないだろうけど、俺は彼らが誇らしげに思ってくれる試合をするつもりだ」
そう言うとイラケン選手は立ち上がり、ジムへと走り去っていった。立ち去り方もいつも通りだった。
その夜、私としぃちゃんとはるちゃんの三人は、大勢の人とともに後楽園ホールにいた。
私は後楽園ホールの中をテレビでしか見たこと無いので、すごく広いところと想像していたのだが、実際は思ったより小さかったので驚いてしまった。本当にここであの大喜利を収録しているのだろうか? と疑問に思ってしまうほどの広さである。
「私、小さいころお母さんと大喜利の収録を見に行ったんだけど、その時はすごく広いホールだと思っていたのに……今日はなんだか小さい気がするわ」
はるちゃんも私と同じことを思ったらしい。不思議そうに首を傾げる。
「それははるちゃんが大きくなったからだよ」
小さいからだのしぃちゃんは、人に揉まれながらもなんとか私たちについて来ている。
「確かチケットに書かれてある番号では席はこの辺りなんだけどね……」
私たちはもうリングのすぐ側、青コーナー側に作られた実況席の近くまで来ている。この辺りの席はみんなパイプ椅子だ。
「……ひょっとして私たちの席ってここじゃない? 席番号とチケットの番号合っているし」
はるちゃんが指差した場所はなんと実況席の真後ろだった。実況席にはアナウンサーの席のほか、数名の解説者の席が用意されている。私たちは試合をかなり近くで見られるだけではなく、試合の実況をすぐ側で聞け、さらに詳しい解説まで聞ける席に座ることになるのだ。
「うわー、すごい。前にボクシングの試合は何度か見に来たことあるけど、こんなに近い席は生まれて初めてだよー」
しぃちゃんが喜びの声を上げながら、勢いよく自分の席に着く。私たちは左からはるちゃん、しぃちゃん、私の順に席に着いた。
さあすぐにイラケン選手の試合が始まるぞ! ということには残念ながらならない。今日行われる試合は他にも何試合かあって、イラケン選手の試合は最後のメインイベントだ。
私たちはそれらの試合を見ながら一人ずつ食べ物を買いに行ったり、トイレに行ったりを繰り返している。これはイラケン選手の試合を一瞬たりとも見逃さないためである。トイレに行っている間に試合が終わっていたなんて情けないことにはなりたくない。
セミファイナルの試合が行われる中、私は最後のトイレに行こうと立ち上がる。はるちゃんの前を通り過ぎるとき、彼女が私の腕をつかんだ。
「ついでにポテトフライとウーロン茶買って来て!」
「あー、私にも同じものをお願い」
しぃちゃんが申し訳なさそうに手を上げる。二人とももう席を離れないつもりのようだ。こうして私は二人のお使い役となってしまった。
トイレは幸い空いていたけど、売店ではみんな同じことを考えているのか長蛇の列ができていた。私はセミファイナルの試合がすぐに終わらないことを祈って列の一番後ろに並ぶ。
その時、後ろのほうから
「あっ、御徒さんだ」
と私を呼ぶ声がした。振り返ると、片倉君ともう一人がいた。確かもう一人の名前は……、細いほうだから長瀞君か。がっちりしたほうの君ヶ浜君は荷物番でもしているのだろうか。
「あれー、片倉君も試合を見に来たんだ」
「そうだよ。一番安い自由席だけど」
片倉君たちも飲み物を買いに来たのか私の後ろに並ぶ。
「えーと、確か御徒町さん……」
「御徒真知です」
細いほうが失礼なことを言ったので、私はムキになって言い返す。
「そ、そうだったね。御徒真知さん……」
私の機嫌悪そうな顔を見て彼は慌てて訂正した。「御徒」と「真知」の間をかなり空けて。
「御徒さんが来ているってことは……椎名さんや伊井国さんも来ているんだね」
片倉君が空気をなんとか良くしようと話題を変える。
「うん、そうだよ。私たちは実況席の真後ろで観戦しているんだ」
しかもそのチケットはイラケン選手からのプレゼントだから私たちはただで観戦している。
「えっ、嘘!? あそこの席ってかなり高いじゃん!」
片倉君が驚きの声を上げる。長瀞君は席の値段を勘定している仕草をしている。
「うーん、まあお気に入りの選手の試合だからね……。夏休み一生懸命アルバイトをした甲斐があるってものよ」
私の言っていることは半分嘘で半分本当である。イラケン選手からチケットをもらえると思っていなかった私たちはチケット代を稼ぐためにアルバイトに励んだのだから。
「そうか……二人も来ているのか……」
落ち着きを取り戻した片倉君がちょっと嬉しそうな声を上げる。私はなぜ彼が嬉しくなったのか気にはなったが(もっとも心当たりはあるのだが)私が飲み物を買う順番が来たので、話はそこで終わり、それぞれの席へと戻っていった。
私が席に戻ってきたときにはセミファイナルの試合は既に終わっていて、メインイベント前の休憩時間だった。
「はい、はるちゃんしぃちゃん。ポテトフライとウーロン茶だよー」
レストランのウェイターになった気分で私は二人にポテトとウーロン茶を渡す。
「うわーい、ありがとーかっちゃん」
二人は同時に声を上げる。はるちゃんの声は少し低めだから、二人の声は見事なハーモニーとなって私の耳に届いた。
「そう言えばさっき売店の前で片倉君たちに会ったよ。彼らは自由席にいるみたいね」
「へー、そうなんだ。偶然だね」
しぃちゃんがポテトフライを食べながら言う。彼女の口調は普通であった。
「それよりもあと一分したらイラケン選手がこのリングへ上がるんだよ」
はるちゃんが興奮の声を上げる。私が戻ってきたのはかなりギリギリだったようだ。
「そうだよ、かっちゃん。もうすぐ選手入場なんだから! 間に合って本当によかったよ」
さっきの口調とはうって変わってしぃちゃんの口調は急に激しくなった。
「イラケン選手の入場曲、私すごく気に入っているんだから。またあの曲が聞けると思うと楽しみだなー」
すっかり興奮モードに入っているしぃちゃんが言うには、イラケン選手の入場曲は、毎度軽快な「スカ」を発表して人気を集めているあのグループが、「イタリアマフィアのドン」と呼ばれた男の生涯を描いた映画のテーマ曲を、「スカ」風にアレンジしたものだという。
「あー、私そのグループのアルバム全部持ってるよー。私もあのグループ大好き。楽しみだなー」
はるちゃんが喜びの声を上げる。彼らが演奏している側でその曲に合わせたダンスを踊るのが将来の夢の一つだ、とはるちゃんは言った。
そんな話をしている間にもリング上ではすでにリングアナウンサーがその中央に立っていた。
「これより、ボクシング世界ミドル級タイトルマッチを開催します」
後楽園ホールいっぱいに大歓声が巻き起こる。どこからか「イラケン」コールが聞こえる。私たちもその声につられて「イラケン!」と叫んだ。
その声に負けないようにリングアナウンサーが大声を上げる。マイクの力を借りていても普通の音量では聞こえないほどの大歓声なのだ。
「青コーナーより、挑戦者町田イラケン選手の入場です!」
「さあ、来るわよ。あのテーマ曲が」
はるちゃんがそわそわしながら楽しそうに声を上げる。しかしはるちゃんとしぃちゃんの期待は大いに裏切られることになってしまうのだ。
後楽園ホール内に流れ出したその曲は。「イタリアマフィアのドン」のテーマ曲ではなく、なんと『やんちゃ将軍江戸日記』のオープニングテーマだったのだ。徳川吉宗が馬に乗って砂浜を走る。あのテーマ曲だ。
はるちゃんとしぃちゃんは想像していた曲とは違ったものが流れたので、呆然としていたが、それも一瞬のことで、すぐに「イラケン」コールをあげる。はるちゃんに至っては時々「将軍!」が混じっている。
それは他のファンも同じ事で「イラケン」コールと「将軍」コールが混じって聞こえてきた。
「イラケン」コールをあげながら、私はあの日――イラケン選手が町平健さんに会った日――にイラケン選手が言ったことを思い出した。
「それと、あともう一つお願いというか……許可をもらったんだ」
町平健さんがイラケン選手にお願いした、というか許可したことってこのことだったのではないだろうか。
「はるちゃん、しぃちゃん。この曲はきっと町平健さんがイラケン選手にくれたプレゼントなんだよ」
「うん、そうだね。さすがは将軍様だね」
二人はまた見事なハーモニーを私に聞かせてくれた。
曲も観客の興奮も最高潮に達したところで、ついに馬に乗った将軍様……じゃなくて青いフード付コートをまとったイラケン選手が同じジムの人に守られながらその姿を現した。
「あ、はるちゃんかっちゃん、見てみて。木久蔵さんがいるよ」
しぃちゃんが指差すその先には腹打木久蔵さんが、しっかりと胸を張って。集団の先頭を歩いていた。
「イラケン選手ー、木久蔵さーん」
私が大声を上げて手を振ると、二人は私に気づいて笑顔で右手を上げた。やがてイラケン選手はリングへ上がるとコートを高々と脱ぎ捨てた。
「履いているトランクスも青だね」
「自分が挑戦者であることをかなり意識しているんだと思うよ」
はるちゃんとしぃちゃんとの会話を聞いて私は今朝いつも通りに振舞っていたイラケン選手を思い出した。いつも通りの振る舞いを見せたその裏でかなり今日のこの試合を意識していたのだろう。
「続きまして世界ミドル級チャンピオン、チャウワ・スケベニンゲン選手の入場です」
ファンの数の違いと言うか、これがサッカーで言うホームとアウェーの差と言うのだろうか。スケベニンゲンの入場曲が聞こえても、ホールの興奮は先ほどとは違うものなった。観客からは一応声が上がっているものの、イラケン選手のときのそれとは明らかに小さく。実況席の真後ろにいる私たちには実況アナウンサーの声が聞こえている。
「いよいよスケベニンゲンが入場ね」
しぃちゃんが真剣な顔で赤コーナーの向こう側を見つめる。
スケベニンゲンはまだ、その姿を現してはいない。