第十五話 文庫本の多い喫茶店
「しぃちゃんはバイトか……」
ノートを一生懸命写しながらはるちゃんが呟く。彼女は先生の話を聞かずに私が書いた過去の授業のノートを写している。今先生が話している内容は後で私のノートから写すらしい。
「私たちと違って一人暮らしだからね……」
実家で暮らしている私にアルバイト経験は無い。たまに家の和菓子屋の手伝いをするけど、お給料はもらったことはなかったな。
「そうねぇ、私の家はお父さんが許さなかったし」
あのお父さんならそうだろうな、と私は納得した。ペンを置き、はるちゃんは右手を軽くもむ。
「そういえばしぃちゃんはどこでバイトをしているの?」
「家の近く。今日の朝その前を通ったよ」
「ほんと、授業終わったら一緒に行こうよ」
先生の終わりの挨拶とともに教室中がガタガタと音を立てる。学生たちが一斉に席を立って後へ前へと出口へと向かう。私たちは後ろ側にいたので、混雑する前に教室を抜け出した。
「しぃちゃんのバイト先ってどんなところ?」
「喫茶店。店員はマスターとしぃちゃんの二人だけ」
「二人だけってことは、バイトしているうちに二人の間に愛がめばえることも」
マスターを知っている私は笑いながら首を横に振る。
「親子ほどの年齢が離れているからそれはないよ。それにマスターは奥さんもいるし」
アルバイトの人がいなくて忙しいときは奥さんが臨時でウェイトレスになる。はるちゃんはそれを聞くとつまらなそうな顔をして持っていた空のペットボトルをゴミ箱へ捨てる。
「そんな漫画のような話あるわけないか」
そこではるちゃんの想像力は別の方向へと進みだす。
「しぃちゃんが働くお店だから、やっぱり格闘技関係の物がいろいろ置かれている「格闘技喫茶」なのかな?」
「メイド喫茶」は聞いたことあるけど「格闘技喫茶」なんて聞いたのは初めてだ。しぃちゃんの働いている喫茶店はもちろん「格闘技喫茶」ではない。だけど私ははるちゃんの想像に付き合うことにした。
「そうなのよ、店の真ん中にあのボクサーがよく殴るものがぶら下がっているの。客はそれでパンチ力を測って何キロ以上が出たがによっていくらか割引してくれるのよ」
「なるほど、逆に低すぎたら罰金取られるってわけね」
女性の方にはとても入りづらそうな雰囲気のお店に想像が膨らんだところでしぃちゃんが働いている喫茶店「御団子」に到着した。現在の東京には珍しい木造平屋建てで、店の名前の書かれた看板が無ければ普通の民家と思って通り過ぎてしまうだろう。
「これがしぃちゃんが働いているお店よ」
「おー、普通の喫茶店だー」
今までの想像が否定されたのにはるちゃんは激しいツッコミをしなかった。まあ半分冗談だったのだろう。
この「御団子」は団子坂のちょうど真ん中のところにあり、明治のころから続いている老舗である。江戸川乱歩の「明智小五郎」がこの坂で事件の推理をしていたときもこのお店はあったのだ。
「見た目は普通だけど、なかはちょっと違うのよ」
「横綱や、世界チャンピオンのポスターや色紙がいっぱいあるのね」
はるちゃん、そろそろ格闘技から離れなさい。
中に入るとカウンターもテーブルも全て木で作られた空間が広がる。お客様の座る椅子も切り株を加工して背もたれをつけたものだ。もちろんコーヒーカップやお皿を入れる棚も木製。そんな木とコーヒーカップに囲まれたカウンターの奥にマスターが座っていた。
しぃちゃんは客席の一番奥、大きな本棚の前の席で本を読んでいたが、私たちに気づくと本を急いで棚に戻し
「いらっしゃいませー、って来てくれたんだー」
と私たちをさっきまで自分が座っていた席へ案内した。小さい体に青いエプロン姿がなんともかわいい。
「なんでも木製かー、確かに普通の喫茶店とはちょっと違うわね」
テーブルの木目をなでながらはるちゃんは席に座って辺りを見回す。
「それだけじゃないんだよ。見て、この本棚」
この本棚には明治・大正・昭和初期にこの辺りに住んでいた作家たちの小説が並ばれている。山手線でここから二駅先とちょっと離れているけど田端に住んでいた芥川龍之介の作品もあるのだ。
「これは「格闘技喫茶」じゃなくて「文学喫茶」ね」
「「格闘技喫茶」って?」
「いや、なんでもない……」
はるちゃんはまだ格闘技を引っ張っていた。でも「文学喫茶」はあっているかも知れない。
「家から近いうえに、バイトしているのに本も読めて授業の参考になるから、一石二鳥なのよ」
そう言うとしぃちゃんは本棚の中から芥川龍之介の小説と彼に関する本を次々と選び私たちの席に置いた。
「私たちの番は秋だけど、今のうちにいろいろ読んでおかないと」
「そうね、今のうちに考えまとめておけば後で楽になるし、ありがとしぃちゃん」
ページをめくるはるちゃんを見て満足そうなしぃちゃん。
「……しぃちゃん、何か忘れていない?」
「うーん、私の考えをまとめておいたノートのことかな」
いやいや、そうではなくて
「はい、しぃちゃん。メニュー」
白髪交じりのマスターがニコニコと目じりのしわを浮かべながら彼女にメニューを渡した。マスターが「しぃちゃん」と呼ぶのは、私の事を昔から知っているマスターが私と混同することを防ぐためにしぃちゃん自らがそうお願いしたのだろう。
「あー、ごめんなさいマスター。ご注文をお伺いします」
マスターからメニューを受け取るとしぃちゃんはマスターと私たち両方にぺこりと頭を下げた。
「えーと、それではアイスココアをお願いします」
「私はアイスカフェオレ。あ、あとあったらチーズケーキが食べたいな」
「うん、置いてあるよ」
せっかくメニューをもらったのに、私とはるちゃんはそれを見ないで注文した。
本を読みながら待つこと約五分。生クリームを乗っけたアイスココアが私の前に、アイスカフェオレとラズベリーのソースをかけたチーズケーキがはるちゃんの前に現れた。
「いつ来てもマスターのつくるココアは美味しいわー」
「真知ちゃんは小さい頃からいつもココアだね」
しぃちゃんが一瞬マスターのほうへ顔を向けて慌てて元に戻す。
「コーヒーも好きだけどここで飲むのはやっぱりココアなのよねー」
うっとりとしながらストローで生クリームとココアをよくかき混ぜる。
「ほんと、コーヒーもケーキもおいしいわ」
本を読みながらはるちゃんは片手でコーヒーを飲み、ケーキを食べる。なんか忙しそうだけどはるちゃんはこのやりかたに慣れているらしい。
「こんなに美味しくて文学関係の本が置いてあるなら、うちの大学の人たちも結構来ているかもね」
はるちゃんの言うとおりだ。ここは文京大学から歩いて十分の距離にある。近現代の文学を学ぶ人ならばこの店を図書館の一つとしている人もいるかもしれない。
「たびたび来ているよー。石坂先生とか」
「えーっ、石坂先生がここに来ているのー!?」
うーん、石坂先生が常連ってことはここに置いてある本をネタにしていることがバレてしまうではないか。私がそんな心配をしていると
「大丈夫だよ、かっちゃん。ここに置いてある本を使ったって内容が充実したものを作ればいいのよ」
「そうだよ、かっちゃんここがダメなら極端な話大学の図書館の本なんか全然使えないじゃない。演習なんてある意味何を参考書にしたか教授に最初からバレバレなんだから。要は何を使ったかより、そこからどのように考えたかでしょ」
「そっかー、考えてみればそうだよね……」
と、しぃちゃんとはるちゃんに演習の心得を教えられてしまった。
「あとねー、片倉君もこの前来ていたなー」
「片倉君って誰よ」
聞き覚えの無い名前を当たり前のように言うしぃちゃん。
「えっ、片倉君だよ。この前食堂でボクシングの話をした男の人。そっかー、二人は名前聞いていなかったんだね」
そうか、思い出した。確か「スケベニンゲン」が「イランコト・スルナー」を倒した話で私がしぃちゃんを抱きしめた後にいきなり乱入してきた男の人ではないか。
片倉という人は同じ演習のクラスは違うけど同じ文学部なので、この店に来るのはおかしくないけど、果たして演習のネタ探しに来ているのか、それとも……。
「私、このケーキ好きだから。また来ようっと」
うん、はるちゃんのように気に入ったメニューがあるのかもしれない。