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第九話 親心

「河童には大喜びの季節ね」

 六月も後半に入り季節は梅雨の初め。連日細かい雨が降り続き、今日も文教大学のキャンパスの校舎と中庭の木々をしっとりと濡らしている。

 私たちがいる五号館は新築だが、この屋内テラスは冷房があまり効かないらしい。外から学生たちが入ってくるたびに風が生暖かい湿気を運んでくる。

 私たちにとってはあまりいい環境ではないのだが、河童たちなら思わず「クァ!」と叫んでキュウリ片手に庭を駆け回りたくなるだろう。

 『河童』を読み始めて一月あまり経ち、思い浮かんだ感想や疑問点を三人で出し合って発表のテーマを決めようということになった。

「と言ってもこの小説の河童たちはそんなにお気楽な暮らしをしているわけじゃないけどね」

 しぃちゃんがため息混じりに窓に当たる雨粒を見る。

 『河童』は人間が河童の世界に迷い込むという話だが、その河童たちは人間と似て非なる生活をしている。非常に神経質なこと、共食いをすること、そして子供はこの親に生まれたいかどうかを選択できることだ。

 河童可愛さに選んだ小説だが重苦しい。

「芥川龍之介は生まれたことを後悔していたかもね」

 この作品を選んだはるちゃんが口火をきった。

「これ、河童の子供が「自分は生まれたくない」と言っているくだり」

 このくだりの河童の子供は自身の河童嫌いと父親の神経症を理由に生まれることを拒否する。それを聞いて母親は子供を中絶(?)した。

「父親と母親の違いはあるけど、作者の親が発狂したのと、『河童』を書いたその年に自殺したことを考えればそう言えるかもね。うん、問題提起としてはいいかも」

 しぃちゃんはどうやら既に参考文献も幾つか読んでいるようだ。私はというと、やっと全文読み終えたところだ。

「生まれることを選ぶか……。せめてもうすこしまともな苗字の家に生まれたかったな……」

 テーブルに向かう二人に対し私はまだ窓の外を見ている。

「ああ、御徒町?」

「御徒真知です」

 はるちゃんの冗談に私はムキになって答える。

「そしてそちらは椎名町」

「うん、そうだね」

 しぃちゃんは嬉しそうに答える。

「まあまあかっちゃん、怒らない。私も他の家に生まれたかったなって思っているんだから」

「はるちゃんもそうなの?」

「大学教授の娘はねー。いろいろプレッシャーがかかるものですよ。まあ「鎌倉の娘」って言うのもありますが」

 ひょっとしたらはるちゃんが『河童』を選んだ理由は、河童好きと言うだけではないかもしれない。

「理由は少し違えど、はるちゃんと私は同じ悩みを持っているのね」

「もーう、二人とも話を脱線させない」

 しぃちゃんがシャープペンシルでテーブルをつついて私たちに注意する。

「しぃちゃんはご両親に対して不満は無いの?」

 「椎名真智」という「椎名町」と勘違いをされる名前を持てど、今までその被害を全くといっていいほど受けなかったしぃちゃんは、きっとこの三人の中で一番幸せなはずだ。

「ん…、まあ…。特に不安はないかな」

 ちょっと考えてからしぃちゃんは答える。素直に「ない」と言うと思ったので、私は少し驚いてしまった。

「この話はこれくらいにして、続きをやろう」


 私たちは昼休み中もご飯を食べながら『河童』について話し合った。

「さて、もうすぐ日本史の時間だよ。しぃちゃん」

「そうだね、もういかないと。はるちゃんは今日はどうする?雨降っているから屋上で踊れないでしょ」

「いや、地下に行けば雨が当たらないところがあるから、そこで踊るよ」 

はるちゃんはそう言って赤いスポーツバッグを肩にかけた。

「そっか、でもたまには授業に出てよ。私たちのノートやプリントだけじゃ補いきれないところもあるんだからね」

「それが原因で単位が取れなければ、それでもいいよ」

 はるちゃんはそう言うと私たちに背中を向けて歩き始めた。

「もーう、またそう言うんだから」

 しぃちゃんの言葉にはるちゃんは振り向かずに「じゃーねー」と手を振って答える。


「はるちゃん、お父さんのことが嫌いなのかな」

 日本史の授業を受けながらしぃちゃんは小声で呟く。私たちは二百人も入れる教室の一番端のほうにいて、周りの学生たちも話をしているので、普通の声でも教授に聞かれることはないだろう。

「そうかもね……」

 私は退屈そうにノートをとりながらはるちゃんのお父さんである伊井国教授のほうを見る。

「後三条天皇の院政の開始により、これまでの摂関政治は……」

 教授の頭髪の大半は白くてつむじの辺りが集中して黒い。白いお饅頭の裏側を覗いている気分になった。

「もし、私がはるちゃんの立場だったら恥ずかしくて授業に出たくないだろうな。だからはるちゃんも義理で籍だけ入れて出席しないのよ」

「うーん、なんか単純にそれだけではないような気がするけど……」

 それまで話しながらも止まることなく動き続けていたしぃちゃんのペンが「あっ」という声とともに止まった。

「どうした、しぃちゃん」

「ひょっとしたらお父さんにダンス反対されているのかも」

 ありえそうな理由だな、と私は思った。日本史を担当している教授だ。ひょっとしたら「異国の踊りなど許さん!」とまで言っているのかもしれない。

「でもね、お父さんの授業に出たくないのは分かるけど、大学を卒業したくないと思う理由には不完全だと思うのよ」

「そうだね、大学を卒業する気がないのなら、最初から入らなければいい話だよね」

「……今日はちょっと早いようですが、これで終了します」

 教授のその言葉にそれまでの呪縛が解けたかのように、学生たちは立ち上がり、ところどころで大声が出る。

「しぃちゃん、出席票お願い」

「うん、分かったー」

 教壇に殺到する学生たちの群れになぜ背の小さいしぃちゃんが出席票を提出するか。それは彼女なら人ごみに上手くまぎれて教授に顔を覚えられることなく提出できるからだ。本来いないはずのはるちゃんの出席票を提出しているため、顔を覚えられると後々面倒なことになるかもしれない。

 私は席に座ったまま人ごみの様子を見ていた。しぃちゃんのものと思われる手が見える。どうやら上手くいったようだ。

 伊井国教授は学生たちが出す出席表を見ながら、きょろきょろと辺りを見回している。ひょっとしてはるちゃんを探しているのだろうか。


「オッケー出してきたよ」

 しぃちゃんが席に戻ってきたときは教室の中は私たちと教授のほか数人しかいなかった。

「それじゃあ行こうか」

 次の授業へと向かおうと教室を出たそのとき「ちょっと待ちなさい」と後ろから声をかけられた。

 振り向くと伊井国教授が教壇を降りて私たちに近づいている。

「君たちは……。遥の友達かね」

「えっ、……はぁ……」

 あれだけの大勢の学生たちの中で、なぜ私たちがはるちゃんの友達かって分かったのだろうか?

「よく出席する生徒の顔は職業柄よく覚えるものなのだよ。特に……君は失礼かもしれないが、背は小さいからね。人にもまれながらも票を出す姿が印象に残っているよ」

 バレないようにと思ってやった作戦が裏目に出てしまったらしい。

「君の出席票の後にはいつも遥の出席票がある」

 伊井国教授の視線がしぃちゃんから私に移る。伊井国教授はちょっと考えたながら。

「と、すると君は遥の出席票の後ろにいつもある、御徒町……」

「御徒真知です」

「そ、そうか「おかち まち」さんか。とにかく君たちはいつも遥と一緒にこの授業にでているのだね」

「ええ、そうです」

 ここで動揺してはいけない。平静を装い私としぃちゃんは同時に頷く。

「そうか……、しかし授業が終わった後周りを見回しても遥の姿が見えないような気がするのだが……」

 「父親が娘を思う気持ち」というのは、この広い教室に集まる大勢の人数も問題にならないのだろうか。よく探す気になれるものだと私は感心した。

「はるちゃんの次の教室はここからすごく離れているんですよ。向こうの二号館の七階なので、準備とか身だしなみとか考えると、この五号館の地下一階からはすぐに出ないと間に合わないんです」

 しぃちゃんの言ったことの前半は嘘だが後半は真実だ。離れている館で、しかも上の方の階の教室となると、移動にかなりの時間がかかる。

「……そうか……、それならいいのだが……」

 納得のいかない表情のまま、「これからも遥と仲良くしてください」と言うと、伊井国教授は教室を去った。それから私は十数えて

「……あぶなかったー」

 と肩の力を落とした。

「なるべく顔を見せないようにしていたんだけどなー。それが返って目立っちゃったようね」

 そういいながらしぃちゃんは携帯電話を操作する。

「どうした?」

「んー?はるちゃんに今の出来事を伝えておかなくちゃ。「次こそ授業に出なさいよ!」ってね」

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