07.恋に、落ちました
ネアが琥珀亭に住み込み始めて、四度目の定休日がやってきた。
その日、ネアは伯母から貰った給金の一部を握りしめ、商業区画へと繰り出していた。
『ネグリン三区』と呼ばれるこの区画が、この町の中心的な場所だ。舗装された石畳の道の両脇には様々な店が建ち並んでおり、商品を買い求める客でいつも賑わっている。
(こっちに来てからなんだかんだ忙しくて、三区まで来たのは初めてだけど……。本当に賑やかだわ)
琥珀亭のある五区はいつも穏やかな静けさに包まれているが、こうして喧噪の中にいると、王都にいた頃を思い出して少し複雑な気持ちになる。
(だめだめ! せっかく伯母さまが少し多めにお小遣いまでくれたんだから、楽しまないと。それに、ヴィルさんにお礼の品と、新しいハンカチだって買っていきたいし……)
ネアが涙でびしょびしょにしてしまったあのハンカチは、ヴィルが倒れていた時に身につけていた数少ない彼の私物のひとつだ。
一応丁寧に洗って返しはしたものの、それだけでおしまいにするのはさすがに気が引ける。
(えーっと、まずはお菓子屋さんに寄ってみようかな。この間常連さんにオススメしてもらったお菓子屋さんが、確かこの辺に……)
聞いていた目印を頼りに歩いていると、ちょうどその常連客である老夫婦と出くわした。
夫人のほうは手に、籐で編まれた買い物籠を持っており、夫のほうは大きな紙袋を抱えていた。
買い物を終え、今から家に帰るといった雰囲気だ。
「あれっ、ネアちゃんじゃないかね。そうか、今日は琥珀亭お休みの日だもんねぇ」
「そうなんです。せっかくだから、以前伺ったオススメのお店に行ってみようと思って。おふたりはデートですか?」
「デートだなんて、いやだわネアちゃんったら」
「こんな年寄りのじじばばをからかうもんじゃないよぉ!」
そう言いながらも、夫人の頬はほんのりと赤く、夫のほうも満更でもなさそうに笑っている。
「〝小鳥と木苺の菓子工房〟なら、あそこの赤い看板の店だよ」
親切にも去り際にそう言い残し、ふたりは肩を寄せ合いながら楽しげにその場を立ち去っていく。
仲睦まじい様子に、ネアの口元も自然と綻んだ。
父はネアが幼い頃に亡くなったが、記憶にあるかぎり、母とはとても仲の良い夫婦だった。きっとふたりが長生きしていれば、穏やかに支え合うあの老夫婦のような関係になっていたことだろう。
(いいなあ……。わたしも、ああいう関係に憧れてたけど……)
結婚どころか婚約破棄されるだなんて、現実は中々に厳しいものだ。
たとえあのまま結婚できていたところで、ルシアンが相手ではいずれ結婚生活は破綻していただろう。
それでも一度くらいは、誰かと穏やかな家庭を築いてみたかった。
言われたとおりに赤い看板を目指していくと、レンガ造りの可愛らしい建物に辿り着いた。
煙突からは白い煙が立ち上り、周辺には甘い良い香りが漂っている。
ドアを開けて中に入ると、愛想のよい女性店員が出迎えてくれた。明るい茶髪に緑の目をした、ネアと同世代とおぼしき若い娘だ。
「いらっしゃいませ!」
「こんにちは。あの、初めて伺ったんですけど、少し悩んでもいいですか?」
「はい、もちろんです。決まったらお声がけくださいね」
ネアの問いかけに、店員は嫌な顔ひとつせず快く頷く。その言葉に甘えて、ネアは店内をじっくりと観察することにした。
棚の上には、サブレやスノーボール、マドレーヌやフィナンシェといった様々な焼き菓子が所狭しと並べられている。
次にショーケースの中を覗き込むと、宝石のようにきらきらしたケーキが目を楽しませてくれる。
ダークチェリーをたっぷりと使ったチェリーパイ。
真っ赤な苺と白い生クリームのコントラストが美しいショートケーキ。
紫水晶を思わせるカシスのムース――。
(ヴィルさんはどんな味が好きかしら……)
一緒に住んではいるものの、ネアはあまりヴィルの好みを知らない。
朝晩の食事はいつもネアが担当し、昼は伯母の作った賄いを皆で食べているが、少なくともヴィルが不満そうにしているところは一度も見たことがない。
(たまにお店で売れ残ったケーキも美味しそうに食べているし、甘い物が嫌いじゃないことは間違いないと思うんだけど)
前回はキャロットケーキ、その前はガトーショコラ、更にその前はチーズケーキだったはずだ。
大きな手で小さいフォークを使い、もぐもぐと甘い物を頬張る『おじさま』の姿を、ネアは――こう言ってはなんだが、非常に可愛らしいと思ってしまった。
(って、そんなことはどうでもよくて! うーん、見た目が綺麗すぎると食べにくいかな……。ケーキだと賞味期限も短そうだし……。お酒に合うチョコレートとか焼き菓子のほうがいいかも?)
うんうん唸っていると、頭上から突然声が降ってきた。
「――どなたかへの贈り物ですか?」
「え、あ……っ!?」
急に声を掛けられたことに驚いて顔を上げると、女性店員と目が合った。
「随分真剣に悩んでいらっしゃったので、そうかなぁと」
「す、すみません。長いこと悩んじゃって……」
「いいえ、たくさんあるので悩んじゃいますよね。よろしければお勧め商品のご案内などもできますが――」
このままひとりで悩んでいても、いつまでも決められそうにない。ぜひプロの助言を取り入れたいところである。
こくこく頷くと、店員は張り切った様子でショーケースの裏から出てきて、ネアの隣に並んだ。
「お相手は恋人さんですか? それとも旦那さま?」
「い、いえ! いつもお世話になっている方で、日頃のお礼の品をと思って」
「年上の方、ですよね」
「ど、どうしてわかったんですか!?」
ぴたりと言い当てられた驚きに目を見開くと、彼女はふふっと軽やかな笑い声を上げた。
「お酒に合うお菓子を選ぶのって、年上の男性への贈り物の場合が多いんですよ。こんなに真剣に選んでもらえるなんて、きっとすごく素敵な方なんですね」
どうやら心の中で考えていただけのつもりが、口に出してしまっていたらしい。
己の迂闊さと、店員の見透かしたような発言に羞恥がこみ上げ、耳まで熱くなる。
幸いにして、店員はネアの動揺には気づいていないようだった。
「こちらのビターチョコレートの焼き菓子や塩とナッツのクッキーなどは、お酒によく合うと評判ですね。ケーキですとこちらの焼きチーズケーキとティラミス、オレンジのタルトなどもお勧めです」
「え、えっと、じゃあそれ全部ください……」
「ありがとうございます。すぐにご準備いたしますね」
店員が商品を箱に詰めるため背を向けたのをいいことに、ネアはかっかと熱を持つ顔を両手でパタパタと仰いだ。
(た、確かにヴィルさんは素敵な人だけど……)
そう、ヴィルは本当に素敵な男性だ。
まだ彼と暮らし始めて一ヶ月しか経っていないが、自信をもってそう言える。
そんな素敵な年上の男性に、助けてもらった礼としてお菓子を贈るだけ。
何もおかしなことはない。それなのに、どうして店員の何気ない接客トークにこんなにも動揺してしまうのだろう。
むずむずと居心地の悪い気分のまま待っていると、やがて包装を終えた店員が支払金額を伝えてくる。
ちょうどの金額を払い終え、商品を受け取ったネアは、挨拶もそこそこに逃げるように店を後にしてしまった。
その後は雑貨店でハンカチといくつかの身の回り品を買い、職業斡旋所も覗いていくことにした。
伯母は『いつまでもいてくれていいのよ~』と言ってくれているが、ずっと彼女を頼るわけにもいかない。
魔法塔を解雇されても、五級魔法士の資格が剥奪されたわけではないのだから、なんとか魔法に関する仕事を探して自立したいところだ。
とはいえ、ここは田舎町。しかも民間の職業斡旋所では、そういった仕事は非常に限られている。
「五級じゃねぇ……。せめて三級はないと。お姉さんまだ若いんだし、接待酒場で給仕とか踊り子でもしたほうが現実的なんじゃないの? ほら、求人いっぱいあるよ!」
斡旋所の職員からは、素っ気なくそんなことを言われる始末だ。
いくらネアが少々世間知らずでも、接待酒場に勤める女性がどういう格好でどういう仕事をしているのかくらい知っている。
けれど、つい先日セルジュに腕を掴まれただけで震えが止まらなくなった自分に、見知らぬ男性相手の接客など到底できるとは思えなかった。
要らないと言ったにもかかわらず、接待酒場の給仕やら踊り子やらの募集チラシを大量に押しつけられ、やや肩を落としながら琥珀亭へ帰り着く。
「ネアさん、お帰りなさい」
裏口の扉を開こうとすると、背後から声をかけられた。
振り向くと、軽装で首からタオルを下げたヴィルが佇んでいる。
「お疲れさまです、ヴィルさん。今日も川辺を走ってきたんですか?」
「はい、散歩がてら。ネアさんは――随分とたくさん買ってきたんですね」
屋内に入りながらそんなことを言われ、改めて自分の荷物に目を落とす。
押しつけられた求人チラシや、ケーキと焼き菓子の入った箱。雑貨店の紙袋。
確かに大量だ。
「あの、こ、こ、これは……っ。ヴィルさんに……っ」
チラシと自分用に買ったものを適当な台の上に除け、ネアは先に菓子店の箱をヴィルに差し出す。
妙に緊張して、声がみっともなく上擦ってしまった。
「――私に?」
「この間助けていただいたお礼、です」
「……気にしなくていいと言ったのに」
遙かに高い場所にあるヴィルの表情は、ネアからは見えない。
こんなことをして、逆にヴィルを困らせてしまっただろうかと思うと、顔を上げて様子を窺う勇気も出なかった。
不安になって手を引っ込めようとすると、それより早く、ヴィルが箱を掴む。
「――開けても?」
「っ、はい! もちろんです!」
「では、お言葉に甘えて」
ヴィルはそう断ってから、普段琥珀亭の客が使っているカウンターの上に箱を置いた。
彼が腰を下ろしたので、つられてネアも少し離れた席に腰を下ろす。
男性らしいゴツゴツと骨張った指からは信じられないほど丁寧な手つきで、彼は包装紐を解いていく。
やがて箱の中身が姿を現すと、ヴィルは嬉しそうに目を細めた。
「これは、随分と美味しそうだ」
「〝小鳥と木苺の菓子工房〟っていうお店で買ったんです。お酒にも合うっておすすめしてもらって……」
ヴィルの笑顔を見られたのが嬉しくて、ついつい口を滑らせたところで、ネアはハッと口を噤んだ。
まるで、ヴィルが酒好きみたいな言い方ではないか。実際、ヴィルが酒を飲んでいるところなど見たこともないのに。
「あ! でも、その、勝手なイメージなので……! もしお口に合わなかったら――」
「いいえ」
慌てて取り繕おうとした言葉を、ヴィルが穏やかに遮る。
「せっかくネアさんが買ってきてくださったものです。大事にいただきます」
優しい微笑みを向けられた瞬間、今まで感じたことのないむず痒い心地になり、ネアはそれをごまかすようにハンカチの包みも差し出した。
「そ、それからこちらも……! 新しいハンカチです。汚してしまったお詫びには、ならないかもしれませんが……」
「――これは」
ヴィルはわずかに目を見開き、それから困ったように、けれどどこか嬉しそうに笑った。
「本当に律儀ですね、あなたは」
その瞬間、ネアの胸が大きく跳ねた。
(――あ)
どうして彼を目で追ってしまうのか。
どうして笑ってくれると嬉しいのか。
その答えに、ネアはとうとう気づいてしまった。




