第二十一話 試練の季節
大学一年目の学生たちにとって七月は最初の試練の時期である。履修している授業の前期課題提出期間とテスト期間になるからだ。
授業の大半は、一年間行われる「通年」と言われるもので、前期課題と後期課題の評価が良い生徒が単位を与えられる。教授によっては、さらに普段の出席率や授業中の小テスト・小論文の結果も反映する。
極端に言ってしまえばこの七月の前期課題がダメならば、あとの約五ヶ月間どれだけ出席しようが頑張ろうが無駄なのだ。授業期間が半年しかない授業ならばこの七月に提出する課題やテストで全てが決まる。
「……しぃちゃん、この授業って、レポートだっけ?それともテストだっけ?」
時間割を手に私はしぃちゃんに尋ねる。十七教科も履修している現状ではその一つ一つの評価方法を覚えるなど至難の技だ。
「『近代日本文学史』はレポートだよ。でも提出期限は夏休み明けだから今やる必要なし」
「あー、よかったー。これも今週までだったら私どうしようかと思ったー」
伊井国教授の「日本史」以外にも私はすでに来週提出期限のレポートを三つ抱えているのだ。そのうちの一つはすでに完成し、「日本史」はこの「しぃちゃん家合宿」で片付けるとして、残る二つを来週中に終わらせなければいけない。
「しぃちゃんの家合宿」ももう二日目、つまり土曜日に入っている。週末くらい遊びたいものだけど、この時期に遊んではいられないよなー。
「ところでしぃちゃんとはるちゃんは、来週中に出さなければいけないレポートってどれくらいある?」
「私はこれも入れてあと三つかな。あと再来週提出するのが一つ」
そうだ私も再来週提出するレポートが一つあるんだった……。しぃちゃんの答えに私は落ち込む。
「私もしぃちゃんと同じく三つ。そして再来週は二つ」
はるちゃんのほうが私より厳しいのか……。
「というわけで、再来週の『心理学A』のレポートのためにかっちゃん、ノートをコピーさせてね」
はるちゃんの甘えるお願いに対して私の顔は青ざめた。
「『心理学A』もレポートなのー!!」
「あれかっちゃん、知らなかったの?」
来週の三つに再来週の二つ……。たまっていくレポートの量に私は目を廻しそうになった。レポートをクリアしたところで、その次には前期テスト期間が待っている。
「かっちゃん、そんなに落ち込むこと無いって。だってレポートやテストって大学生なら誰もがやっていることでしょ。みんなができること私たちができないわけ無いじゃない」
「それはそうだけどさ……」
はるちゃんの言うとおりなのだが、初めての体験だからなぁ……。
「ほら、いつものはったりを言うかっちゃんはどこへ行ったのよ。こういうときこそ根拠のないはったりをかます時期でしょ」
「そうだよ、やる前から落ち込んでいるなんてかっちゃんらしくないよ。今こそはったりパワーの見せ所だよ」
二人とも私を励ましているのだろうが、「はったりパワー」はないでしょう。
「そうね……。それじゃあその力を使ってみますか」
そう言って私はシャープペンシルを手に背筋をしゃんと伸ばした。「はったりパワー」のおかげ(?)で、「日本史」のレポートは午前中で片付けることができた。しぃちゃんもはるちゃんも同じ頃に「日本史」のレポートにホチキスを閉じた。
しぃちゃんが午後から「御団子」でのアルバイトなので、私たちは大学で他のレポートに取り掛かることにした。
「大学は本がたくさんあるから参考書には困らないよ」
「そうね、この土日で取り組めばいくつか片付けることができるかも」
図書館に入りまずは席を探す。この時期はレポートやテストが近いので、土曜日とはいえ、図書館は学生達が多い。彼らの中には真面目に課題に取り組んでいる者もあれば、集中力が切れたのか、友達と小声で話をしている者。集中力だけではなく体力も切れたのか、机に突っ伏して眠っている者もいる。
そんな中でやっと二人並んで座れる席を確保した私達は、立ち並ぶ本棚の列から哲学に関する本を探し出す。
「おや、お二人さん。探し物ですか?」
高いところにある本も手に取れるようにと図書館に用意されているタイヤつきの脚立――というか階段か――を転がしながら、いつも明るい笑顔の明石先輩が現れた。
「はい、『哲学』のレポートの参考になる本を……」
はるちゃんが明石先輩の持つ階段を支えながら答える。
「『哲学』かぁ。レポートのテーマはずばり、プラトンについてでしょう」
まさしく「哲学」のレポートのテーマは古代ギリシアの哲学者「プラトン」である。
「先輩もひょっとして『哲学』の授業をとっているのですか」
私達よりもレポート慣れしている明石先輩が同じ授業をとっているならばとても心強いことだと私は思った。
「残念だけど、『哲学』は去年やったのよ。でもあの先生は大のプラトン好きで毎年前期のレポートは必ずプラトンをテーマにすることで有名なの。だからひょっとしたらと思って」
「毎年プラトンを出すってことは、明石先輩もプラトンのレポートを書いたのですね」
はるちゃんがわくわくしながら明石先輩に尋ねる。はるちゃんがわくわくしているということはひょっとして……。
「そうだよー」
予定の位置に階段をつけたので、明石先輩は段を上りながら答える。
「先輩!そのレポート私達に見せてもらえますか。いえ、何もコピーするってわけじゃないんです。ちょっと参考にさせてもらおうかなって……」
やっぱりそうきたか。私はこのわくわく顔のはるちゃんに何度ノートを見せたことだろう。
「うん、いいよ。だけど今日は持っていないから、渡すのは月曜日でいいかな?『哲学』は確か金曜日の五時限目でしょう」
「はい、それでも大丈夫です。三日あれば書けます!」
というか三日で書けなければ単位を落としてしまう。借りられるものなら借りておこうと私もしぃちゃんの企みに乗ることにした。
「その代わり、あなたたち二人には頑張ってもらうわよ」
明石先輩が明るい笑顔で楽しそうに言うのを見て
「やっぱりやめておきます」
と私達は同時に答えた。この人の「がんばってもらう」はとんでもないことだろうな。と本能的に思ったからだ。「ダンスサークルの部室に住む」とはるちゃんが言ったときの前例がある。(実際に「がんばって」って言ったのは浅野先輩だけど)
「そう、残念ね。でもまあレポートと言うのは自分の力でやりきることが一番よ。これからたくさんのレポートを書くんだから。いちいち人の書いたものを借りているなんてきりがないわよ」
そう言いながらも明石先輩は、自分が去年レポートで参考にした本を何冊か教えてくれた。そのおかげで「哲学」のレポートは土曜日中に完成することができた。
日曜日もレポート作成に明け暮れ月曜日は「経済学」のテストの日である。テスト期間は再来週からだけど、教授によってはスケジュールの都合で(他の大学でも教鞭をとっている人もいる)それよりも先にテストを行う場合もある。
経済学のテストにいどむのは、私としぃちゃんとはるちゃんの三人。そのうちはるちゃんはこの授業に出席するのは今日で四回目だ。欠席していた分は私としぃちゃんのノートを写すことで補った。そのおかげで、テスト範囲やその問題まで分かっている。
「大学生活は友達、知り合いを多く(いい意味で)利用した者が勝つ」と、誰かが言ったらしいが彼女はまさにその勝者だと思う。
「よーし、経済学はこれで完璧ね!」
テストまであと二十分もあるのに、はるちゃんは自信満々である。
「これもしぃちゃんとかっちゃんのおかげだよ」
「じゃあこのテストが終わったらとんかつ定食おごって」
「うんおごるよ、とんかつ定食。売り切れていなかったらの話だけど」
はるちゃんめ……。とんかつ定食がいつも売り切れているのを知っているな。でもとんかつ定食が残っていたら本当におごってもらうからね。
「あのーすいません……」
とんかつ定食への思いを馳せている私に見知らぬ女の人が横から声をかける。
「はい、何か用ですか?」
とんかつ定食を頭の中から追い出して私は機嫌よく女の人に答える。
「すぐに返しますので、あなたたちのノートをコピーさせてもらえませんか」
テストの直前になると、見知らぬ人からプリントやノートのコピーを頼まれることがある、と聞いたことがあるけど、ついに自分にも来たか。私に声がかかったのは三人の中で一番通路側の席に座っていたからだろう。
「ええ……、別にいいですけど……」
と言いながら私は自分のノートを見てためらう。なぜなら私のノートには暇つぶしに書いた「私の考えた正義のヒーロー」の落書きがあるからだ。
しかしとても優しそうな見た目のこの女の人のお願いを断るのも気が引ける。落書きの件を除けば本当にノートを返してもらえるのかという心配はあるが、それ以外に断る理由もメリットもない。
それにこの先私も見知らぬ誰かにノートやプリントをコピーしてもらう立場になるかもしれないし……。
「落書きが書いてあるノートですが、それでもよければ……」
と言って私は彼女にノートを渡した。彼女はその落書きの部分を見ずに
「どうもありがとうございます!」
と言って走り去ろうとした。
「ちょっと待った!」
しぃちゃんが彼女を呼び止める。
「このテスト、手書きのノートを持ち込むことは大丈夫だけど、コピーされたままのノートの持ち込みは禁じられていますから、気をつけてください」
つまりはコピーしたら必ずそれを改めて自分のノートに書き写せということである。テストでのノートの持込に関してこの「コピーはダメだが手書きされたものならオッケー」という線引きをしている教授は多い。
「分かりました気をつけます」
そう言って彼女は教室を去った。ノートのコピーに十分かかるとして……。残り十分で果たして全てを写すことなどできるのだろうか。
十分後、彼女は約束どおりノートを返してくれた。「私の考えた正義のヒーロー」には一言も触れなかった。私にお礼を言った後で、教壇にいる教授から目の届きにくい奥のほうの席へ座る。彼女はノートのコピーを「そのまま」使う気なのだろう。
チャイムと同時に教授が入ってきた。この人にはいわゆる「ロスタイム」という時間が存在せず、教室に入るのはいつもチャイムと同時である。
ただし、いつもと違うのは何人かの背広を来た人を連れてきたことである。今日はテストなので、その監視員なのだろうか。彼らはおそらく大学院生か助手だろう。
「今日はテストを行います。今のうちに余計なものは片付けてください。筆記用具や教科書、手書きのノート以外のものは一切机の上に置かないこと。置いてあったら容赦なく没収します」
教授の言葉とともに、教室中に机の鳴る音や紙がすれる音が聞こえる。みんな余計なものをかばんの中にしまっているのだ。あの人もノートのコピーをしまっているのだろうか。それとも……。
「それでは今からテスト用紙を配ります。その時余計なものがあったら没収しますよー」
教室の前の列から順番に監視員によってテスト用紙が配られていく。列の一番端の人がテスト用紙を受け取り、それを同じ列の人へと廻して行く。
私がテスト用紙をしぃちゃんとはるちゃんに渡したところで、後ろのほうから
「ノートのコピーはそのまま使っちゃダメだって言っただろう」
と、監視員の厳しい声が聞こえた。私は嫌な予感がした。
テスト用紙を配り終えた監視員が今度はコピー用紙を手に持って私の横を通り過ぎる。そのコピー用紙に書かれているものを私は見逃さなかった。間違いなく「私の考えた正義のヒーロー」が悲しい顔でそこにあったのだ。
「どうしよう、没収されたの私のノートをコピーした人だよ」
私は小声でしぃちゃんとはるちゃんに伝える。
「もーう、だから気をつけてって言ったのに……」
「かっちゃんの考えた正義のヒーローを見たら教授たちなんて思うだろうね」
はるちゃんの頭の中には楽しい妄想が広がっているようだが、私はそれどころではない。
「コピー元の私も何か罰を受けるのかなぁ」
「大丈夫でしょかっちゃん、かっちゃんのノートは本物の”手書きのノート”なんだから、私のもかっちゃんのコピーだけど、手で書き写したからこうして堂々と机の上に置ける」
「そうだよ、悪いのはコピーをそのまま使った人であって、かっちゃんじゃないんだから。かっちゃんが気にすることは無いよ」
はるちゃんとしぃちゃんがそう言うので、私は安心してテストに向かうことができた。
この「私が考えた正義のヒーロー没収事件」以降は特に事件もなく、はるちゃんにとんかつ定食をおごってもらうこともなく、レポートとテストの時期は過ぎた。
明日からはいよいよ夏休みだ!!