第十九話 部室に住みたい
はるちゃんとお父さんとの対決を明日に控えた木曜日。天気は明日の話し合いの行方を予想したのか生ぬるい南風が雨を激しく打ち付ける荒れ模様となった。
はるちゃんの態度は頑ななので、向こうが折れない限り決裂は必死である。うーん、今日はこの街に、明日は「御団子」に嵐が吹くのか……。
私たちはなぜかお昼ご飯をダンスサークルの部室で取っている。はるちゃんは部員だからともかくとして、私たちまでお邪魔しているのはなんとなく心苦しいものがある。
しかし、この部室の主である部長の浅野先輩はそんな私たちの気苦労もお構い無しに部室にあった急須と湯飲み茶碗でお茶を入れてくれる。お茶を出せるのはこの部室が特別なのではなく、どのサークル、部もその部室には「自炊は無理だが人は住めるだろう」と言われるくらい、いろいろな物が置かれているらしい。
「私、ここに住もうかな……」
突然はるちゃんがとんでもないことを呟いた。
「ちょっと、はるちゃんいきなりなんてことを言うのよ!」
しぃちゃんの声がちょっと荒くなっている。家出中という事情があるとはいえ同居人にいきなり「出て行く」と言われたら驚くだろうし、あまり気分のいいものでもない。
「たぶん明日お父さんに会っても何も進展しないと思うんだ……。だけどしぃちゃんの家にずっとお邪魔しているのも悪いし……」
「そんな……私は別に迷惑してないよ」
「しぃちゃんがそう言っているんだからはるちゃんが気にすること無いよ。それに、いくら物がそろっているからってこの部室に住むことは許されないことだと思うよ」
しぃちゃんの援護のために私は正論を言った……ところが、
「住みたいならここに住んでもいいわよ。ここを部室として借りている以上。私以外の許可は必要ないし」
と、浅野先輩が私の正論を打ち破りはるちゃんの味方に立ったのだ。
「いいんですか、先輩!」
はるちゃんが感激の声を上げる。浅野先輩……少々後輩に甘くないですか?
「いいわよー。ただし住むからにはそれだけのことはやってもらうわよ」
「はい、私練習頑張ります!」
熱血宣言するはるちゃん。うーん、こういったスポーツ根性物的風景を見るのは久しぶりだなぁ……。
「いや、練習を頑張ることじゃないのよ。やってもらいたいことは」
浅野先輩が困ったように手を振る。
「浅野せんぱーい、お腹がすいたよぅ」
と、ドアを勢いよく開けて長髪の部員さんが入ってきて私の隣に座った。その瞬間ふわりとシャンプーのいい香りがした。その人の目はパッチリ開かれていて、口元もしっかりと結ばれているけど、全体的に柔らかなほんわりとした感じのする女の人である。
年はわからないけど、「やさしそうなお姉さん」ってイメージの人だ。
「あれ先輩、このかわいい女の子たちは新入部員ですか?」
お弁当箱を開けながら、「お姉さん」は私としぃちゃんを見て楽しそうに浅野先輩に尋ねた。
「ううん、遥のお友達」
そういうと、浅野先輩は「お姉さん」にお茶を差し出す。その湯飲みには大きく「明石」とマジックで書かれていた。と言うことはこの「お姉さん」の名字は「明石」なのだろう。
「そっかー、残念だなぁ。私は明石真奈美と言うの。この大学の社会学部の二年生。よろしくね」
「お姉さん」こと明石真奈美先輩が優しく私に手を差し出す。私はその手を握り返しながら、名乗るべきかどうか一瞬躊躇した。しかし、向こうが名乗っている以上こちらが名乗らないのは失礼に当たる。だから思い切って
「御徒真知です!」
と「御徒」と「真知」の間を長めに空けて言った。しかし、
「ああ……あのやまの……」
「真奈美」
と明石先輩が私の名前について定番どおりのリアクションをとろうとしたところを浅野先輩が鋭く制止した。明石先輩は浅野先輩の目を見て、彼女が何を言いたいのか理解したようだ。
そういえば浅野先輩は私の名前を聞いたとき、定番のリアクションをせず、「そう、御徒真知」さんね。と普通に(私にとっては一番ありがたいリアクション)接してくれたなぁ。
「御徒真知さんね。よろしくー」
と、明石先輩は「御徒」と「真知」の間を長めに空けて改めて私の手を握った。心なしかさっきよりも力がこもっているような気がした。
「私は椎名真智といいます」
しぃちゃんも「椎名」と「真智」の間を長めに空けて自己紹介をする。
「うん、椎名真智さんね。よろしく」
手を長く伸ばしてしぃちゃんと手を握る明石先輩。先輩のシャンプーの香りがふわりとする。彼女が「椎名」と「真智」を続けていったのを見ると、「椎名町」という駅の存在を知らないようだ。
うーん、やっぱり「御徒町」と「椎名町」では知名度に差があるのか……。
「真奈美、ちょうどいいところに来たわ。遥にこの部室で生活するときのルールを教えてあげて」
「えっ遥、この部室で暮らすつもりなの!?」
明石先輩が驚きの声を上げる。驚いて当然、と私は思ったが、彼女の驚きの理由は私が考えているものではなかった。
「この部室で暮らすのなら……ええと、毎朝この部室を掃除しないといけないでしょ」
私の部屋(八畳間)二つ分あるこの部室(しかも物がいっぱい置かれている)を毎朝掃除するのはかなり重労働だと思う。
「ただ、掃除機かければいいってものじゃないのよ。テーブル拭いて、窓もきれいにして……。あと、部室にある食器の類を例え使っていなくても洗うこと。洗い場は四階に水のみ場があるけど、お湯は出ないから冬はものすごく冷たいと思うわ」
「あとは……」
「分かりました。前言撤回します」
はるちゃんは冷静に自らの発言を翻した。要は普段サークルのみんなが毎日協力してやっている後片付けを毎朝一人でやれってことなのだろう。一人暮らしをしていないはるちゃんにとって、この仕事量は嫌になるだろうなぁと思った。私だったら初日からもうアウトである。
「うん、その方がいいよー。私なんか毎朝泣きそうになったもん」
明石先輩が明るい笑顔で意地悪く言う。明石先輩は前にここに一人で暮らしたことがあるので、その苦労は嫌というほど思い知らされたのだろう。
「この前、遥のように「両親と対立した部員」がいる話をしたでしょ。実は真奈美がそうなのよ」
なるほど、どうりでここで暮らした過去があるわけだ。明石先輩ははるちゃんにとってダンスだけではなく、そういう意味での先輩にもなる。
「明石先輩はどうやってご両親を納得させたのですか?」
はるちゃんではなく、しぃちゃんが身を乗り出して尋ねる。シャンプーのいい香りが私の鼻をくすぐる。
「家出して半月は友達の家を転々として、ここには一月ほど住んでいたの。その頃になって、お父さんから電話がかかってきてね。もう泣き声だったのよ。大事な一人娘に家出されたのでショックだった見たい。それで、ダンスを認めてもらったのよ」
明石先輩は明るい笑顔で自慢げに答えた。それにしても家出して一月半も我慢していたなんて、明石先輩とそのご両親はかなり我慢強いというか頑固者というか。
「つまり家出を続けることで、両親の心に根を上げさせたと言う事ですね」
はるちゃんも身を乗り出して尋ねる。シャンプーの香りが……って今日はやけにシャンプーの香りがするな。
「そうねー。「自分の娘のため」を思ってしたことが娘に家出という行為を行わせたことにショックを受けたみたい。それ以来ダンスだけではなく、他の部分でも私に甘くなっているわ」
「じゃあ私も家出をし続けます。しぃちゃん、よろしくね」
はるちゃんが元気よく立ち上がった。はるちゃんがしぃちゃんの家にいつづけることになったので、私は安心した。
「うん、私は別に構わないよー」
しぃちゃんは明るく頷いた。
そろそろ次の授業が始まるので、私たちは明石先輩とともに部室を出た。階段を下り、すっかりダンスサークルの部室が見えなくなったところで、
「あなたたちにもう一つ教えたいことがあるのよ。聞きたい?」
と、明石先輩が明るい笑顔で意味ありげに私たちのほうを見つめた。
「はい、聞きたいです」
私たちは同時に二つ返事で頷いた
「あなたたちはもちろん、遥も浅野先輩の下の名前、知らないでしょう」
私としぃちゃんははるちゃんのほうを見る。はるちゃんはしばらく頭の中の記憶を総動員させていたが、
「そう言えば、知らないですね」
と言った。部員のはるちゃんでさえ、知らないということは人に知られたくない名前なのだろうか。
「実はね、浅野先輩の名前は……」
と、明石先輩が言ったところで、私は辺りを見回した。こういう場合、大抵いいところで邪魔が入るものだが、幸いそのようなものは見当たらなかった。
「ひらがなで、「いのり」と言うのよ。「浅野いのり」」
「あさのいのり……」
それを聞いた途端私の脳裏にはステンドグラスからの光がたくさん降り注ぎ、パイプオルガンの音が優雅に流れる教会で清らかな歌を歌おうとするお笑い芸人の集団が浮かんだ。ついつい噴出しそうになるのをこらえる。
「「朝の祈り」ですか……。まるで教会にいるような……神秘的な名前ですね」
しぃちゃんがほうっとした顔で、呟く。しぃちゃんも教会をイメージしたか。しかし、しぃちゃんの想像の世界にはお笑い芸人の集団はいないはずだ。
「教会か……。私は朝の静寂さに包まれた神社をイメージしたけど」
巫女さん姿の浅野先輩も悪くは無いな。いや、シスター姿の浅野先輩も悪くは……。
「本人はそう言われるのはちょっと嫌みたい。だから、できる限り自己紹介は「浅野です」って名字だけで済ませているのよ」
なんでも小さい頃は登校するとクラスのいじめっ子から「おい、お祈りするぞ!」と手を合わせるなどの嫌がらせをしたらしい。
だから、私の名前を聞いたときも普通に対応してくれたのか、と私は納得した。明石先輩が浅野先輩の名前をどうして知ったかという謎は残った。
翌日は金曜日――いよいよはるちゃんとお父さんこと伊井国教授との決戦の日である。いつものように「日本史」の授業にはるちゃんは出ず、私としぃちゃんの二人で出席した。
伊井国教授が教室に入る。先週見たときと比べてかなりの教授のやつれ様に私たちは驚いた。教壇へ向かう足取りが覚束ないのが遠くからでも見て分かるのだ。白いお饅頭を裏側のような頭のあんこの部分が、心なしか小さくなっているように見える。
「しぃちゃん、これはひょっとしたらいけるかもしれない」
私はそう言いながらも教授の頭をみて複雑な気持ちになった。教授が落ち込んでいるのは、明石先輩のアドバイスに寄るとはるちゃんにとっては有利だ。しかし、もし話し合いが決裂した場合、教授がそれに耐えられるかが心配だった。