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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
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短編「価食主義のすゝめ」

作者: 鳥心太郎
掲載日:2026/08/02

 コンビニのサンドイッチ棚には、二種類のBLTサンドが並んでいた。


 ひとつは人工肉を使ったもの。

 もうひとつは、天然肉と称された、昔ながらの家畜肉を使ったもの。


 正直なところ、人工肉が一般化した現在でも、グラム単価は家畜肉より若干高く、味にも大差はない。

 しかし、コレステロールやプリン体などが調整されていることもあり、健康志向の人間を中心に需要がある。

 腎臓や肝臓などに持病のある人間なら、たった数十円程度の上乗せなど喜んで払うだろう。


 かつては家畜肉が当たり前だったらしい。

 培養槽ではなく、実際の動物から得られた肉。

 今でも、味や食感の良さからそれを好んで選ぶ人はいる。


 けれど、私の視界では、その商品はほとんど意識に引っかからなかった。


 ARグラス越しの棚で、天然肉のBLTサンドは、味気ないパッケージとして表示されていた。

 色味は少し沈み、文字のコントラストも弱い。

 広告用の強調表示もない。

 そこに存在していることはわかる。

 けれど、目を留めたいと思わせるものがない。


 非表示ではない。

 隠されているわけでもない。

 ただ、興味が湧かないように調整されている。


 一方で、人工肉のBLTサンドには控えめなハイライトがかかっていた。

 栄養バランス、製造工場、細胞培養に使われた培地の種類、品質評価ランク。

 必要なら、それらの情報をすぐ確認できる。


 手に取ると、個人AIが私の食事履歴と健康状態を照合し、今日の昼食として過不足がないかを確認した。


 問題なし。


 私は人工肉のBLTサンドを買い、店を出た。


 私が自分で選んでいる。

 少なくとも、手続きの上ではそうだ。


 けれど、何に興味を持ち、何を見落とし、どれを自然な選択肢として受け取るか。

 その前段階は、すでに私のために整えられている。


 サンドの包み紙には、原材料名、栄養成分、生産工場、品質評価ランクが記載されている。

 昔、食品の成分表示や生産元情報の公開が義務づけられた頃、人々はようやく、自分が何を食べているのかを知る権利を制度として手に入れた。


 それから半世紀が過ぎた。


 今では、食べ物だけではなく、広告にも似たような表示義務がある。

 どこの会社が作り、どのAIが生成し、どの学習系統を持ち、どの評価基準を通過したのか。

 広告ファイルのプロパティを開けば、食品の成分表示を見るように、その広告の由来を確認できる。


 少なくとも制度上は、私たちは広告についても「何を摂取しているのか」を知ることができる時代になった。


 駅前は混んでいた。


 改札へ向かう人の流れの脇で、今どき珍しい手書きの看板を掲げている人々がいる。


「価食をやめよう! 私たちには価値を自分で決める権利がある!」

「価食をやめよう! 私たちには自分で考える力がある!」


 私はその横を通り過ぎながら、BLTサンドを食べた。


 彼らが何を言いたいのかは、わかる。


 価値を食べるな。

 意味を調味されるな。

 自分の判断まで、誰かの作った仕組みに咀嚼させるな。


 そう言いたくなる気持ちは理解できる。


 けれど、大抵の人は気にしない。

 そもそも、彼らの声は多くの人に届いていない。


 届かないように塞がれているわけではない。

 活動を禁止されているわけでもない。

 駅前で看板を掲げ、声を張り上げる自由は彼らにもある。


 ただ、ほとんどの個人AIが、彼らをピックアップ表示しないだけだ。


 通常設定のままなら、彼らはただの通行人のかたまりとして処理される。

 視界の端に、人がいる。

 その程度だ。


 看板の文字は強調されない。

 声は環境ノイズとして処理される。

 顔も、表情も、訴えも、こちらの関心に干渉しないよう、背景の一部として均される。


 非表示ではない。

 検閲でもない。

 ただ、優先度を下げられている。


 駅前には、広告も、勧誘も、募金活動も、政治演説も、宗教的な呼びかけも、路上ライブもある。

 それらをすべて等しい強度で受け取っていたら、まともに歩くこともできない。


 だから個人AIは、世界に薄い膜を張る。


 必要なものは濃く。

 不要なものは淡く。

 危険なものは早く。

 不快なものは遠く。


 視界は、現実そのものではなく、私にとって通行可能な形へ整えられた現実になる。


 私が彼らをはっきり意識できるのは、あえてゾーニング設定を緩めているからだ。


 広告会社に勤めている関係で、私は先輩から、なるべく多くの広告を見るように言われていた。


「自分に合う広告だけ見てると、広告屋として鈍るぞ」


 入社して間もない頃、先輩はそう言った。


「嫌いな広告、腹の立つ広告、気持ち悪い広告、古臭い広告、思想が合わない広告。そういうのも全部見ろ」


 それ以来、私はゾーニング設定を少し緩めている。

 完全に切っているわけではない。

 すべてを生のまま受け取るほど、無防備ではいられない。


 けれど、駅前の活動家や、自分には関係の薄い商品の広告や、見た瞬間に嫌悪感を覚えるタイプのナラティブも、なるべく視界に残すようにしている。


 そのおかげで、私は彼らの看板を読める。


「価食をやめよう!」


 私はサンドを食べ切り、包み紙をホームのごみ箱に捨ててから電車に乗った。


 席に着くと、視界の端に広告用の二次元コードが入る。

 ARグラスが反応し、広告を再生するかどうかの選択肢を表示した。


 ARグラスが一般化した頃、広告の自動再生を規制する法律ができた。

 理由は単純で、規制を求める意見が多かったことに加え、いくつかの交通事故の原因として取りざたされたからだ。


 それ以来、端末が勝手に広告を流すことはなくなった。


 とはいえ、以前と比べて街が味気なくなったと感じる人も多い。

 そのため、任意設定で広告を表示できる機能は残されている。


 広告を再生すればポイントが入る仕組みも一般化した。

 勝手に見せられるのではなく、自分で受け取る。

 その手続きが挟まるだけで、だいぶ健全になったという意見もある。


 私は再生を許可する。


「天然ものより、徹底管理された人工肉を!

 プラスA評価をクリアした工場からのみ出荷!

 生化学データをもとに、最適な栄養バランスをあなたの家へお届け!

 今なら提携店からのデリバリーサービス料無料キャンペーン実施中!」


 流れてきた広告は、私が勤める広告会社の同僚が育て、出荷した広告AIによって生成されたものだった。


 広告AIは、広告の雛形を作る。

 共通の映像、音楽、字幕、ナレーション、そして複数の売り文句。

 それらの素材を与えると、同じ商品を宣伝するための、いくつかのナラティブ分岐を用意する。


 ある分岐では、環境負荷の低さを強調する。

 ある分岐では、価格と効率を訴える。

 ある分岐では、家族の健康を守る選択として語りかける。

 ある分岐では、動物の死から距離を取れる食生活として提示する。


 それらはすべて、広告AIが生成した広告パッケージの中に含まれている。

 食品で言えば、調味料や香料や栄養補助成分のようなものだ。


 ただし、広告AIが私の個人情報に直接アクセスしているわけではない。


 広告AIは、誰が広告を見るのかを知らない。

 私の閲覧履歴も、心拍も、睡眠時間も、過去に何を恐れ、何に安心したのかも知らない。


 広告AIが作るのは、あくまで複数の選択肢を含んだ広告素材である。

 その中から、どのナラティブを私に見せるかを決めるのは、私の端末にいる個人AIだ。


 外部から届くのは、広告AIが作った広告パッケージだけ。

 そこに含まれる複数のナラティブ分岐を、個人AIが端末内で照合し、私にとって最も受け取りやすいものを選ぶ。


 広告AIは、広告という食品を作る。

 個人AIは、それを私の体質に合わせて配膳する。


 データのやり取りは、構造的に切り離されている。

 送電線の電源トランスや、車の流体カップリングのように、力や機能は伝わるが、互いの内部までは直接つながらない。


 だから、この仕組みは食品管理制度とよく似ている。


 食品は、かつてただ売られていた。

 だが、アレルギー、添加物、産地偽装、栄養管理、衛生基準といった問題を経て、表示と管理の制度が整えられていった。


 何が入っているのか。

 どこで作られたのか。

 誰が管理したのか。

 どの基準を通過したのか。

 誰にとって危険で、誰にとって有益なのか。


 食べ物は、味だけではなく、情報と一緒に流通するようになった。


 広告も同じ道をたどった。


 どのAIが作ったのか。

 どのナラティブ分岐を含んでいるのか。

 どの感情に訴える設計なのか。

 不安、罪悪感、帰属意識、健康志向、倫理観、効率性への欲求。

 それらのうち、どの成分を強く含んでいるのか。


 今では広告も、意味の成分表示を持つようになった。


 もちろん、普通の人間が毎回そんなものを細かく読むわけではない。

 食品表示をすべて確認して食事をする人が少ないのと同じだ。


 だから、個人AIがいる。


 アレルギーを避けるように、不快なナラティブを避ける。

 不足しがちな栄養素を補うように、必要な情報を補う。

 塩分や糖分を制限するように、過剰な刺激や不安を抑える。


 広告だけではない。

 売場そのものも、同じように調整される。


 見たくないものを、視界から完全に消すわけではない。

 ただ、意識に上がりにくい形へ整える。

 反対に、受け取りやすいもの、選びやすいもの、今の自分に合っていると判断されたものは、見つけやすく表示される。


 それは親切であり、補助であり、生活の最適化だ。

 同時に、自分の関心がどこから自分のものだったのか、少しずつわからなくなっていく仕組みでもある。


 私は小さい頃から、動物が死ぬことにひどく動揺する傾向があった。

 ニュース映像であれ、ドキュメンタリーであれ、画面の向こうで生き物が苦しんでいると、しばらく食事が喉を通らなくなった。


 そのためか、私の個人AIは、屠殺や動物実験に加担しているというイメージから距離を取らせるナラティブを選ぶことが多い。


 人工肉は、命を奪わない選択。

 管理された工場は、苦痛を減らす仕組み。

 生化学データに基づく食事は、身体への合理的な配慮。


 そうした語り方であれば、私は食べることに罪悪感を抱きにくい。

 私の個人AIはそれを知っている。


 もちろん、この設定は自由にON/OFFできる。

 条件づけに応じたグラデーションのある対応も、手動・自動の両方で変更可能だ。


 見たくないものを、見ない。

 受け取りやすい形で、情報を受け取る。

 自分の心身に合った価値づけを、生活の中へ取り入れる。


 それは少なくとも、私にとっては便利で、穏やかで、健全な仕組みだった。


 だが、駅前の人々はそれを「価食」と呼んでいる。


 価値を食べること。

 意味を食べること。

 自分に都合よく調味された納得感を、栄養のように摂取すること。


 ある哲学者は、このような状態を、昔のミームになぞらえてこう評した。


「自然に生まれた価値を食べる時代から、機械的・人工的に調味された価値を食べる時代へ移り変わった」


 人はもはや、食べ物そのものだけを摂取しているのではない。

 その食べ物に添えられた意味を、物語を、罪悪感の処理方法を、自分に都合よく調整された納得感を、一緒に飲み込んでいる。


 同じものを食べていても、同じ価値を食べているとは限らない。

 同じ棚を見ていても、同じ売場を見ているとは限らない。


 電車が次の駅に近づく。


 窓の外には、さっきの駅前がまだ見えていた。

 手書きの看板を掲げた人々が、小さくなりながら何かを叫んでいる。


 私はふと、彼らの顔を思い出す。

 彼らの多くもまた、ARグラスをかけていた。

 当然といえば当然だ。


 彼らだって、電車に乗る。

 地図を見る。

 決済をする。

 食品表示を確認する。

 危険情報を受け取る。

 知らない言語を翻訳する。

 体調に合わせて、表示の明るさや音量を調整する。


 個人AIを完全に使わず生活することは、今の都市ではほとんど不可能に近い。


 それでも彼らは、価食をやめようと訴えている。


 菜食主義。

 宗教的な理由による食事の制限。

 逆に、一般的には食べないものを口にすることへの嫌悪感。


 それらは昔からあった。


 肉を食べないことに正しさを見いだす人がいる。

 豚肉を避ける人がいる。

 牛を神聖視する人がいる。

 昆虫を食べることに抵抗のない地域があり、強い嫌悪を示す地域がある。

 犬や馬や兎や蛸や鯨を食べることについて、文化ごとにまったく異なる反応がある。


 それらが、生まれ育った環境による慣れや適応や反応に過ぎないのだとすれば、現代のAIによるナラティブと何が違うのだろう。


 誰かはそれを伝統と呼ぶ。

 誰かは信仰と呼ぶ。

 誰かは倫理と呼ぶ。

 誰かは気持ち悪いから無理だと言う。


 けれど、食べられるかどうかを決めているのは、結局のところ、胃袋だけではない。


 その食べ物が何であるか。

 どこから来たのか。

 誰が作ったのか。

 何を傷つけたのか。

 何を守ったのか。

 それを食べる自分が、どういう人間として見えるのか。


 私たちは、そうした意味を一緒に飲み込んでいる。

 正当性なんてものは、突き詰めれば納得感の問題なのかもしれない。


 納得できるから食べる。

 納得できないから避ける。

 納得するために説明を探す。

 納得できる説明に出会うと、私たちは自然と導かれるように手足を動かす。


 棚に向かう。

 商品を手に取る。

 包装を見る。

 成分を確認する。

 自分に許されたものだと認識する。

 口へ運び、噛み、飲み込む。


 それは有史以来、変わっていないのかもしれない。


 昔の人間も、世界をそのまま食べていたわけではない。

 神話を通して食べていた。

 戒律を通して食べていた。

 家族の習慣を通して食べていた。

 村の常識を通して食べていた。

 学校で教わった栄養学を通して食べていた。

 テレビの健康番組を通して食べていた。

 誰かの「普通」を通して食べていた。


 ただ、その層が見えにくかっただけだ。


 私たちは今、物体としてのARグラスをかけている。

 透明なレンズの向こうに、個人AIが調整した世界を見ている。


 けれど、それは本当に新しいことなのだろうか。


 もしかすると、ARグラスは、以前から人間の目の前にかかっていた見えないメガネが、ようやく物体になったものに過ぎないのかもしれない。


 経験はずっと、私たちの視界に色をつけていた。


 今は、その一部を外部へ委託できるようになった。

 個人AIが分類し、調整し、濃淡をつけ、私の心身に合わせて世界を配膳してくれるようになった。


 だからといって、昔の人間が裸眼で世界を見ていたわけではない。


 ただ、今の私たちは、自分がメガネをかけていることを知っている。

 設定画面を開けば、表示する情報量を変えられる。

 どの情報を強調し、どの情報を遠ざけるかを選べる。


 私は窓の外を見る。


 彼らの視界で、どんな広告が表示されていたのだろう。


 物語は自分で理解し、形作られるものだと主張する自己啓発本。

 自分に都合よく調味された価値を摂取するのは人間的ではないと主張するセミナー。

 人間が真に救われるためには、自分自身で選択することに意味があると説く宗教団体。


 そんな広告が、彼らの視界に浮かんでいても不思議ではない。


 彼らは、価食を否定するためのナラティブを受け取っている。

 私は、価食を受け入れるためのナラティブを受け取っている。


 どちらも自分で選んだ設定だ。

 どちらも自分の心身を守るための調整だ。

 どちらも、自分が見たい世界を少しだけ見やすくしている。


 その違いは、思っているほど大きくないのかもしれない。


 電車のドアが閉まる。

 駅前の声が、ガラス越しに遠ざかる。


 ARグラスは、次の乗り換え案内を表示する。

 ついでに、さっき再生した広告のポイント付与通知が視界の端に浮かんだ。


 私はそれを確認し、通知を閉じる。


 窓の外では、手書きの看板を掲げた人々が、まだ何かを叫んでいる。

 けれど電車が動き出すにつれて、どれが声をあげる人々なのか、どれが道行く通行人なのか。


 その区別は、もうほとんどつかなかった。

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