第十八話 お誘い
はるちゃんが家出をしてすでに五日が経っている。
二人から聞くと、はるちゃんは毎朝しぃちゃんが朝ごはんを作る物音で目が覚めるという、最近の新婚夫婦でもそんなにはないであろう生活を送っているらしい。家出初日に私がしぃちゃんの家で思っていたように、はるちゃんが旦那様でしぃちゃんが奥様にますます見えてしょうがない。
しかもこの夫婦――じゃなくて二人は毎晩風呂上りに腹筋・背筋・腕立て・スクワットで体を鍛えているという。スクワットはダンスをやるはるちゃんがしぃちゃんの家に来てから追加されたらしい。うーん、夫婦で世界一でも目指すのだろうか。(いい加減夫婦ネタはしつこいか)
「かっちゃんも何か毎日運動をしようよ」
屋内テラスにて七月に降る雨をなんとなしに見ている私の指をしぃちゃんがつつく。
「運動って言ってもなー。二人のように毎日続けられる自身がないよ」
「あの坂を走って上り下りするだけでもかなり運動になると思うけど。あそこの坂は急だからさ、足腰が鍛えられると思うんだよね」
私は笑って左手を目の前で左右に振り「ないない」とはるちゃんの提案を断った。「あの坂」とはしぃちゃんがアルバイトをしているお店がある「団子坂」のことである。前に一度だけ自転車で上ってつらい思いをしたが、その後しぃちゃんと仲良くなることでこの坂はバスで通過するだけの坂になった。もっとも今はバスの定期券がないはるちゃんがいるので、三人で歩いて上っているけど。
「あの坂の狭い歩道で走ったりするのは危ないって」
「確かに自転車が通ると避けるの大変だしね……」
本音はしんどいからだけど。
「じゃあ犬の散歩は?かっちゃんの家は犬を飼っているのでしょ」
確かに私の家には「ペル」という元雄の犬が居る。
「ペルの散歩は健康のためにお祖母ちゃんの仕事なのです」
まあたまに私が散歩を担当しているときはあるけどね。
「うーん、そっか……。でも今の時代自分の身を守るために女の子でも体を鍛える必要があると思うんだよね……」
しぃちゃんの場合は明らかに鍛えすぎなところがあると思うな。
「そんなことより皆さん、河童を読みましょう」
私は昔何かの時代劇で見たことのある宣教師をイメージして、聖書の代わりに「河童」を二人の目の前に掲げた。雨脚が強まりテラスの窓に激しくぶつかって音を立てる。今年の梅雨は晴れ日も雨の日も極端な気がする。
「椎名、ちょっと残ってくれないか」
ゼミの授業が終わり、私たちが教室を出ようとするところで、しぃちゃん一人が石坂先生に呼び止められた。
「かっちゃん、はるちゃん、さっきのテラスへ先に行ってくれる」
「うん、分かった。待ってるね」
次の時間はこの教室は授業が行われないので、教室にはしぃちゃんと石坂先生二人だけになった。
「いったい、何の話だろう」
はるちゃんがわくわくしながら私に尋ねてくるので、
「愛の告白ってことは無いわよ」
と彼女の妄想の芽を摘み取った。
「ちぇっ」
はるちゃんはつまらなそうに口を尖らせる。
「それにしぃちゃんにははるちゃんという旦那様がいるじゃない」
「いやいや、私はただ家出してお世話になっているだけだから」
うーん、私も妄想しようと思っていたのに、はるちゃんに仕返しされてしまった……。
さっきのテラスで本を読んでいたりレポートを書いたりしているうちに、しぃちゃんが悩んでいる顔つきでやってきた。
「しぃちゃん、長かったね。何かあったの」
「うん……」
私とはるちゃんの間の席に座るとしぃちゃんは「はーっ」と大きなため息をついて
「はるちゃんと伊井国教授との話し合いの場を設けてくれって」
家出をしてからはるちゃんはお父さんと全く接触せず、そのうえ一昨日は「絶対帰らない宣言」をしている。
同じ大学の教授に家庭の事情を話すなんて向こうとしては本当に困っているのだろう。
「前に「御団子」に来たときに「石坂先生もよく来る」って言ったことがあるでしょう?その「御団子」でそれができないかって言うのよ」
「別にそれは構わないけど、私の言うことは変わらないわよ」
イラケン選手に会って以来、はるちゃんの強気の姿勢はぶれていない。それはいいことだが、強気の彼女は一昨日のように極端な行動をすることもある。私は少し釘を刺した。
「まあ一度互いに冷静になって話し合ったほうがいいかもね」
「冷静に」の部分を強調する。
「ところで、しぃちゃんは場所は「御団子」ってことに問題は無いの?」
「うーん、お店だからなぁ……。普通に話し合うだけなら平気だけど」
「大丈夫だって、この前のようにキックを出そうというわけじゃないんだから」
それは本当にやめたほうがいいと思う。
「お願いだから本当にそんなことしないでね」
しぃちゃんがにっこりと笑顔で微笑む。しぃちゃんのアルバイトをしているお店でやろうものなら、彼女からどんなお仕置きを受けるか分からない。
「一応マスターにも聞いてみるけどね。あっ、いつやるかは金曜の私達の授業が終わった後でいいかって」
と言うことは、先週私達が「御団子」に来た時間になる。
「OKです。って石坂先生に伝えて」
はるちゃん、やるき満々だ。本当に冷静に話し合えるのだろうか。
「「御団子」のことはマスターに話してから石坂先生に伝えるわ。あと、実はこんなに時間がかかったのはもう一人会っていた人がいるからなのよ……」
会っていた人って、まさか間男!?ダメだ、今日の私は「はるちゃんしぃちゃんの夫婦ネタ」が頭の中から離れない。
しかしその妄想も案外外れではなかった。
「会っていた人って言うのは片倉君なんだけど……」
「ああ、しぃちゃんと同じボクシングが好きで「御団子」の常連の彼ね」
私はすぐに思い出せなかったけど、はるちゃんは彼のことを覚えていたようだ。
「別に常連ってわけじゃないよ」
ちなみに彼のフルネームは片倉小次郎だそうだ。
「その片倉君から「お友達も一緒に来てくれ」って、飲み会のお誘いを受けたのよ」
ええっ、友達と一緒の飲み会ってことはそれって……。
「私達は未成年よ!」
いや、はるちゃん突っ込みどころが違う、……いや考えてみればそれもそうか。
「まあ私は今月中には十九歳になりますが」
はるちゃん、十九も未成年だよ。
「へー、そうなんだ。それじゃあ誕生日には「御団子」でお祝いしようよ」
「いいねー、甘いものパーティー」
「もーう、話を脱線させない。……私の誕生日は九月だよ」
しぃちゃん、話を戻そうとしながらさらに迷走させているし。ところで私の誕生日はというと……。
「しぃちゃんもはるちゃんもきっとみんなにお祝いしてもらえるんだ、いいなぁ」
二人の誕生日イベントの様子を想像して私はつい、ぼやいてしまった。
「うん?かっちゃんそれってどういう意味」
「私は二人に会う前に十九になってしまったのです。四月の五日であります」
その日は大学の身体測定の日で、自分の名前と誕生日を書いたときにそれを見たお医者さんや係りの人に「おめでとう」と言われたのを覚えている。
「へぇ〜、じゃあかっちゃんが私達の中で一番おねえさんなんだ〜。お姉ちゃん。」
はるちゃんが甘えた仕草と声で私をからかう。体をくねらせる妹――いや、はるちゃんの姿が艶かしい……。いけないいけない、夫婦ネタから解放されないうえに別のネタが頭の中に入ってしまう。
「よし、みんなの誕生日を知ったところで話を戻すわよ。まだ返事をしていないなら「私達は未成年なので、合コンには参加できません」って断っちゃえば」
私が突っ込みたかったことがやっと言えた。
「ええっ、それって合コンになるの!?」
はるちゃん、やっと気づいたか。
「うん、確かにかっちゃんの言うとおり合コンよ。片倉君が友達から「どうしても」って頼まれたんだって」
片倉君にはその友達から、「ノートを写してもらった」という借りがあるので、断りきれなかったらしい。
「ああ、あと未成年っていう問題だけど、飲み会って言ってもどこかの喫茶店でお茶やお菓子を食べるってことで、お酒は出ないから」
ああ、それはよかった……。って安心して終わりにできる問題ではない。
「しぃちゃんはどうするつもり……?」
「「友達と相談してから決める」って言ったけど、片倉君本当に困っているみたいだし、大学っていろんな人を知り合いに持つことが有利になるって言うから……。会ってお茶するぐらいならいいと思うんだ」
「有利になるね、ノート写してもらえる人増えるし、代返頼める人も増えるし」
はるちゃん、そうさせてもらうき満々じゃん……。でもはるちゃんが言ったことの他に、私達が出ていない授業の内容や評価の方法(どうすれば単位が取れるか)など情報が知ることができるので、これからの大学生活に有利になることは間違いない。
ちなみに「代返」と言うのは、出欠を取る授業で本人の代わりに返事をすることだ。声でばれてしまうのでは?と私は思うのだが、噂によるとこの大学には七人の声色を使い分ける「代返の名人」がいるらしい。
「うーん、確かに私達ってこの大学での知り合いって少ないからな……。時間が合えば行ってみようかな……」
「じゃあ、かっちゃんもはるちゃんも参加するってことで片倉君に伝えていい?」
「OKだよ!」
「一応そういう方向で」
はるちゃんは乗り気だけど、私はまだそこまで行けないでいる。
「日程と場所は向こうが決めるから、決まったらまた言うね。一応テスト期間が終わってからだから、七月終わりから八月の頭になると思う」
合コンかぁ……。かつてのしぃちゃんのように「御徒町」を知らない人たちだったらいいけど。