第十七話 強気の根性
さっと私の目の前に現れた影の正体は、黒いジャージを全身にまとった将軍様――ではなくて、町田イラケン選手だった。
イラケン選手の右の手のひらにはしぃちゃんの小さいながらも強烈な右ストレートが突き刺さっていた。
「つっー」
ゆがめた口元から苦しそうな声が漏れる。
「だ、誰だお前は」
はるちゃんを「鎌倉の娘」呼ばわりした男が驚いた声を上げる。よくみるとこの男あろうことか私たちの誰かを殴ろうとしていたらしく、前に出した右腕をがっしりとイラケン選手の左手に掴まれているのだ。
「誰でもいいだろう、「女の子に手を挙げようとする男を見過ごせない男」それだけだ」
そう言ってイラケン選手は他の二人の男のほうを見た。男二人の顔は青ざめ、体中ガタガタ震えだす始末。イラケン選手がいかに怖そうな顔を見せているとはいえなんて情けない。
「お、おい……。こいつ」
「や、やべえよ。将軍だよ。俺たち成敗されるよ」
イラケン選手が何者か気づいたようだけど、彼にとっての禁句を出すなんて……。私は敵とはいえ彼らにお線香の一本でも上げたくなった
「将軍であろうがなかろうが、成敗しようがしまいが、お前ら相手じゃ俺が役不足だ」
そういって男の左腕を離す。重圧から解放されたのか、崩れるように座り込んだ男をなんとかはげましながら、はるちゃんに絡んできた三人の男は後楽園駅方向へと去っていった。
「あ、ありがとうございます」
私たち三人は声をそろえてイラケン選手にお礼を言う。
「街中で男が女の子に手を挙げるのはもちろんだが、女の子が男に手を挙げるのもあんまりいいものではないよ」
と、しぃちゃんの右ストレートを離した。再び
「つっー」
という声が漏れる。
「イラケン選手、だいじょう……」
「あと……脚を挙げるのもよくない」
私の声をさえぎるようにイラケン選手が声を出す。
脚?私ではないし、しぃちゃんが出したのは右ストレートだし……。
私としぃちゃんは同時に後ろを振り向く。はるちゃんが必死に両足の太ももを両手で押さえていた。
「えっ、いや、ほら……。ものすごく腹が立ったから……。私ってダンスが好きだから脚がよく上がるじゃない、だから頭に一発お見舞いしようかと」
私のパンチはともかくとして、ダンスが得意なはるちゃんの蹴りとしぃちゃんのあの右ストレート……。イラケン選手が止めに入っていなかったら怪我をしていたのはあの男たちだったのだ。それこそお線香を上げなくてはならないところだったかもしれない。
「イラケン選手、どうしてここに?」
私が訪ねるとイラケン選手は自分の後ろにある青いビルを指差した。
「あそこでジムの後輩が試合をやるんだ。だからセコンド兼応援に」
この青いビルは「後楽園ホール」と呼ばれており、ボクシングやプロレスなどの様々な格闘技の試合が行われている。そのほかあの個性豊かな落語家さんが毎週笑わせてくれることで有名な大喜利もここで行われているのだ。
「今日が試合……、腹打喜久蔵選手ですか?確かボディーブローが得意なんですよね」
ああ、またしぃちゃんのボクシング好きが飛び出した。しぃちゃんは日本のボクシング選手のことならなんでも知っているのかもしれない。
「よく知っているね。今日の試合は腹打が出るんだ。これで勝てば日本ランキング十位以内に入れる……」
「あの!」
しぃちゃんのイラケン選手がボクシングの世界に入ろうとしたところをはるちゃんが声を上げて遮った。
「どうしたの、はるちゃんいきなり」
よくぞ止めてくれたと思うけど、いきなり大声を上げられると心臓に悪い。
「そちらの方は……、誰?」
ちょっととまどいながら私に尋ねるはるちゃん。そうだ、はるちゃんはイラケン選手とは初対面ではないか。同時にイラケン選手にとってもはるちゃんは初対面である。
「イラケン選手、この子は私たちの友達で、伊井国遥さん。「はるちゃん」って呼んでいるんですよ」
「あ、えっと、伊井国遥です」
互いにお辞儀をする二人。
「はるちゃん、この方は。前にも話題になったボクシング世界一位の町田イラケン選手よ」
失礼のないように私はわざと「町田」と「イラケン」の間に大きな間を空けている。はるちゃんはしばらく「うーん」と考え込んでいたが右手の指をきっちりそろえてイラケン選手を指し
「町田」
今度は左手の指をきっちりそろえて
「「イラケン」さんですか」
とイラケン選手のほうを指した。はるちゃん、正解。
「そう、町田イラケンです」
嬉しそうに笑顔を見せるイラケン選手。そして再び互いにお辞儀。きっとイラケン選手にとって一回で正しい名前を言われるのは珍しいことなのだろう。そしてその回答を出したはるちゃんはそれまでに何度もあの将軍様の映像が頭の中に浮かんで悩んでいたはずだ。
「ところで君達はどうしてあんな男たちと?」
「そうなんです、実は――」
私たちはイラケン選手にはるちゃんの事情を含めたこれまでの経緯を話した。
「なるほど、あきれた奴らだな……」
イラケン選手が腹立たしげに右手をもむ。
「そうなんです、よりによってお父さんと喧嘩して家出しているときにあんなこと言うなんて」
「そりゃあ右のハイキックをお見舞いしたくなるね」
はるちゃんは顔を赤くして右足にぐっと力を入れる
私たちが見たときには、はるちゃんは既に脚を閉じていたけど、さすがはイラケン選手、はるちゃんの上げていた足が右だったことを見逃していなかった。いやいや、そんなことに感心している場合ではない。
「イラケン選手はボクシングをやることを両親に反対されなかったのですか」
まだ顔の赤いはるちゃんが右足をさすりながら尋ねる。
「反対されたよ。上手くいくとは限らないし、怪我をするほうが確率高いし、下手すれば死んでしまうし」
「じゃあどうやって両親を納得させたのですか」
イラケン選手はもんでいた右手を止めてしばらく考えて
「どんなに反対されても喧嘩してもことボクシングの練習をやめなかったからかな。上達している俺を見て、両親も「これは本気だ」と認めようと思ったんだと思う」
「練習を続けることですか……」
「そう、そして相手にいかに「自分は本当にこれをやりたいんだ」ということを見せ付けることだと思う」
「ま、あくまでも俺の場合だけどね」と付け加えて再び右手をもんでいたが、どこか力の加減を間違えたらしい。
「つっー」
と三度口元をゆがめて声を漏らした。
「イラケン選手、大丈夫ですか?」
先ほど彼に遮られた言葉を私はやっと言えた。
しぃちゃんもはるちゃんもその言葉で初めてイラケン選手の右手の異常に気づく。
「大変、こんなに赤くなっているじゃないですか」
右手にストレートパンチを突き刺したしぃちゃんが早くも涙目になった。
「いや、大丈夫だって。手を殴られるのは練習ではよくあることだから」
「でも練習はミットを手にはめているじゃないですか」
「ミットしていても手が腫れるぐらいのパンチ力を持つのがプロボクサーさ」
右手の指を開いたり閉じたりしてしぃちゃんに無事をアピールしている。
「イラケン先輩、こんなところにいたんですか」
「鯉ヶ崎ボクシングジム」胸に大きく書いてあるTシャツを着た男の人たちが青いビルのほうから数人飛び出してきた。
「もうすぐ腹打の試合が始まりますよ」
「ああ、そうか」
イラケン選手の後輩達の中に治療で使うのか氷を何袋も持っている人がいた。イラケン選手はそれを見ると、
「重そうだな、俺が幾つか持ってやるよ」
と、後輩達の制止も聞かずに右手で氷の袋を二つ取った。その二つの袋と左手でもって右手をはさむようにして持つ。
「イラケン選手、ひょっとして右手冷やしていませんか?」
私が明らかに不自然な氷の持ち方に疑問を投げる。
「いや、母親の実家のタイではこのような持ち方をするのだ」
平然とした顔で明らかに不自然な答えを言う。
「やっぱり、私のせいで……」
しぃちゃんの涙が今にもこぼれそうになったとき、イラケン選手はこしをかがめ自らの顔をしぃちゃんの顔から数センチのところまで近づき
「俺が大丈夫だと言っているんだ。ボクシング好きならプロの言うことを信じなさい」
と言った後に左手でしぃちゃんの肩を軽く叩き「なかなかいいパンチだったよ」と言うと、イラケン選手は後輩達とともに青いビルの中へと入っていった。
彼らの姿が見えなくなるとしぃちゃんの目からとうとう涙が流れ出してしまった。
「かっちゃん、はるちゃん。見た。プロだよ、イラケン選手はほんとのプロだよ。私もっと彼の事すきになっちゃった」
どうやら悲しみの涙と言うより、感激の涙のようだ。しかし、「痛い」のを「痛くない」と言うのがどうプロにつながるのかは私には理解できないでいる。
「ボクシングの試合ではいかに相手に「弱気」を見せずに「強気」を見せるかが勝負の分かれ目になる場合もあるのよ。だからイラケン選手は、今回も私達に一言も「痛い」と言わなかったのよ。「弱気」を見せなかったのよ」
「……ってしぃちゃんにバレている時点で意味がないんじゃない……」
「確かにイラケン選手は右手が痛いんだと思うよ、だけどあそこまで言われたら本当に「痛くない」のかもしれないと思ってしまうじゃない」
うーん、氷の持ち方は不自然だったし……ときどき痛そうな声を漏らしていたけど(ひょっとしたら私にしか聞こえなかったのかな?)しぃちゃんの言うとおり痛くないのかもしれない。
「そうか……、いかに「強気」を見せ付けるか、か……」
そう言うとはるちゃんは携帯電話を取り出しどこかへと電話をかけた。
「もしもし、私私。遥よ。えっ、今どこにいるかって。私はね今しいちゃんの家にいるのよ。」
はるちゃん、ひょっとして家に電話している?
「しぃちゃんって誰って。「椎名真智」さんってお父さんに言えば分かるわ。そう、私はその椎名さんの家にいるから」
やはり、そうだはるちゃんは自分の家に電話しているそして、お父さんこと伊井国教授以外の人(おそらくお母さんだろう)が電話の相手だ。
「そう、だから警察に連絡することは無いわ。ただお父さんに言ってほしいのよ。私は「本気」だって、お父さんが私のダンスの道を認めない限り二度と戻ってこないからって、お父さんに伝えといて!」
電話の相手の反論も聞かずはるちゃんは電話を切った。
「ちょっとちょっとはるちゃん、いきなりそんなこと言って大丈夫なの?」
私ははるちゃんのいきなりの強攻策に慌てる。
「イラケン選手も言っていたじゃない、いかに「本気」を相手に見せるか、私にとっては「ダンスに対して」の「本気」よ、そして「強気」の姿勢も相手に見せなきゃ」
「大丈夫よ、はるちゃん。私の家ならずっといても構わないから」
まだ涙の乾いていない顔に笑顔を浮かべるしぃちゃん。
「うん、分かったありがとう。しぃちゃん」
やけに「強気」になったはるちゃん。まあ「鎌倉の娘」と言われたショックから立ち直ったみたいだし、まあいいか。
またすぐ「どうしよう……」って弱気にならなければいいけど。
翌日の朝、私はお婆ちゃんからイラケン選手が右手に包帯を巻いていたことを聞いた。イラケン選手が言うには「料理をしようとして手を切ってしまった」そうだが……。
やっぱり右手、痛かったんだなぁ。