三角関係の果てで、私は世界よりも恋を選んだ
第一章 花の名を持つ娘
アマリリスが生まれた朝、村の外れにある墓地の土がひび割れ、一輪の赤い花が咲いたという。
それは祝いでもあり、不吉の兆しでもあると、後に人々は口々に語ることになる。
彼女は泣かなかった。産声を上げる代わりに、小さく息を吐き、まるで周囲を確かめるように瞼を震わせただけだった。その様子を見て、産婆は言葉を失い、母は不安げに娘の額へ手を伸ばした。
「……大丈夫。この子は、生きるわ」
母の声は震えていたが、確信があった。
アマリリスは、強く生きる子だと。
*
十六年後。
アマリリスは村の丘に立ち、乾いた風を受けながら遠くの街道を見下ろしていた。赤茶けた大地の先を、商隊の影がゆっくりと進んでいく。
「……来た」
その背後で、低く太い声が応じる。
「まだ決めかねてる顔だな、アマリリス」
声の主はタッグ。屈強な体格に似合わず、彼の視線はいつも慎重だった。孤児だったアマリリスを拾い、育てた人物でもある。
「決めてる。……ただ、覚悟してるだけ」
丘の下から、軽やかな足音が二つ近づいてきた。
「また難しい顔してる!」
「ほら、旅立つ人の顔じゃないよ、それ」
セシーとクックルだった。
セシーは明るく、感情がすぐ顔に出る。一方のクックルは口数が少なく、いつも半歩後ろから物事を見ていた。
「行くんでしょ、街」
「うん。ミチノクスに会う」
その名を出した瞬間、空気がわずかに張りつめた。
ミチノクス。
かつて王都に仕え、今は辺境で鍛冶をしている男。
そして――アマリリスの出生に関わる、ただ一人の生き証人。
「……あの人に会えば、全部わかるの?」とセシー。
「わからなくてもいい。ただ、自分が何者なのかを、誰かの噂じゃなく、自分で聞きたい」
クックルが静かに頷いた。
「それなら、行くしかないね」
その時、丘の向こうから馬の蹄の音が響いた。
砂煙の中から現れたのは、青い外套を羽織った青年だった。
「遅れてすまない」
テミールだった。旅人であり、剣士であり、なぜかこの村に長く滞在している男。
彼はアマリリスを見ると、ほんの一瞬、目を細めた。
「……花が咲く時だな」
アマリリスは微笑まなかった。
代わりに、丘の上に立ち、仲間たちを一人ずつ見渡す。
「これは旅じゃない。戻れないかもしれない」
「それでも行く?」とタッグ。
「うん」
その答えに迷いはなかった。
アマリリスは知らない。
自分の一生が、この一歩からどれほど長く、どれほど血と別れに満ちたものになるのかを。
ただ、赤い花の名を持つ彼女は、歩き出した。
――咲くために。
そして、散る意味を知るために。
第二章 やわらかな距離
アマリリスが自分の剣を「武器」として意識し始めた頃、彼女の隣にはいつもタッグがいた。
それは偶然ではなく、選択でもなかった。ただ、気づけばそうなっていた、という距離だ。
タッグは無口な男だった。必要なことしか言わないし、感情を顔に出すのも苦手だ。けれど、アマリリスが無理をしているときだけは、なぜか必ず気づいた。
「……今日は、進みすぎだ」
焚き火の前で、そう言われた夜がある。
アマリリスは笑ってごまかそうとしたが、タッグは視線を逸らさなかった。
「平気よ。これくらい」
「平気な顔と、平気な体は別だ」
その言葉に、胸の奥が少しだけ揺れた。
誰かにそう言われたのは、いつぶりだろう。
ミチノクスは豪快に笑い、セシーは理屈で心配し、クックルは冗談で誤魔化す。テミールは遠くから静かに見ている。
けれどタッグのそれは、どれとも違った。守ろうとするでも、支配しようとするでもない。ただ「隣に立つ」ための言葉だった。
その夜、アマリリスは眠れなかった。
タッグの言葉が、焚き火の残り香のように胸に残っていた。
翌日、敵との小競り合いで、アマリリスは一瞬だけ判断を誤った。
その刹那、彼女の視界を横切った影がある。
タッグだった。
剣と剣がぶつかる音。
衝撃で腕が痺れる。
「……無茶するな」
その声は低く、怒っているようで、どこか震えていた。
戦いが終わったあと、アマリリスは初めて自分からタッグに近づいた。
「さっきの、ありがとう」
「仕事だ」
そう言いながら、彼は目を合わせなかった。
その横顔が、なぜか少しだけ幼く見えて、アマリリスは胸の奥が熱くなるのを感じた。
恋だと気づくには、まだ早すぎた。
でも、名前のない感情は、確かにそこにあった。
夜、星を見上げながら、アマリリスは思う。
強くなることと、誰かを想うことは、両立できないのだろうか。
タッグは少し離れた場所で剣の手入れをしていた。
無言の背中。けれど、孤独ではない距離。
その距離が、今は心地いい。
アマリリスはまだ知らない。
この「やわらかな距離」が、いつか彼女の一生を左右するほど大切なものになることを。
ただその夜、彼女は初めて、
誰かと生きる未来を、ほんの一瞬だけ思い描いた。
第三章 交差する視線
アマリリスが気づいたのは、ほんの些細な違和感からだった。
タッグと話しているとき、少し離れた場所でセシーの視線を感じる。責めるでもなく、咎めるでもない、ただ静かに様子をうかがうような目。
セシーは頭の切れる女だった。状況判断が早く、感情よりも合理を優先する。アマリリスにとっては、信頼できる仲間であり、時に自分よりも冷静な“補助脳”のような存在だった。
「最近、タッグと一緒にいる時間が長いわね」
その言葉は、作戦確認のついでのように、軽く投げられた。
けれどアマリリスは、なぜか即答できなかった。
「……そう、かも」
セシーはふっと微笑む。
その笑みは柔らかいのに、どこか張りつめている。
「いいと思うわ。背中を預けられる相手がいるのは」
肯定の言葉なのに、胸の奥がざらついた。
まるで「それ以上踏み込むな」と言われているような、そんな錯覚。
その夜、アマリリスはセシーと二人で見張りに立った。
風が冷たく、焚き火の火も弱い。
「アマリリスはさ、怖くならないの?」
唐突な問いだった。
「何が?」
「誰かを大切にしすぎて、失うのが」
アマリリスは黙り込んだ。
タッグの背中が脳裏に浮かぶ。剣を振るう姿、無言の気遣い。
「……怖い、と思う」
そう答えると、セシーは小さく息を吐いた。
「私もよ」
その声は、驚くほど弱かった。
翌日、作戦中に小さなミスが重なった。
原因は明確だった。連携のズレ。
タッグはアマリリスを守ろうと一歩前に出る。
同時に、セシーは全体を見て後退を選ぶ。
判断はどちらも正しい。
だからこそ、ぶつかった。
「前に出すぎだ、タッグ!」
「引きすぎだ、セシー!」
怒鳴り合う二人の間に、アマリリスは立ち尽くした。
自分が原因だと、わかっていた。
戦闘後、気まずい沈黙が流れる。
タッグは剣を握ったまま、何も言わない。
セシーはいつもより饒舌だった。
「感情は判断を鈍らせるわ。自覚したほうがいい」
その言葉は、タッグに向けたもののはずなのに、
アマリリスの胸に突き刺さった。
夜、アマリリスは一人で外に出た。
冷たい空気が、頭を少しだけ冷やしてくれる。
そこに、セシーが現れる。
「奪うつもりはないの」
前置きもなく、そう言った。
「でも、譲る気もない」
月明かりの下で、セシーの目は真っ直ぐだった。
計算も、駆け引きもない、ただの感情。
「あなたが選ぶなら、それを受け入れる。でも——」
一拍置いて、言葉が落ちる。
「選ばれなかったほうが、傷つくのは事実よ」
アマリリスは何も言えなかった。
正解がないことを、初めて知ったから。
少し離れた場所で、タッグがこちらを見ていた。
何も言わない。けれど、逃げない。
二つの視線が交差し、アマリリスの胸は締めつけられる。
この旅は、強くなるためのものだったはずだ。
なのに今、彼女は知ってしまった。
誰かを想うことは、
誰かを傷つける可能性を、必ず伴うということを。
そしてそれでも、
彼女はまだ、選べずにいる。
第四章 裂けた信頼
違和感は、朝の空気に混じっていた。
静かすぎる――それが、アマリリスの最初の感想だった。
野営地の周囲に張っていた警戒線が、何者かに触れられた形跡がある。だが、侵入の痕跡はない。まるで「ここにいる」と知らしめるためだけに、わざと残された印。
「妙だな」
ミチノクスが唸る。
「敵の癖じゃない」
クックルは軽口を叩こうとして、やめた。
全員が同じことを感じている。
――内部の人間の動きだ。
テミールは黙っていた。
いつも通り、少し離れた位置で周囲を観察している。冷静で、感情を見せない男。斥候役として、これ以上ないほど優秀な存在。
だからこそ、誰も疑わなかった。
その油断を、敵は待っていた。
昼過ぎ、峡谷を抜ける途中で襲撃を受けた。
挟撃。完璧な位置取り。
「情報が漏れてる!」
セシーの声が鋭く飛ぶ。
アマリリスは剣を振るいながら、脳裏が白くなるのを感じた。
このルートは、今朝変更したばかりだ。
知っているのは――
「テミール!」
名前を呼んだ瞬間、彼の姿が視界から消えた。
戦闘は辛うじて切り抜けた。
だが、勝利の余韻はどこにもない。
血と埃の中で、アマリリスは立ち尽くした。
「……いない」
タッグが短く告げる。
クックルが唇を噛む。
「嘘だろ……」
夜、焚き火を囲んでも、誰も言葉を発さなかった。
テミールが裏切った――その事実を、まだ受け止めきれていなかった。
「感情論は捨てて」
最初に口を開いたのは、セシーだった。
「彼は合理的な人間よ。命と引き換えに情報を渡した。それだけ」
冷たい分析。
正しい。正しすぎる。
「でも……」
アマリリスの声は震えた。
「あの人は、そんな簡単に仲間を売る人じゃなかった」
タッグが、アマリリスを見る。
その視線は、どこか苦しそうだった。
「信じたい気持ちはわかる」
そう前置きしてから、続ける。
「だが、結果がすべてだ」
その言葉が、胸に突き刺さる。
タッグは間違っていない。
けれど――
「……私が弱いって言いたいの?」
思わず、口をついて出た。
場の空気が凍る。
タッグは一瞬だけ目を伏せ、それから言った。
「違う。だが、今は迷う時間がない」
正論だった。
だからこそ、アマリリスは何も言えなくなる。
その夜、彼女は一人で焚き火から離れた。
裏切り。
疑念。
そして、選べない自分。
そこへ、セシーが来る。
「辛いわね」
珍しく、慰めるような声だった。
「でも、あなたが揺れると、全体が崩れる」
アマリリスは俯いた。
「私、信じたかった……」
「ええ。だからこそ、次は間違えないで」
セシーはそう言って、立ち去った。
少し遅れて、タッグが来た。
「さっきは……言い方が悪かった」
その一言に、胸が締めつけられる。
「俺は、お前が弱いとは思っていない」
静かな声。
「だが、信じるなら、覚悟も必要だ」
アマリリスは顔を上げた。
「……もし、テミールが生きていたら?」
タッグは少し考えてから答えた。
「そのときは、そのときだ」
逃げない答えだった。
裏切りは、敵だけがもたらすものではない。
疑うことも、信じることも、人を傷つける。
この夜、アマリリスは初めて理解した。
強さとは、剣の重さではない。
誰を信じ、
誰を疑い、
それでも前に進むこと。
その覚悟が、彼女に問われていた。
第五章 笑顔の裏側
クックルは、いつも通りだった。
裏切りが起きた翌朝も、少し眠そうな顔で伸びをして、わざとらしく大きなあくびをした。
「いやー、昨日は派手だったねぇ。命がいくつあっても足りないや」
その声に、誰も笑わなかった。
アマリリスは彼を見る。
軽口の奥に、わずかな違和感。
いつもなら真っ先に場を和ませようとするクックルが、今日は必要以上に“普通”だった。
「……クックル」
呼び止めると、彼は一瞬だけ言葉に詰まった。
ほんの一瞬。だが、アマリリスは見逃さなかった。
「なに?」
「昨日の襲撃、どう思う?」
クックルは肩をすくめる。
「どうって? 最悪でしょ。情報漏れ。裏切り。テンプレ通り」
軽い。軽すぎる。
その日の移動中、アマリリスはタッグと並んで歩いた。
「クックルの様子、おかしくない?」
「……あいつは、いつもああだ」
そう言いながらも、タッグの視線は前方ではなく、少し後ろを歩くクックルに向いていた。
夜、セシーが小声で告げる。
「私も気づいてる。彼、昨日の敵の動きに妙に詳しかった」
胸がざわつく。
疑うことに、もう疲れているはずなのに。
その答えは、意外な形で訪れた。
見張りの交代時間、クックルがアマリリスを呼び止めた。
「ねえ、ちょっとだけ話せる?」
焚き火から離れた暗がり。
彼は、いつもの軽薄な笑顔を消していた。
「怒らないで聞いてほしいんだけどさ」
前置きが、やけに重い。
「俺、知ってたんだ。テミールが狙われてたこと」
アマリリスの息が止まる。
「……どういう、意味?」
クックルは髪をかき上げ、苦笑した。
「敵がさ、前から接触してた。情報屋経由でね。俺の耳に入った」
「じゃあ、どうして——」
「言わなかった?」
言葉を継いだのは、クックル自身だった。
「言えなかった」
沈黙。
焚き火の爆ぜる音だけが響く。
「証拠がなかった。言えば疑心暗鬼になる。チームが壊れる」
彼は視線を逸らす。
「……それに、テミールが本当に裏切るとは、思えなかった」
その言葉が、胸を打つ。
アマリリス自身が、昨日まで思っていたことだった。
「結果、俺の判断ミス」
クックルは、初めて深く頭を下げた。
「ごめん」
軽口ばかりの男の、真剣な謝罪。
それが、余計に重い。
「テミールは?」
アマリリスが問う。
「捕まった可能性が高い。でも——」
クックルは顔を上げた。
「完全な裏切りじゃない。あいつ、わざと半端な情報しか渡してない」
その一言に、希望が灯る。
「それ、本当?」
「賭けだけどね。でも俺の情報網、そう外さない」
そこへ、足音。
タッグとセシーが姿を現した。
二人とも、すでに話を聞いていたようだった。
「隠し事は嫌いよ」
セシーが言う。
「でも、あなたの選択は理解できる」
タッグは短く告げた。
「次は、必ず共有しろ」
「……うん」
クックルは小さく笑った。
「いやー、説教されると、ほんと年上感あるよね」
その軽口に、場の空気が少しだけ緩む。
アマリリスは思う。
信頼とは、裏切られないことではない。
裏切りが起きたあと、どう向き合うかだ。
この夜、彼女は初めて、自分が“中心”に立っていることを自覚した。
感情に流されるだけでは、皆を守れない。
冷たくなりすぎても、失ってしまう。
クックルの情報は、次の行動への道を示していた。
テミールは、まだ終わっていない。
そして、この関係も。
アマリリスは剣を握る。
守るべきものが、また一つ増えた気がした。
第六章 裏切りの輪郭
敵の拠点は、地図に載らない谷の奥にあった。
切り立った岩と、風の通らない湿った空気。隠すことに特化した場所だと、一目でわかる。
「ここ、嫌な感じする」
ミチノクスが低く言う。
「“守ってる”というより、“閉じてる”」
クックルは頷いた。
「情報を隠す場所だね。守るためじゃない。知られちゃいけない何かを」
その言葉に、アマリリスの胸がざわついた。
夜、斥候から戻ったクックルが、地面に簡易図を描く。
「テミールが捕まってる可能性、七割。でも……」
指が、拠点のさらに奥を示す。
「敵の動きが不自然なんだ。命令系統が二重になってる」
セシーが即座に反応する。
「内部対立?」
「近い。でももっと厄介」
クックルは顔をしかめた。
「敵側に、“こちらのやり方を知りすぎてる奴”がいる」
その場の空気が、凍りつく。
「つまり……」
アマリリスが言葉を継ぐ。
「私たちと同じ側にいたことがある人間?」
クックルは、ゆっくり頷いた。
「たぶんね。しかも、かなり上の立場」
タッグが剣の柄に手を置く。
「テミール、ではないな」
「うん。あいつはここまで精密じゃない」
そのとき、セシーが小さく息を吸った。
「……該当者が、一人いる」
全員の視線が集まる。
「過去、複数の陣営を渡り歩き、今は消息不明。
戦術・心理・連携、すべてに精通している人物」
一拍置いて、名が落ちた。
「――アレク」
アマリリスは知らない名前だった。
だが、他の三人の表情が変わる。
「死んだって聞いてた」
タッグの声が低く沈む。
「“死んだことにした”可能性のほうが高いわ」
セシーは冷静に言う。
「彼は、生き残るためなら、立場も仲間も選ばない」
クックルが続ける。
「問題はそこじゃない。
アレクは、“人を裏切らせる”のが得意なんだ」
胸が締めつけられる。
「直接裏切らない。
疑念を植え、選択を歪めて、結果として崩壊させる」
アマリリスは、これまでの出来事を思い返す。
テミールへの接触。
情報の半端さ。
三角関係の揺らぎ。
「……全部、誘導だった?」
「可能性は高い」
セシーはアマリリスを見る。
「あなたが“選べない”ことを、見抜かれてる」
言葉が、刃のように刺さる。
その夜、アマリリスは眠れなかった。
焚き火の向こうで、タッグが剣を磨いている。
「……私が原因?」
問いは、弱音だった。
タッグは首を振る。
「違う。狙われたのは、お前の弱さじゃない」
一拍置いて、続ける。
「お前が“人を信じる”からだ」
その言葉に、涙が出そうになる。
「信じることは、間違いじゃない」
タッグは真っ直ぐに言った。
「だが、信じたまま、立ち止まるのは違う」
アマリリスは、ゆっくり頷いた。
翌朝、彼女は全員を集めた。
「敵は、私たちの“関係”を壊しにきてる」
視線が集まる。
「だから、隠さない。迷ったら言う。疑ったら話す」
クックルが苦笑する。
「それ、いちばん難しいやつ」
「でも、やる」
アマリリスは剣を握った。
「私は、選ぶ。
信じることも、疑うことも、逃げない」
その瞬間、彼女は確かに変わった。
敵は、剣よりも深いところを狙っている。
ならば――
この戦いは、心で勝つしかない。
アマリリスの一生は、
もう“守られる側”では進まない。
第七章 選ぶという痛み
戦闘は、夜明け直前に始まった。
敵は待っていた。
こちらが来ることも、陣形も、迷いさえも。
「散開!」
タッグの声が響く。
同時に、矢と魔力弾が降り注いだ。
アマリリスは剣を抜き、前に出る。
足は迷っていない。だが、胸の奥がざわつく。
敵の配置が、あまりにも“こちら向き”だった。
「左右から来る!」
セシーの警告。
だが、その瞬間――
爆音。
地面が崩れ、視界が白くなる。
「タッグ!」
叫んだ声は、轟音に飲まれた。
視界が戻ったとき、アマリリスの右側にはタッグがいた。
左――少し離れた場所に、セシー。
二方向から、同時に敵が迫る。
どちらも危険。
どちらも、放置すれば致命傷になる。
――選べ。
頭の奥で、誰かの声がした気がした。
アレクのものか、自分自身か、わからない。
「アマリリス!」
タッグが叫ぶ。
「指示を!」
セシーも、こちらを見る。
冷静な瞳。その奥に、わずかな揺れ。
時間が、引き伸ばされる。
守るべきは、仲間。
大切なのは、全体。
けれど、心は知っている。
自分が、誰を失いたくないかを。
「……セシー、後退!」
声が、出た。
一瞬の静寂。
セシーの目が、わずかに見開かれる。
だが彼女は、頷いた。
「了解」
命令として受け取った。
感情を挟まずに。
アマリリスは、タッグのほうへ駆けた。
剣を振るい、敵を押し返す。
タッグと背中を合わせる形になる。
「……来たな」
タッグの声は低く、静かだった。
「ごめん」
思わず漏れた言葉。
「謝るな」
剣を振るいながら、彼は言う。
「お前が選んだ。それでいい」
だがその直後、遠くで爆発音。
セシーの位置だ。
アマリリスの心臓が跳ねる。
「——っ!」
足が、動きかけて止まる。
今さら、戻れるのか。
自分の選択を、裏切ることになるのではないか。
「行け」
タッグが、低く言った。
「今度は、迷うな」
その言葉に、何かが切れた。
アマリリスは走った。
セシーは、膝をつきながらも、敵を迎え撃っていた。
負傷している。だが、まだ生きている。
「……遅いわ」
皮肉めいた声。
「でも、来た」
アマリリスは剣を構える。
「私は……」
言葉に詰まる。
「選んだ。でも、それで終わりじゃない」
セシーは、一瞬だけ目を伏せた。
「ずるいわね」
それでも、彼女は笑った。
「でも、あなたらしい」
戦闘は、夜明けとともに終わった。
敵は撤退し、谷には静寂が戻る。
三人は、生きていた。
だが、何かが変わったのも確かだった。
選ぶことは、救うことでもあり、
同時に、誰かを傷つけることでもある。
アマリリスは知った。
恋は、甘いだけのものじゃない。
命と、信頼と、覚悟を要求する。
それでも。
彼女はもう、目を逸らさない。
第八章 名を持つ前の少女
夜は、静かすぎた。
戦闘のあと特有の、耳鳴りのような沈黙。
焚き火の前で、アマリリスは剣を膝に置いたまま動かなかった。
「……話さないの?」
最初に声をかけたのは、セシーだった。
「今なら、聞くわ」
アマリリスは少しだけ笑った。
「ずるいね。選ばれなかった側の言葉って、強い」
「違うわ」
セシーは首を振る。
「“知りたい側”の言葉よ」
タッグも、クックルも、少し離れた場所で黙っている。
逃げ場は、なかった。
アマリリスは、ゆっくり息を吸う。
「……私ね」
剣の柄を、強く握る。
「最初から、選ぶのが苦手だった」
クックルが冗談めかして言う。
「えー? 今さら?」
「茶化さないで」
小さく笑ってから、アマリリスは続けた。
「生まれた村があった。小さくて、何もないところ」
「普通ね」
セシーが言う。
「普通だった。でも――」
声が、少し低くなる。
「私には、姉がいた」
タッグの視線が、初めて強く向けられた。
「優しくて、強くて、皆に好かれてた」
アマリリスは焚き火を見る。
「私は、いつも後ろ。
姉が選ばれて、私は残る」
「……それで?」
「ある日、襲われた」
短い言葉。
重たい沈黙。
「敵が来て、村は燃えた」
クックルが、口を閉じる。
「逃げるとき、分かれ道があった」
アマリリスの声が、震える。
「姉は言ったの。
『アマリリス、先に行って』って」
セシーが、息を呑む。
「私は、選ばされた」
アマリリスは顔を上げる。
「姉を置いて、逃げるか。
一緒に残って、死ぬか」
「……」
「私は、逃げた」
はっきりとした声だった。
「姉は、戻ってこなかった」
焚き火が、ぱちりと音を立てる。
「それで、名前を変えた」
タッグが低く言う。
「……アマリリスは、本名じゃないな」
「うん」
アマリリスは頷く。
「“忘れないため”の名前」
セシーが、静かに問う。
「だから、選べない?」
「違う」
アマリリスは首を振る。
「選ぶたびに、あの日が戻る」
声が、少しだけ強くなる。
「誰かを選ぶ=誰かを置いていく、って思ってた」
クックルが小さく言う。
「重すぎるでしょ、それ」
「うん。でも……」
アマリリスは、タッグを見る。
「あなたが“選べ”って言ったとき、怖かった」
タッグは、目を逸らさなかった。
「それでも、選んだな」
「選んだ」
「後悔してるか?」
少しの間。
「……してない」
セシーが、ふっと笑う。
「それ、成長って言うのよ」
アマリリスは息を吐く。
「私、ずっと思ってた。
選ばなければ、誰も傷つけないって」
首を振る。
「違った。選ばないことが、いちばん人を傷つける」
タッグが、短く言う。
「それに気づいたなら、十分だ」
クックルが両手を上げる。
「いやー、重い過去ぶっ込んでくるじゃん」
「でもさ」
少し真面目な声になる。
「逃げたって言うけど、生き残ったんだろ?」
アマリリスは、目を瞬いた。
「生きたから、今ここにいる」
「それって、悪いこと?」
答えは、すぐには出なかった。
けれど。
「……いいえ」
小さく、でも確かに言った。
焚き火の向こうで、夜が少しだけ明るくなった気がした。
アマリリスは剣を握り直す。
「私は、もう逃げない」
タッグが頷く。
セシーが静かに言う。
「なら、次は未来の話をしましょう」
クックルが笑う。
「重いの終わり! 次は修羅場?」
アマリリスは、ほんの少しだけ笑った。
過去は、消えない。
でも、縛られ続ける必要もない。
彼女はもう、
選ぶことを恐れる少女ではなかった。
第九章 選ばれた名前
夜明け前、風が止んだ。
それは嵐の前触れのようでもあり、何かが終わる合図のようでもあった。
アマリリスは、一人で立っていた。
背後に気配。
「……呼んだ?」
セシーの声だった。
「うん」
振り返らずに答える。
「今なら、ちゃんと話せる気がして」
セシーは隣に立つ。
いつもより、少しだけ近い距離。
「覚悟、決まった?」
「半分」
「正直ね」
セシーは微笑んだ。
「私は、あなたが羨ましかった」
アマリリスは驚いて顔を見る。
「迷えるところが」
「え?」
「私はいつも、最適解を選んできた。
感情を切り捨てて、合理だけで」
夜の中で、セシーの声は静かだった。
「でもあなたは、迷う。苦しむ。それでも選ぶ」
「……強い?」
「人間らしい」
少しの沈黙。
「タッグのこと、好き?」
直球だった。
アマリリスは、逃げなかった。
「好き」
「即答ね」
「うん」
胸が痛む。
でも、嘘は言わないと決めた。
セシーは、目を閉じた。
「……そっか」
一拍。
「私ね、選ばれなかったことより」
目を開く。
「“選ばれないかもしれない”時間が、一番辛かった」
アマリリスは、息を吸う。
「ごめん」
「謝らないで」
きっぱりとした声。
「あなたは、ちゃんと選んだ。それでいい」
セシーは一歩下がった。
「行きなさい。
今度は、迷わずに」
アマリリスは、深く頭を下げた。
「ありがとう」
セシーは背を向け、手を振る。
「借り一つよ。生きて返しなさい」
その背中が、少しだけ震えて見えた。
少し離れた場所で、タッグは剣を手入れしていた。
「……話は終わったか」
顔を上げずに言う。
「うん」
アマリリスは、一歩前に出る。
「タッグ」
彼は、ようやく顔を上げた。
「俺は、選ばれるのが得意じゃない」
低い声。
「お前が迷うのを、待つことしかできなかった」
アマリリスは首を振る。
「待ってくれた。それが、救いだった」
一瞬、沈黙。
「私ね」
アマリリスは胸に手を当てる。
「ずっと怖かった。
選ぶたびに、誰かを失う気がして」
「……」
「でも、あなたといると」
言葉を探す。
「失うより、“一緒に進む”って思えた」
タッグの目が、揺れた。
「それは……」
「恋だよ」
はっきりと言った。
「弱さも、迷いも含めて。
それでも、あなたを選びたい」
長い沈黙。
そして、タッグは剣を置いた。
「……俺は」
一歩、近づく。
「お前を守ると、決めた」
「守られるだけじゃ、嫌だよ」
アマリリスは微笑む。
「並びたい」
タッグは、短く笑った。
「難しい要求だ」
「知ってる」
それでも、彼は手を伸ばした。
握られた手は、硬くて、温かい。
「選んだな」
「うん」
「後悔は?」
「しない」
タッグは、静かに頷いた。
「なら、俺も選ぶ」
その言葉が、胸に落ちる。
夜が、終わる。
恋が、始まる。
それは甘い約束じゃない。
戦いの中で、何度も試される関係。
それでも。
アマリリスは、もう迷わない。
自分で選び、
自分で歩く。
その隣に、
タッグがいる。
第十章 選び続けた先で
戦場は、静かだった。
嵐の前のような、張りつめた空気。
谷の中央、敵の旗の前に、男が立っている。
「……来たか」
低く、よく通る声。
「アレク」
セシーが名を呼んだ。
男は、薄く笑う。
「久しいな。まだ生きていたとは」
アマリリスは一歩前に出た。
「あなたが、全部仕組んだの?」
「“全部”は言い過ぎだ」
アレクは肩をすくめる。
「人は、迷う。疑う。
俺は、背中を少し押しただけだ」
「仲間を、駒にした」
タッグの声が低くなる。
「駒?」
アレクは首を振る。
「選択肢を与えただけだ。
裏切るか、信じるか。
愛するか、切り捨てるか」
視線が、アマリリスに向く。
「お前は、よく揺れたな」
アマリリスは剣を構える。
「……昔の私なら、きっと立ち止まってた」
「今は?」
「今は、違う」
アレクが目を細める。
「何が変わった?」
アマリリスは、仲間を見る。
セシー。クックル。ミチノクス。
そして、タッグ。
「選んできた」
一歩、前へ。
「逃げずに。誤魔化さずに」
アレクは、ため息をついた。
「つまらんな。
人は、迷っている時が一番美しい」
「それは——」
セシーが言う。
「あなたが、進めなかったからよ」
一瞬、アレクの表情が歪む。
「……黙れ」
その瞬間、戦闘が始まった。
剣と剣がぶつかる音。
魔力が走る。
「右!」
クックルの叫び。
「了解!」
アマリリスは、即座に動く。
迷いはない。
アレクの動きは、的確で、冷酷だった。
「ほら、選べ!」
剣を振るいながら、叫ぶ。
「仲間か! 正義か! 自分か!」
「全部だ!」
アマリリスは叫び返す。
「私は、全部を選ぶ!」
タッグが背中を預ける。
「無茶言うな」
「一緒なら、できる!」
短い笑い声。
「……そうだな」
二人で前に出る。
アレクの剣が、アマリリスの肩をかすめる。
「っ……!」
「アマリリス!」
タッグが叫ぶ。
「大丈夫!」
歯を食いしばる。
「私は、ここで終わらない!」
セシーの魔術が、道を切り開く。
「今よ!」
クックルが叫ぶ。
「一瞬だけ、隙がある!」
アマリリスは、踏み込んだ。
剣を、まっすぐに。
「アレク!」
「……来い」
刃が、交差する。
「俺はな」
アレクが低く言う。
「選び続けるのが、怖かった」
「だから、壊した?」
「そうだ」
苦笑。
「羨ましかった」
その瞬間、アマリリスは剣を振り抜いた。
衝撃。
アレクが膝をつく。
「終わりだよ」
アマリリスの声は、静かだった。
「あなたは、選ばなかった。
私は——選び続ける」
アレクは、空を見上げた。
「……眩しいな」
それが、最後の言葉だった。
戦いは、終わった。
谷に、風が戻る。
クックルが座り込む。
「いやー……生きてる?」
ミチノクスが笑う。
「ギリな」
セシーは、アマリリスを見る。
「これで、一区切りね」
アマリリスは頷いた。
「でも、終わりじゃない」
タッグが、隣に立つ。
「一生、選び続けるんだろ」
「うん」
彼を見る。
「それでも、いい?」
タッグは少し考えてから言う。
「……飽きなさそうだ」
アマリリスは笑った。
剣を、地に立てる。
「私の一生は、ここで決まった」
誰かに決められた道じゃない。
逃げて作った道でもない。
選び、傷つき、
それでも進む。
その隣に、誰かがいる。
それでいい。
アマリリスは、歩き出した。
一生を、自分の足で。
後日談 静かな朝
朝の光は、思っていたより柔らかかった。
戦いのない朝は、こんなにも静かなのかと、アマリリスは少し戸惑いながら目を覚ました。
窓の外では、鳥の声。
剣の音も、警戒の合図もない。
「……平和すぎない?」
呟くと、背後から声がした。
「慣れろ」
タッグだった。
彼はもう起きていて、簡単な朝食を用意している。
剣の代わりに、パンと湯気の立つスープ。
「戦場の英雄が、台所担当?」
「役割分担だ」
ぶっきらぼうな声。でも、どこか柔らかい。
アマリリスは椅子に腰掛ける。
「夢、見なかった?」
「見た」
「どんな?」
タッグは少し考えてから言った。
「選択肢のない道を歩いてた」
アマリリスは、くすっと笑う。
「最悪」
「だから、目が覚めてよかった」
二人で、静かに朝食を取る。
扉の外が騒がしくなった。
「おーい! 生きてるー?」
クックルの声。
「朝から静かにしろ」
タッグが言う。
「無理無理。平和って、うるさいもんでしょ」
セシーも一緒だった。
「畑の手伝い、今日あなたの番よ」
「……覚えてたの?」
「忘れるわけないでしょう」
ミチノクスが、荷物を担いで通り過ぎる。
「昼には戻る。酒、冷やしとけ」
「命令多くない?」
クックルが笑う。
村は、小さい。
でも、確かに生きている。
畑で汗を流し、昼には皆で食事をする。
争いの話は、もうしない。
夕方、アマリリスは一人で丘に登った。
夕焼けが、世界を包む。
そこへ、足音。
「一人になる癖、まだ治らないな」
タッグだった。
「考え事」
「選択か?」
「……未来」
彼は、隣に立つ。
「一生、こうして選び続けると思う?」
「思う」
「疲れないか」
アマリリスは、少し考えてから答える。
「疲れたら、休む」
彼を見る。
「一緒に」
タッグは、小さく頷いた。
「それなら、悪くない」
風が、二人の間を通り抜ける。
戦いは終わった。
でも、人生は続く。
選び続ける日々の中に、
穏やかな朝と、他愛ない会話がある。
それだけで、十分だった。
アマリリスは思う。
――私は、ちゃんと生きている。
静かな日常は、
彼女が選び取った、最高の結末だった。
終




