第2話 森の出会い
責務を果たし、隊を離れた仮面の男は、木々の間を滑るように進んでいた。
やがて、男は森の奥深くに隠された小さく粗末な小屋へと降り立つ。
引き戸を開け、静寂に満ちた土間に足を踏み入れると、ようやく息をついた。
仮面を外し、腰の革帯にくくりつける。
露になった素顔は、禍々《まがまが》しい仮面の印象とは裏腹に、涼やかな目元をした端正な顔立ちをしていた。
年の頃は三十手前の、まだ青年と呼べる面持ちだ。
男の名は、藍鬼。
だがこれも、毒使いとしての仮の名である。
藍鬼は腰に巻いた道具袋を解き、居間の板張りに腰を下ろした。
懐から取り出したのは、砦の制圧に使用した毒針や、残った調合薬の小瓶たちだ。
一つ一つの道具の状態を、丹念に確認していく。
即効性の麻痺毒、幻覚を見せる香、体を弛緩させる神経毒。
どれも自身で調合し、改良を重ねた一級品だ。
「……ふむ」
針の一本に、微かな刃こぼれを見つけた。
砥石を取り出し、丁寧に針を研ぎ始める。
シャリ、シャリ、と微かな音が室内に響く。
こうしていると、任務で昂った熱の余韻が、徐々に引いていく。
――ふと。
森の気配が、変わった。
鳥の声が止み、蟲の音が絶えた。
「ん?」
研ぎ作業をしていた手が、止まる。
遠くから、地鳴りのような咆哮が響いた。
「妖獣……この辺りの、ヌシか」
藍鬼は顔を上げた。
妖獣は、静かに喰らう。
人や獲物に吼えかけることは、珍しい。
「喧嘩でも始まるか」
別の獣や妖獣でも迷い込んで、縄張りを犯したか。
触らぬ妖に何とやらを決め込もうと、藍鬼は再び砥石へ視線を戻しかけた、その時――
二度目の咆哮が轟いた。
「……」
藍鬼は視線を格子窓の外へ向けたまま、両手甲を締め直した。
立ち上がり、腕と腰の刃物差しに苦無や針を差し直す。
最後に仮面を再び装着し、小屋を飛び出した。
気配の元へ疾駆する。
森の木々が恐れをなしたように、ざわめいている。
近づくにつれ、濃厚になる獣臭と、破壊の音。
高枝を伝い、梢をかき分ける。
目に飛び込んできたのは、灰色の小山だった。
月明かりの下、巨大な猪が暴れている。
真っ赤の充血した三つの眼――風貌の通り、三つ目猪と呼ばれる妖獣だ。
その巨体の前で、小さな影が跳ねた。
「ガキ……?」
幼い子供が、妖獣に正面から立ち向かっている。
あろうことか小刀を振りかぶり、
「母さまを喰ったのか!!」
絶叫と共に、細い腕を振り抜いた。
放たれた刃が猪の三つの目、その中央に突き刺さる。
――ブゴォオオオオオオ!!!
怒り狂った凄まじい咆哮が上がった。
衝撃波が木々をなぎ倒し、子供の小さな体を切り裂き、吹き飛ばそうとしている。
「炎神・壁」
判断するより早く、藍鬼の体は動いていた。空中に印を結ぶ。
子供と妖獣の間に、真紅の炎の壁が出現。熱波の向こうで、猪が怯んだ。
「散」
着地と同時に炎を消し去り、藍鬼は子供の前に立った。
背中で庇った小さな気配が「え……っ」と息を呑む。
――ブルゥウウウウウ!!
紅潮した針毛を逆立てた巨体が、突進してくる。
藍鬼は背後の子供を小脇に抱え上げ、跳躍した。
「わ、わ!?」
子供が暴れるが、構っている暇はない。
大木の枝へ飛び移り、さらに頭上へ。
眼下で、猪の鼻先が大木を横薙に、へし折っていく。
空中で身を翻しながら、藍鬼は右手で革帯から一本の針を抜いた。
狙うは、延髄。
猪が首を振り上げた一瞬の隙、急所の一点。
藍鬼は子供を抱えたまま、利き手を振り抜いた。
――ブゴッ
短い断末魔と共に、巨体がどうと崩れ落ちる。
着地し、藍鬼は子供を地面に転がすように下ろす。
「え……え……?」
尻餅をついた子供は呆然と、動かなくなった妖獣を見つめていた。
泥と葉屑にまみれた子供の姿は、森の腐葉土から這い出した幼獣のようだ。
闇色の髪は乱れ、継ぎ接ぎだらけの麻の着物はあちこちが破れている。
痩せこけた頬や手足に、赤い線があちこちに走っていた。
「すごい、すごい! ね、ねえ、おじさん」
子供が弾かれたように顔を上げ、藍鬼を見上げた。
夜闇の中でもはっきりと分かるほど、黒曜の瞳が爛々《らんらん》と輝き、溢れんばかりの好奇心で潤んでいる。
「どうやってあの妖獣を倒したの……!?」
藍鬼の仮面を恐れるどころか、子供はズリズリと膝で地面を這い、藍鬼の足元へ詰め寄った。泥だらけの小さな指が、藍鬼の装束を躊躇いなく鷲掴みにする。
「……おじさんは、やめろ」
藍鬼は仮面の下で目を顰め、足元にまとわりつく小さな生き物を見下ろした。
小さく息を吐く。
厄介なものを拾ってしまったかもしれない、と予感しながら。




