漆-3
美幸は目を覚ました。
そこは病院のベッド。
傍らに付き添っていた和光千賀子が心配そうにこちらを見ていた。
「チカ…?」
自宅のテレビでレースを観ていた千賀子は、美幸がステージクロスから落馬した時、取るものも取らず京都から東京に向かった。
美幸の携帯電話へ10度目の発信をした時に坂田調教師が出て病院の場所を教えてもらったのだ。
「美幸…大丈夫よ…
大きな怪我じゃないわ」
千賀子は美幸の額を撫でながら優しく言った。
美幸は頭から落ちたショックで気を失っていたが大事には至らず、肩を脱臼した程度の軽傷だった。
美幸の様子を確認した千賀子は、いったん部屋を出てから坂田と共に帰ってきた。
「美幸、気分はどうだ?」
「先生…ステージクロスは…?」
美幸の問いかけに坂田は一呼吸置いてから、
「心配するな。ステージクロスも今必死に生きるためにがんばっている…!」
ステージクロスの故障は通常ならば安楽死の措置がとられるものであった。
しかし『ある関係者』の助言で、最終措置は回避され手術される事となったのだ。
「難しい手術になるだろう…しかしステージクロスの生命力を信じよう」
『ある関係者』とは獣医であり馬の知識に優れた人物であるとしか坂田も聞いていない。
その人物は今、ステージクロスを救うために欧州から日本へ向かっている。
病院のベッドで美幸は後悔していた。
不安でたまらなかった残り200m。
すでに限界を超える走りをしていたステージクロスに降り下ろした最後のムチを…。
坂田は、
「美幸の責任ではない。日本ダービーだぞ?誰だってあの場面では必死に追うさ。
もし美幸に責任があるのならば…あの時美幸にもっと…もっと追えと思った俺も同罪だ…」
と言ってくれた。
しかし自分にもっとスキルがあれば違う追い方もあったはず…
ステージクロスに怪我をさせる事はなかったのでは…
美幸は自分を責めた。
頭を打っているため検査も兼ねて2~3日の入院であったが…
翌日、病院から美幸の姿が消えた。
あまりにも大きな心の傷をうけた美幸は騎手を辞める決意をし、坂田に置き手紙のみを残した。
その後一ヶ月の間、坂田は千賀子から近況を報告してもらいながら美幸の帰りを待っている。
「美幸~!!いつまで寝ているの!?
早く起きなさい!」
美幸の母、美穂子の怒鳴り声で毎日目を覚ます。
美幸は長野にある実家にいた。
美幸が育った実家は
【軽井沢ペガサス乗馬クラブ】。
6月後半の今の時期から避暑シーズンが始まり忙しくなる。美幸は母の仕事を手伝いながら過ごしていた。
【落馬での怪我休養】と公式に発表されているが、美幸の肩は完治しており多少の減量さえすればいつだって騎乗できる。
しかし心の傷は深く今も美幸を苦しめていた。
千賀子は病院の仕事があるため毎週休日に京都からやってくる。
今の美幸は、千賀子に乗馬を教えるのが唯一の楽しみだった。
千賀子が生まれて初めて馬に乗った時にこう呟いた。
「美幸はいつもこんなに高い所で激しいレースをしているのね…」
すでに美幸の心は騎手を辞めて、愛しい千賀子と静かに暮らしていこうと決めていた。
「たぶん…もうする事はないわ…」
千賀子は美幸の言葉にあえて返答せず、無邪気に乗馬を楽しんだ。
その後、美幸の知り合いの所有するバンガローで激しく愛し合った二人は堅い絆で結ばれている事を確認しあった。
母の怒鳴り声がまた響く。
「美幸!!早く起きなさい!お友達がみえているわよ!」
母の声に反応した美幸は考えた。
(友達?誰だろう?)
今日は千賀子が来る日ではないし、地元の友人かな?と思いながら着替えてリビングに行くと、
「よっ!美幸!元気か?」
「おっお~美幸ちゃん!久しぶりぶりぶり~」
三田 崇と野田新之助がいた。
「三田くん…新ちゃん…なんで…?なにしてんの?」
突然の同期の訪問に驚いた美幸は二人を疑視した。
「なにしてんのって…飯食ってんだろ。」
美幸の母が作った朝食をほうばりながら三田「が言った。
「おばさん!この卵焼き凄くおいしいぞ~ぅ!」
野田新之助も続いた。
「そうじゃなくって!
なにしに来たのって聞いているの!」
興奮する美幸を母がたしなめた。
「話は朝食の後にしたら?早く美幸も食べちゃいなさい。お二人もたくさん食べてね!」
三「は~い」
新「ほ~い」
とりあえず美幸は席につきトーストを噛んだ。
コーヒーをすすった美幸はある事を思い出した。
「そう言えば三田くん、ダービー制覇おめでとう。」
美幸が落馬したあのレースを一気に追い込んで勝利したのは三田とアドバイザキューブだった。
「せっかくのダービー最年少制覇って言うのに、あんなに後味悪いレースはないぜ」
三田がふてくされた顔で言った。
「あれから鷹くんはずっと同じ事を言ってるぞ~ぅ。あのレースは美幸ちゃんが勝つはずだったって~」
野田新之助が楽しそうに付け足した。
少しうつ向いた美幸に野田新之助が、
「美幸ちゃん安田記念は見たぁ~?オラのシロは3着に入ったぞ~ぅ!」
もちろん美幸は見ていた。あれ以来、騎手を辞めると心決めていても競馬中継だけは欠かさず見ていたのだ。
「ユリノアマゾンは強いな。宝塚に出てくるらしいから要注意だ。
まぁ俺のロンバルディアの敵ではないがな~。
それでも新之助の3着は意外だったけどな。シロって馬は12番人気だぜ?3連単なんか200万馬券だし。」
この話題で和やかになった三人は朝食を食べ終り、団欒していた。
美幸は仲間が自分を励ましにわざわざ来てくれた事が本当に嬉しかった。
突然、三田が立ち上がり美幸に言った。
「じゃあそろそろ行こうか?」
美幸は嫌な予感がした。まさか二人は自分を無理矢理連れて帰るために来たのかと…。
「どこへ…?」
とりあえず聞いてみた。
「栗東だよ~ぅ」
やっぱり…。
「私は行かないわ…。
だって私は騎手を辞め…」
美幸の言葉を三田が遮った。
「別にお前が騎手を辞めようがそれは構わない。だけど栗東でお前を待っているヤツがいるんだ…。そしてお前はヤツに会う義務がある」
「ヤツって…誰?」
三田は静かに告げた。
「ステージクロスだよ」