第二十六話 合宿といえばカレーでしょ!
はるちゃんの誕生日から数日が過ぎ、八月に入ったある日の朝、私はまたお祖母ちゃんの代理としてペルと散歩をしていた。ペルお気に入りの猫ナナちゃんに会い、今度は谷中霊園で町田イラケン選手を待つ。
イラケン選手はお祖母ちゃんの言ういつもの通の時間に来た。ペルが尻尾を振って彼に飛びつくと、イラケン選手は
「よーしよし、今日も元気だなー」
と、ペルの頭を撫でた。そしてペルの紐をもっているのが私だと気づくと、
「今日は真知さんが散歩の相手か」
と被っていたフードを下げて黒い顔を私に見せた。イラケン選手は私のことを「真知さん」呼ぶちょっとレアな人である。(同じ苗字であるお祖母ちゃんと会っているから名前で呼び分けているのだと思う)
「お祖母ちゃんは今日、静岡に行っているんです」
ペル様ことペル・チャンデスが、静岡で韓国の旅番組の収録をしているのだ。
「そうか……、じゃあお祖母ちゃんに伝えてくれないか。しばらく会えなくなる、って」
横になっているペルのお腹を撫でながらイラケン選手は呟いた。
「会えなくなる、ってどこか行くんですか」
私が毎朝会っているわけではないのに、私は寂しそうにイラケン選手に尋ねた。
「試合の日程がまた変わってね。九月の上旬になったんだ。試合までもう一ヶ月しかないからこれから強化合宿に行くんだ」
「最初は八月末で次が九月末で……そして九月の上旬って、ころころ変わりますねぇ」
「試合の日程を決める主導権は向こうが握っているからね」
ほんとに困ったものだよ、とイラケン選手はため息をついた。
「私、イラケン選手の試合、友達と一緒に見に行きますから」
「そういえば君の友達が俺の大ファンだったよね」
しぃちゃんはボクシング選手の中でもイラケン選手が一番のお気に入りなのだ。
「はい、そうです。しぃちゃんです。しぃちゃんと、もう一人の友達のはるちゃんと一緒に見に行きますから」
はるちゃんの名前を聞いたとき、イラケン選手はちょっと口元を緩めた。
「はるちゃん……、確か右のハイキックを得意とする子だね」
イラケン選手ははるちゃんが後楽園で男の人にからまれたときに、彼女が蹴りを入れようとしたことをまだ覚えていた。
「よかったら近くで見られる席を三人分用意しておこうか」
「いいんですか、じゃあお言葉に甘えて三人分お願いします!」
「了解、それじゃあ練習があるんで」
そう言うとイラケン選手はペルから手を離し、立ち上がってジムへと走っていった。
「練習頑張ってくださいねー」
私はイラケン選手の背中へ大きな声援を送った。
「うわー、かっちゃん、お手柄だよー」
イラケン選手から試合のチケットをもらえると聞いたしぃちゃんは、私に抱きついてきた。八月の熱い昼下がりを私達は神奈川県の葉山にある大学の合宿所で過ごしている。
というのも、私達は女子ダンスサークルの合宿にお手伝いに行くことになったからだ。陸上部とか野球部など大規模なところは合宿も自分達で全てできるけど、女子ダンスサークルは好きな人が集まって活動することを大学に公認してもらったものだから、合宿をサポートするマネージャーや顧問などという人はいない。
さらに部員は十人と少ないため、合宿や大会などの大掛かりなイベントのときは部員の友達や知り合いに頼ることになってしまう。私としぃちゃんが合宿に参加するのは当然の流れと言うわけだ。(葉山までの旅費はサークルが出してくれるのだ)
私としぃちゃんは、メンバーの料理を担当することになった。
「近い席で見られるって……やっぱりかなり近い席なの?」
しぃちゃんに抱かれたまま私は彼女に尋ねる。
「おそらくすごく近い席だよ。リングの側かもしれない。時々観戦に来た芸能人がテレビに映るでしょう。あの辺りになるんだよ、きっと」
ボクシングや格闘技の試合をテレビですら見たことない私はその近さがどういうものか実感できない。ただ、芸能人が側で見られるのは確かなようだ。
「そうかー、リング側かー。初めてだなー」
私から離れたしぃちゃんがうきうきしながらジャガイモの皮をむく
(……でも席はリング側とは限らないんだよな……イラケン選手はただ近い席、としか言っていなかったし)
まあでもイラケン選手を信じてリング側で見られることにしようっと。
「かっちゃん。玉ねぎの色、もうそれで大丈夫だよ」
「うん、分かった」
私もしぃちゃんと同じく頭の中を料理モードに戻して玉ねぎを炒めているコンロの火を消した。
そして一時間後……今日の夕食が完成した。メニューは合宿やキャンプといえば定番中の定番であるカレーだ。ただ普通のカレーと違うのは、肉がひき肉であることだ。しぃちゃんが言うには、
「みんな合宿で疲れているでしょ。中には食べるのも嫌になるほど疲れている人もいるかもしれない、だから、あまり噛まずに食べられるように肉をひき肉にしたんだよ」
ということだ。当然、肉以外の野菜も柔らかく煮込んでいる。それでいて形が崩れていないのは、料理を得意とするしぃちゃんのなせる技というところだろう。
「しぃちゃん、このカレーものすごく美味しいよ」
味見のつもりだったのだが、あまりの美味しさに感激して私はカレー皿にして半分くらいの量を食べている。
「そう、そんなに感激されるとうれしいな。たくさんあるからまだ味見していいよ」
しぃちゃんは照れながら小さじスプーンで味見をする。自分の味に納得がいったのか、「うん」と笑顔で頷いた。
「でもしぃちゃん、これ十二人分にしてはちょっと多すぎない?」
ちょっとどころかかなり多い。炊けているご飯の量とはアンバランスである。
「大丈夫だよ、かっちゃん。これ、明日の朝の分も入っているから」
「えっ、明日の朝もカレーなの!?」
私が手にしていたスプーンが音を立てて皿の上へ落ちる。
「一晩寝かせたカレーは作りたてのよりもっと美味しくなるんだよ」
しぃちゃんは自信たっぷりに小さじスプーンを私の目の前に掲げる。確かお母さんも同じことを言っていたような気がするな……、と私は我が家の食卓事情を思い出した。カレーが夕食に出る翌朝のメニューは必ずカレーだった。確かに朝のカレーは美味しかったと私は納得する。
ドアの外から笑い声が近付いてくる。練習を終えた部員達が戻ってきたのだろう。ただ気になるのは、なぜかその笑い声の中に男の人の声が混じっていることだ。
「あー、疲れたー。今日の夕ご飯は何―?」
はるちゃんと明石先輩が疲れた顔をして入ってきた。いつも笑顔の明石先輩は珍しく疲れた顔をしている。
「はるちゃん、明石先輩、お疲れ様。今日のメニューはカレーですよ」
コップにスポーツドリンクを入れて二人に渡す。はるちゃんはカレーと聞いてコップの中身をこぼしそうな勢いで喜んだ。
「カレー? 私カレー大好き!?」
鍋にたくさん入ったカレーを見ながらはるちゃんは嬉しそうにスポーツドリンクを飲み干した。明石先輩の顔もいつもの笑顔に戻っている。
「かーっ、この一杯のために生きている!」
「遙、それじゃあ飲んだくれのおじさんだよ」
私の心の中での突っ込みを明石先輩が代弁してくれた。
「そういえば、男の人の声がしたのですが、誰か私達の他にここを使う人がいるんですか?」
しぃちゃんが、鍋の入っているカレーをかき混ぜながらカレーの香りを楽しんでいる明石先輩に尋ねる。
「そうなのよ、他にも使っている人がいるの! それはね……モゴッ」
明石先輩がはるちゃんの口をふさいだ。
「誰だと思う? 聞いて驚かないでね」
明石先輩はいかにも楽しそうな笑顔を浮かべている。私達が驚くことにかなりの自信があるのだろう。
しかし、その明石先輩の楽しみは潰れる。なぜなら明石先輩が言う前にその人物がこの部屋に入ってきたからだ。
「よーし、今日の夕食を作るとするか……、って君たちは!?」
「町田イラケン選手!!」
私としぃちゃんはほぼ同時に叫んだ。私のほうがしぃちゃんより声が低いので見事なハモーニーを奏でただろう。……なんてことはどうでもいい。
「なぜイラケン選手がここに!?」
合宿に行くことは分かっていたけど、ここの合宿所を使うなんて……。
「大事な試合の前はいつもこの合宿所を使っているんだ。文京大学はジムに近いから借りる手続きが取りやすいんだ。……そうか君達は文京大学の生徒だったね」
「もう……せっかく驚かせようと思ったのに……。二人は知り合いだったのね」
いつも笑顔の明石先輩は珍しくつまらなそうな表情でカレーをかき回した。
「あれ、明石先輩言っていませんでしたっけ?」
はるちゃんがちょっと意地悪そうに明石先輩に尋ねる。
「そんなの聞いてないよー、遙も知り合いなの?」
そういえばダンスサークルの部室でボクシングの話あまりしていなかったな……。
「私もイラケン選手と知り合いなのよ」
と、浅野先輩が部屋に入ってきた。前にもダンスサークルとイラケン選手のジムの合宿が重なったことがあり、浅野先輩はそこでイラケン選手と会ったのだ。
「イラケン選手……よかったら夕食一緒に食べませんか? 練習で疲れているのにこれから料理を作るなんて大変でしょう?」
「えっ、いや……それはありがたいけど……、一応会長の許可を得ないと……。俺からはなんとも……」
イラケン選手はちょっと慌て気味に言うと部屋を後にした。顔が少し赤くなったところをみると照れているのだろう。そりゃそうだ、今まで男だらけのボクシングの練習だったのに、食事は女の子と一緒になるのだから。そんな照れたイラケン選手の部屋を出る姿見て私は微笑ましい表情になった。
ジムの会長の許可が下り、女子ダンスサークルと鯉ヶ崎ボクシングジムのメンバーあわせて二十人がしぃちゃんのカレーを食べることになった。しぃちゃんが朝ごはん用に多めに作ったので、カレーの量は充分ある(ご飯は足りないけどね)。しぃちゃんのカレーはジムのメンバーにも好評で、中には
「うめー、実家のラーメンが一番ならこのカレーは二番目にうめー」
と泣きながら食べる選手もいた。
「あの泣いている人がこの前試合した腹打喜久蔵選手よ。彼の実家はラーメン屋さんなの」
と、しぃちゃんが小声で泣いている選手を指差した。
あの人がボディーブローの強い喜久蔵選手か……、と眺めていた私だったが、私の視線は喜久蔵選手の前にいるイラケン選手に向けられた。彼の皿にはカレーではなく二本のバナナが置かれているだけだったのだ。
「イラケン選手……どうしたんですか、ひょっとしてカレー嫌いですか」
私はイラケン選手に尋ねた。カレーが嫌いならば余った材料で何か彼のために作ってあげよう、と私は思っていた。
「うん、いや……カレーは好きだよ。ただ……」
「ただ?」
肉がひき肉じゃないのが気に入らないのだろうか。
「試合のために減量しないといけないから……。今日はバナナで」
そういえばしぃちゃんから聞いたことがある。ボクシングには体重別に階級が分かれていて、選手は試合が近付くとその階級で定められた体重にするために食事を制限するのだと。
「減量ですか……。そういうときにみんなでカレーを食べようって、誘ったりなんかして……」
誘ったのは浅野先輩だけど、私はイラケン選手に対して申し訳ない気持ちになった。
「いや、君が謝ることじゃないよ。ボクシング選手にはいつものことだから。今日は好きなカレーの香りをおかずにバナナを食べることにするよ」
試合が無いのでカレーを腹いっぱい食べる人もいれば、試合が近いから好きなカレーを我慢する人もいる。ボクシングの世界は大変なんだなぁと思いながら私は席に戻った。
数分後、イラケン選手は私の席に来た。
「……やっぱり俺もカレーをもらおうかな……。ただしルーだけ、ジャガイモは抜きで」
カレーの香りに我慢ができなくなったのだろう。イラケン選手は照れた表情で私の前に皿を置いた。
「はい、カレールーのみ、ジャガイモ抜きですね」
私はカレー屋の店員になった気分で応える。
「イラケン選手に私の作ったカレーを食べてもらえるなんて私幸せです!」
しぃちゃんは一人で幸せの世界に入ってしまって、イラケン選手にカレーをよそうどころではなくてっている。
しぃちゃんに代わって私がイラケン選手にカレーをよそう係になった。イラケン選手とともにカレー鍋あるところへと歩く。皿にカレーをよそおうとしたところ、喜久蔵選手が
「お姉さん、カレーお替り」
と、皿を私の前に突き出してきた。
「喜久蔵、お前は俺の次だ。後ろへ並べ」
イラケン選手が笑顔で注意すると喜久蔵選手は申し訳なさそうに頭を掻きながら
「どうもすいません」
と、イラケン選手の後ろへ回った。次の瞬間喜久蔵選手の悲鳴が上がった。
「あ、痛っ」
「どうしたんですか、喜久蔵さん?」
私からは喜久蔵選手はイラケン選手の影で見えないところにある。
「いや、こいつは時々おかしな癖があって、何でも無いのに悲鳴を上げるんだ。なぁ喜久蔵?」
「え、ええ……、これはちょっとした癖でして……」
喜久蔵選手は再び頭を掻きながら
「どうもすみません」
と呟いた。
後で明石先輩から聞いた話だが、あの時イラケン選手は喜久蔵選手の足を思いっきり踏んだそうだ。
自分が好きなカレーを我慢している隣で遠慮なくお替りを注文する――。イラケン選手、きっと悔しかったんだろうな。