第十話 クリンチ
「遥、今日は私の授業に出席したのか?」
「決まっているじゃない、お父さん。「今日は」どころか毎回お父さんの授業に出ているわよ」
「そうか、今日の授業の内容についてお前はどう思った」
私はちょっと考えたふりをしながら答える。
「藤原頼通の娘と天皇の間に子供が出来なかったのが藤原摂関家の力が弱まった大きな原因だけど、そうでなくても摂関家の権勢に対しての反発は自然と時を重ねるにつれに出来ていたのではないかと思うの」
「ほう」とお父さんは感心した声をあげる。
「つまり子供ができていても十二世紀の前半には藤原家の全盛は終わっていたのではないかしら。ごちそうさま。勉強するからもう上がるね」
逃げるように私は食堂を出ると二階へ上がる。もちろん勉強をするためではない。
ドアを閉めると私は机の上にある二枚の紙を手に取った。
「しぃちゃんやかっちゃんに感謝しなくちゃ……」
それはしぃちゃんとかっちゃんの今日の授業をまとめたノートのコピーだった。しぃちゃんからお父さんについてのメールが来たので、今日のうちにコピーをしてもらったのが幸いしたのだ。
「わーい、今日ははるちゃんのおごりだー」
火曜日の昼休みはるちゃんと会った私たちは金曜日のお礼とお昼ご飯をご馳走してもらうことになった。今日は「梅雨の一休み」といったあざやかな晴天の日なので、嬉しさも倍増。
「なんでも好きなものを頼んで」ってはるちゃんが言っていたけど、またしても「とんかつ定食」は売り切れだったので。しょうが焼き定食を注文。
「しぃちゃん、本当にジュースだけでいいの」
「うん、今週からお弁当持ってきたから」
そういってしぃちゃんはお弁当の蓋を開ける。
「うわー、おいしそうー!」
「本当、すごくおいしそう」
しぃちゃんのお弁当の中身を見て私とはるちゃんは感激の声を上げる。
「そんな……、普通のお弁当だよ……」
謙遜するしぃちゃんだが顔は本当に嬉しそうな表情を浮かべてなんだかかわいい。
「それじゃ、食べるとしますか」
はるちゃんの言葉を合図に私たちはお昼ご飯を食べ始める。
「かっちゃん、……スケベニンゲンのことなんだけど……」
食事中にいきなりしぃちゃんがこんな発言をするものだから、私は驚いて箸を止めた。私はそのとき口に何も入れてなかったからよかったけど、はるちゃんは涙を浮かべながら激しくむせだした。
「スケベ……けほっ、ニンゲンって……なによ。」
苦しそうにせきをしながらはるちゃんが尋ねる。私も一瞬なんのことか分からなかったけど思い出した。ボクシングの世界チャンピオンでイラケン選手のライバルじゃないか。
「ああそうか、はるちゃんは知らないんだ。いきなりでごめんね」
と、しぃちゃんがスケベニンゲンとイラケン選手について熱く五分ほど語った後で、本題に入る。
「一昨日スケベニンゲンが試合をしたんだけど、圧勝だったのよ」
「えっ、試合!?相手はイラケン選手?」
確かイラケン選手との試合は夏を予定していたけど少々早すぎではないか。それに私はイラケン選手からもお婆ちゃんからも試合の事は聞いていない。
もっともイラケン選手と毎朝会っているお婆ちゃんが、彼をボクシングの選手と知らない可能性はあるけど。
「いや、ちょっと事情があってね」
イラケン選手が本来夏(具体的には八月末)に対戦する予定だった世界チャンピオンの「ピーター・ハンペン」が「スケベニンゲン」に敗れたことで、イラケン選手の予定が一旦白紙になったのだ。
イラケン選手側は従来の予定通り八月末を希望したがスケベニンゲン側は「試合間隔を長く空けたくない」と、これを却下。先に一つ試合を挟んだ後、九月にイラケン選手と試合を行うことを提案してきたのだ。
「……それでイラケン選手の試合は九月の後半に行われることになったんだけど、今度はイラケン選手の試合間隔が長くなりすぎちゃったの。一方のスケベニンゲンは一昨日の試合の圧勝で勢いづいちゃったでしょ。ちょっと状況が不利かなぁ……。ってね」
しぃちゃんが心配するのだから、イラケン選手は不利な状況だろうな。と私は思った。
「圧勝って言うけど、どのくらい強かったの?その……スケベニンゲンさんは」
よくぞ聞いてくれたと、しぃちゃんは試合の内容を話し出す。
「とにかく攻撃が一方的で相手に何もさせないのよ。対戦相手のイランコト・スルナー選手は打たれ強さが身上の選手だから簡単に倒れなかったけどピンチになるともう何度もクリンチばっかりして」
話をしながら何度も軽くパンチをするしぃちゃんだったが、いきなり私に抱きついてきた。
「わっ、ち……ちょっとしぃちゃん!?」
「あっ、……ごめん。今の抱きついたのがクリンチっていうものだったんだけど」
ちょっぴりドキドキしてしまったではないか。
「そのクリンチって言うのは相手に抱きつく攻撃なのね」
「いや、そうじゃないのよ。ちょっと、かっちゃん立ってみて」
「う、うん……」
すでにしぃちゃんは立ち上がっていてパンチを打つ構えを見せているようだ。窓側に立つ彼女の後ろから激しい六月の太陽の光が降り注ぎ、私からは眩しくてしぃちゃんがよく見えない。
そのためにしぃちゃんが強いボクシング選手のように感じた。
まさかいきなり殴ることはないと思うけど、私はハラハラしながら立ち上がった。
「私がスケベニンゲンで、かっちゃんがイランコト・スルナーね。最初は立っているだけでいいから」
そう言うとしぃちゃんはちょっと近づいた後、私に当たらないようにパンチを打ってくる。これが案外早い。
「普段はこのくらいの距離からあるいはもうちょっと離れたり近づいたりしてパンチを打ったりよけたりするんだけどね」
パンチを止めたら次は大きくパチンと手を叩く。
「はい、かっちゃん。私に抱きついて」
「えっ……。抱くの?」
「そうよ」
当たり前のようにしぃちゃんは返す。
「いや、でも……」
と私は辺りを見回す。ここは他の学生も大勢いる食堂、いくら仲良しの友達だからと言って、抱き合うのは抵抗がある。
「かっちゃん、大丈夫だって別に厭らしい気持ちがあるわけじゃないでしょ」
「そう、周りなんか気にしない!」
はるちゃんとしぃちゃんのの励ましとも分からない言葉を受けて私は軽く、体の接触を最低限にしてしぃちゃんを抱いた。
「かっちゃん、もっと強く!」
中途半端にやったら余計厭らしく見えてしまうので、私は思いっきりしぃちゃんを抱きしめる。恥ずかしいので目は瞑っているけど。
「ね、はるちゃん。これだけ密着されるとパンチが打てなくなるでしょ」
周りの視線も気にせず、しぃちゃんは淡々とはるちゃんに説明する。ひじや腕を小突かれているのは彼女がパンチの実践をしているからだろうか。
「確かに打ちにくいわね」
はるちゃんも淡々と答える。
「こういうことばっかりしてスケベニンゲンの攻撃を交わすのが精一杯だったのよ」
人によってはしぃちゃんに抱きついた私が「スケベニンゲン」ではなく、「すけべ人間」に見えているんだろうな。
「ま、その気になれば攻撃できなくはないんだけど……」
しぃちゃんは私の左わき腹や後頭部、首の後ろを軽く叩く。たぶんしぃちゃんが本当に「その気」になったら私は一発で倒れているな。
「かっちゃん、もういいよ。離れて」
やっと解放された。私は大きく息を吐いて椅子に座り込む。
「何度もイランコト・スルナーがクリンチをしかけるからスケベニンゲンにはそのタイミングが分かっていたのね。五ラウンド目でそれに合わせた右ストレートのパンチを一発、イランコト・スルナーの顔に当てておしまいよ」
「いやー、本当に強かったよねー。チャウワ・スケベニンゲン選手は」
いきなり後ろから声をかけられたので、私としぃちゃんは驚いて後ろを振り向いた。
緑を基調としたTシャツに真新しいジーンズを履いた男の人が右手を隣の椅子に手をかけ、左手にカレーライスを持って立っている。
「あなたも、ボクシングよく見るんですか」
「そう、俺もボクシング大好き」
そう言うとその男は図々しく右手の椅子を私のしぃちゃんの間に割り込ませて座った。しぃちゃんに声をかけられたことで、許可を得たと思ったのだろうか。
しぃちゃんもしぃちゃんでボクシング好き同士ということで安心したのかすっかり二人でボクシングの世界に入ってしまった。
これは熱が冷めるまで様子を見たほうがいいなと、私は向のはるちゃんの隣に座った。
「ねぇ、はるちゃん……」
「どうしたの?かっちゃん」
私はこの機会に先週しぃちゃんとともに、はるちゃんに対して抱いていた疑念を聞いてみようと思った。