翔べ!ドリームメーカー-4
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2月4週土曜日。
ドリームメーカーの障害レースデビュー戦の日がやってきた。
鞍上は村木義男。
リーディング障害騎手だ。
(まさかお前と障害でコンビをくむとはな・・・)
村木は不思議な気分に囚われていた。
ドリームメーカーは平場のGⅠ馬である。
それが12歳の今頃になって障害に転向とは誰も予想もしていなかった。
だが障害の調教をこなすドリームメーカーの動きは素晴らしいものだった。
無尽蔵のスタミナと、衰えを見せない瞬発力に各社のトラックマンの評価を上げた。
そして9頭出走の中、堂々の1番人気に推された。
ゲート前で立ち止まるドリームメーカー。
空を見上げて叫ぶ。
ウリリリリリリーーーーーーー!!!!
『さぁ障害未勝利!!
各馬ゲートに入って・・・
スタートしました!!!!』
削除
『スタートしました!
障害未勝利2960m!!
いいスタート切ったのはドリームメーカー!!
1馬身・・2馬身・・3馬身グングン加速しています!!
まず第1の障害・・・ジャンプ!
ドリームメーカー豪快に飛越!
後続を5馬身離して先頭をばく進します!!』
村木は焦っていた。
(抑えろドリームメーカー!!
そんな走りじゃ最後までもたんぞ!?)
村木は障害のトップジョッキーだ。
その村木がスタート直後から危機感を感じるドリームメーカーのハイペース。
レース前に原から「結果はどうでもいい」と告げられていたが、調教で見せたあの走りを感じた村木は「勝ちたい・・いや勝てる」という確信にいた。
だから慎重なレースをしたかった。
だがドリームメーカーはいきなりのスタートダッシュでペース無用のレースをはじめてしまった。
(抑えろドリームメーカー!!)
村木の焦りとは無関係にドリームメーカーは後続を引き離していく。
7
ドリームメーカーの父ゴーゴーヘヴンは、その父サッカーボーイの血を受け継いだファイントップ系の代表馬である。
中距離のスペシャリストだったサッカーボーイであったが、その産駒には長距離馬が多い。
菊花賞馬ナリタトップロード、天皇賞馬ヒシミラクル・・・そしてアルゼンチン共和国杯を制したゴーゴーヘヴン。
この種牡馬実績を見る限り一つの仮説を唱えずにはいられない。
それは、サッカーボーイとは本当は長距離適正があったのではないかという疑問である
サッカーボーイが現役で活躍していた時代・・・史上稀に見るスターホース達がひしめき合った激戦の時代であった。
芦毛伝説オグリキャップとタマモクロス。
長距離ならスーパークリークとイナリワン。
中距離の雄ヤエノムテキ。
この豪華ラインナップにサッカーボーイもいた。
サッカーボーイのビッグタイトルは阪神3歳ステークスであった。
早期引退により底を見せないまま現役を離れたサッカーボーイだが、その子供たちに脈々と伝わる長距離の適正は何をものがたるのか?
先にも述べたこの時代の長距離路線で名を残すには相手が悪すぎた。
そしてこの時代のすぐ後には、メジロマックイーンやライスシャワーなどの名ステイヤーも名を連ねる事になる。
サッカーボーイは中距離のスペシャリストである事が時代を生き向く武器となった感がいなめない。
血統革命によりステイヤー血統からスピード血統へのシフトチェンジによりスーパークリークやイナリワン、ビワハヤヒデなどの血が淘汰されていく中、零細血統のサッカーボーイが生き残った理由はまさに時代を象徴していた。
アメリカからやってきたサンデーサイレンスやブライアンズタイムといったスピード血統に圧された日本の小規模牧場が低コストで得られるスピード血統としてサッカーボーイを選んだのである。
しかし・・・もう一度問いたい。
「サッカーボーイは本当に中距離快速血統なのか?」
サッカーボーイの父ディクタス。
フランスでのデビュー2戦目で初勝利を挙げ、血統的な背景から長距離レースを中心に使われ続けた。だが、どうにも御しがたい激しすぎる気性のせいでなかなか結果を出す事が出来ず、次第にマイル路線へとシフトされた。そして1971年8月のジャック・ル・マロワ賞に勝ち初GI制覇。次走クイーンエリザベス2世ステークスはブリガディアジェラードの前に8馬身差の2着と完敗。同レースを最後に引退、種牡馬入りした。
種牡馬 フランスで種牡馬生活をスタートさせ、1981年フランスサイアーランキング2位に輝くなど活躍。その1981年から社来グループに購入され日本で供用され始めた。初年度から朝日杯3歳ステークス勝ち馬スクラムダイナを輩出。その後も重賞馬を多く出し、1985年生まれのサッカーボーイが代表産駒。血統的には長距離向きだが、気性難も受け継いでしまう事が多かったためマイル前後の距離を得意とする馬が多かった。内包されたスタミナはサッカーボーイの仔達に色濃く受け継がれている。