5
店内で央乃に見送られ、真土と弥生は『らぁめん五里霧中』を後にした。
庇の下はギリギリ結界の内側であるため、そこから黒幕の札リムジンに乗り込めば、移動は安心安全だ。
「弥生様」
二人が店の外に出ると、すかさず運転手の男性が弥生を出迎え、リムジンのドアを開いた。
運転中は座った後ろ姿しか見えなかったが、褐色の肌を持つ彼は老齢だが背が高く、さらに背筋はピンと張っている。百九十センチはありそうだ。顔立ちも品が良く精悍で、整えられた白髪がその深みをさらに引き立てている。彼が海外のベテラン俳優だと言われたら、真土は疑いもしないだろう。
その渋い格好良さに真土がつい固まっていると、それに気づいた弥生が「彼は僕のじいのジーノ白米。幼い頃からとてもお世話になっているんだ」と手短に紹介する。そして名の響きに混乱した真土が聞き返す隙も与えないまま、速やかに白米に指示した。
「じい。すぐに研究所へ。それから、真土にも一緒に来てもらうことになった」
「承知致しました。――一条様、でしたね。もし走行中、不具合なことがございましたら、この白米に何なりとお申し付け下さい」
「え、ああいや、不具合も何も、さっきもめちゃくちゃ乗り心地良かったですから! むしろ快適をありがとうございます!」
真土は白米に負けない程深くお辞儀し礼を言うと、慣れない応対から逃げるように、弥生に続いて乗車した。
有里園歴史研究所までは、ここから車でニ十五分程。真土と弥生は重要な事から緩い話まで、車内で出来る話を全てしてしまうことにした。
「君の出身地……何という名前だったかな」
「ああ、界納村だよ」
そういえばまだ教えてなかったかと真土が伝えると、弥生は確認するようにその名を繰り返す。
「界納村……やはり初めて聞いたな。場所を訊いても?」
「おう。……この辺り……だな」
真土は弥生から向けられたタブレットの地図をスワイプし、くるりと人差し指で円を描く。山中の故郷は、相変わらず今も地図に名前が表示されないが、確かにそこに存在しているのだ。
弥生は画面を航空写真に切り替えると、ぼんやり映った界納村に感動した。
「……すごいな、こんな場所が。本魔の一族は今もここで生き続け、君と央乃さんは勾玉を継いだのか」
「うんまあ、おいちゃんの方は代理だけどね」
「代理、とは?」
空調は暑すぎず寒すぎず。二度目となれば少しは慣れ、快適さを感じられるようになったリムジンで、真土は軽やかな口調で弥生に説明した。
「このご時世、村とその近くだけじゃやっていけなくて、遠くまで出稼ぎに出る人も増えてるんだよ。そんなこんなで『白の勾玉』の持ち主の人も、単身赴任で県外に行くことになって。けど勾玉は、本魔地域から持ち出す訳にはいかないものだから、帰って来るまで仲が良いおいちゃんが預かってるんだ」
「へえ……歴史を陰で支えたと言われる本魔の一族も、今となっては色々苦労しているのだね。このまま滅ぶのを、黙って見ている訳にはいかないな――」
界納村を支える仕組みを確立できないものか……と口元に手を当てた弥生が呟くのが聞こえた。彼なら本当にやってしまうのかもしれない。が、
「あ、心配してくれるのはすげえ嬉しいんだけど、まだしばらくは大丈夫そうだから。勝手に滅ぼさないでくれな、うちの村」
「おっと、これは失礼した」
苦笑いの真土に、弥生は照れ笑いで頬を掻いた。
「しかし関係者とはいえ……君と血が近いということは、央乃さんは『黒の勾玉』を世襲する一族なのだろう? いくら友人でも『白の勾玉』を預ける相手として、そんな選択――はっ、まさかもう、他の継ぎ手はきれいに居なくなってしまったのか?」
さすが弥生はよく勉強をしている。継ぐ者は一族の中でも偏らないようにする。勾玉に限らず本魔の伝統だ。……またもや界納村が滅びへ向かっているような発言はやや気にはなるが。まあそれは今度、彼を直接村に招いて知ってもらおうと真土は秘かにそう決め、今は問いに答えた
「や、一応居るんだけど、本物の跡取りはまだ五歳と二歳」
「そうか……それでは流石に、まだ継がせられないな」
跡取りの二人は、村を出るまで真土も良く一緒に遊んだ、活発な男の子の兄弟である。父親と離れて暮らす彼らに寂しい思いをさせるまいと、今も村人総出で母親共々気にかけているのだろう。真土にとっては、界納村のあの温かい人間関係は居心地が良いものだった。
懐かしい光景が思い起こされ、うっかりホームシックになりかけた真土は、話を続けることで緩んだ涙腺を締め直した。
「それに世襲って言っても、オレの先祖もどっかで他所から勾玉を引き継いだみたいだし、きっと形だけだよ。ホントは誰が持ったって良いモンなんじゃないかな」
「へえ……。それを聞いて安心したよ。それなら僕が預かっても、問題はなさそうだ」
本魔一族ではない自分と共に在っても良いのだと思え、弥生は服の上からそっと勾玉を押さえた。
「そだ、オレも気になってた事があってさ……弥生なら分かるかな」
「うん? 何かな」
「結局、何があって四神は起きることになったのか。オレが見た感じサイズも小さかったし、正当な理由で目覚めた感じじゃあなさそうなんだよなぁ……」
四神が目覚めるのは、何らかの自然的危機から人々を救う時だと言い伝えられている。勿論その活動では莫大なエネルギーを消費するため、その時のために、四神は永い眠りの中で力を蓄え続けているのだ。
しかし、あの不機嫌度と足りないエネルギーでは、仕事をこなすことなど到底できそうにない。時の流れの中で、眠りの封印に不具合でも生じたのだろうか。
「四神を研究してたとは言ってたけど、まさか目覚めさせたのも有里園なのかなー、なんて。……流石にそんなことしないよな。プロならできるかもしれないけど、同時にそれが、どれだけ恐ろしい事かも分かってるんだろうし」
真土はくだらない自分の説を笑い飛ばすように、やっぱ自然のトラブルか? と続けようとしたが、弥生は沈痛な面持ちで、あり得なかったはずのそれを肯定した。
「――いや、その通りなんだ」
「!」
「四神を無理やり呼び起こしたのは、有里園歴史研究所の前所長……僕の祖母だ」
「な……」
苦しげな弥生の告白に、真土は言葉に詰まる。
「所長……なら、お祖母さんも研究者ってこと、だよな。何でそんな――まさか『あれ』を知らなかったのか?」
「いや、無論知っていたとも」
「じゃあ、何で……っ!」
あの伝承を知りながら封印を解いたなど、怖いもの知らずにも程がある。恐怖すら感じ青ざめた真土に、弥生は彼らしからぬ尖った口調で、吐き捨てるように伝えた。
「理由はとても馬鹿馬鹿しいものさ。あの人はたた、四神を自分のコレクションとして自宅に飾っておきたかっただけ。……本当にろくでもない、研究者の風上に置けない人だった」
自身の吐いた毒に当たったかのように、弥生が疲れた表情で窓の外を見る。何か声をかけるべきだろうか。真土が悩んでいると、弥生は外を見たまま再び口を開いた。
「とても自分勝手な人でね。周りも皆、ずっと手を焼いていたんだ。逆らおうにも難しくて。……僕の両親も、八年前に祖母と対立した際、遺跡調査のために離島へ飛ばされて。以来一度も帰って来ていない」
「そ、それは……その、寂しい、な」
「……そうだね」
正しい返しが分からず、真土が浮かんだ感情をそのまま伝えると、ようやくこちらを向いてくれた弥生は静かに頷いた。
「まあでも、島での発掘調査の結果、予想外の品々がどんどん出土しているらしくてね。両親は研究者の血が騒いだらしい。帰って来ないのは彼ら自身の意思だ。……本当に、上手い厄介払いの仕方をしたものだよ、あの人は」
弥生がため息交じりに言葉を締める。すると静かになった車内に「うっ……うぅぅ」という、嗚咽を堪えたような声が漏れ響いた。弥生は泣いていない。もちろん真土も。……ということは。
真土が窺うと、運転席の白米の肩が小刻みに揺れている。この悲しみは、やはり彼のモノだったらしい。どうしたら良いのかと困り顔を弥生に向けると、同じく気づいた彼は、遠慮がちに白米に声をかけた。
「じい、大丈夫かい……?」
「も、申じ訳ございませぬ……お客様をぉお、お乗せしておきながら……っく、ああぁ」
「ああいや、オレなんかにお構いなく。……けどその、何かあった、んです、か?」
徐々に堪えられなくなる鳴き声に、真土は迷いながらも白米に理由を尋ねた。聞かない方が良い場合も人生には多々あるだろうが、吐き出してしまった方が楽な場合もある。白米は、後者だった。
真土なりの気遣いを受け取った白米は、「ヴぉろろろろぉオォーん!」と全てを出し切るように一度大きく叫び泣くと、ハンカチでささっと涙を拭い、車を止めることなく美しい運転を続けたまま告白した。
「四神の封印を解いたのは、この事態の始まりは――全て私のせいなのです……!」
「え!」
突然告げられた事実に真土は戸惑う。白米は進んでそんな無茶をするような人物には見えない。そもそも弥生の話とも矛盾している。もしや白米が『弥生の祖母で前所長』なんてことは……
(いやいや、流石にねぇわ)
自分の脳回路にびっくりがっかりし真土が無表情になっていると、そこに弥生が焦った様子で言葉を投げ込んだ。
「違うんだ真土、聞いてくれ。全ては祖母のせいなんだ。白米に罪はない」
白米だけに潔白なのか。真剣な友人を前に、我ながらしょうもない事が浮かんだなと、真土は冷めたおかげで落ち着いた脳をもって、真面目な顔と心を保った。
「うん、オレも白米さんがそんな事するとは思えないよ。何があったんだ?」
「白米は……自分の代わりに四神を起こすよう、祖母に脅されて……ッ!」
思い出して苦しくなったのか。弥生もまた涙ぐみながら真土にタブレットを見せ、『証拠音声』と書かれたファイルを準備した。
「この車のドライブレコーダーに、残っていたんだ……」
弥生がそろそろと人差し指で画面をタップする。再生された音声ファイルには、絞られた音量でも怯みそうになる、ドスが効いた、年季の入った女性の声が保存されていた。
『――分かったね白米。もし断ったら、あんたの大事なリムジン……左右半分ずつ、ピンクのトラ柄とムラサキのヒョウ柄にしちまうよ! そして屋根には――うふふふふ』
「……………………」
何という脅し文句だ。……というか、屋根は何色の何なのか、真土としては地味に気になる。
口を半開きに真土が固まっていると、運転席の白米が涙を抑え込みながら、残った苦しみを吐き出した。
「……大旦那様の愛したこの車の姿を失う訳にはいかない。私には、こっ……断ることなど…………できませんでした……ッ!」
白米の悲痛な叫びに耐えられなくなり、弥生はとうとう、車内にもかかわらず腰を上げ声を張った。
「じいは悪くない! もう気に病まないでくれと、昨日も三回言っただろう!」
「しかし、私が実行したことに変わりはありません」
頑なに自分を責める白米に、弥生は一瞬言葉を失う。しかし彼は瞬き一つの間に言葉を纏めると、まずは自身を落ち着かせるように座り直し、それから、静かに諭すように白米に伝えた。
「祖母の事だ。じいが断ったところで、次の生贄を探したに決まっているさ。それは僕だったかもしれない。君のその重荷は、僕のものでもあるんだよ。僕は今……美しい白のリムジンに乗れて、幸せさ」
「弥生様……ううっ」
きらきらと台詞のような言葉を言い切った弥生と、それに感動する背中すら絵になる白米。何だか自分が場違いなような気がして、真土はさりげなく身体を縮めた。
「……一条様。このような醜態を晒し……誠にっ、申し訳、グスッ、ございません……」
「いえ……オレの事はホントに、お気になさらず……」
目の前で繰り広げられる美しい主従関係に、一生懸命「埃になろう」と努めていた真土だったが、手練れの執事白米の前では無駄な足搔きだったようだ。
存在が忘れられていないのなら、気まずいままでいてもしょうがない。真土はささっと埃モードを解除し、今必要な会話に戻った。
「それにしても、封印を解いても白米さんは無事だったんだな。それは良い事だけど、でも、しっくりこないな……」
自身が知る言い伝えとの齟齬に真土が疑問を覚え呟くと、すかさず弥生がそれを拾う。
「やっぱり、君も気になるはずだよね」
真土が頷き、伝承の一文を暗唱すると、弥生と綺麗に声が揃った。
「『四神の眠りを妨げる者、ドドメ色の雷に焼かれ、その心を失うであろう』」
言葉の真意こそ不明だが、これは本魔の伝承の中でもメジャーなものらしく、真土が触れた界納村に残された書物にもたびたび現れる一文だった。有里園の手に渡った史料にも書かれていて当然だろう。
互いの知に矛盾がない事を確認し、真土は改めて弥生に問うた。
「約束に当てはまる状況でもない時に無理やり起こしたら、四神に怒られる……って聞いてたけど。何もなかったなら……伝え違いだったってことか?」
これほど数多くはっきり伝わっているだけに、間違いだとは思えないのだが。真土が腕を組み首を傾げると、弥生はすっと大きく首を横に振った。
「怒りはちゃんと現れたよ。ただ、罰を受けたのは、じいではなかったのさ」
「白米さんじゃ、ない……?」
「古代の呪いの的確さは、本当に恐ろしいものだった。雷は現場で実行したじいではなく――彼に指示するだけして、研究所でのんびり待っていた祖母に落ちたんだ。建物や家具には一切、傷をつけることなくね」
「!」
真土の脳内で、先程の声からイメージし作り上げられた『弥生祖母(仮)』が、優雅に寛いでいた金ピカソファーの上で『ぎぃやああアアアァアアァァ』と叫び、ド高級シャンパンの注がれたグラスを片手に骨を透かせる。だいたいこんな感じだったはずだ。ドドメ色は……ドドメ色だ。適当に黒茶っぽい雷にしておこう。
そんな真土の予想再現映像など知る由もなく、弥生は弥生で当時目にすることとなった驚愕の光景――実際真土の再現はだいたい合っていた――を思い出しながら、その結末を語った。
「伝承の通り、祖母はドドメ色の雷に打たれて……以来、全く違う人格になってしまった。どうやら『心を失う』というのは、そういう意味だったらしい」
「ほぁあ……成程ぉ」
人格の変化。彼女を直接知らない真土はまだピンと来ないが、それでも、人の根幹を一瞬で作り変えてしまう現象は恐ろしいと思う。やはり四神やそれに関わる力は、人が軽々しく手を出してはいけないものなのだろう。
「本当に傍迷惑な人だったから、元に戻って欲しいとは決して思わないけれど……でも。あそこまで別人だと……知らない人がいきなり家族になったようで、このところの暮らしはとても落ち着かない」
思わぬ苦労もあったようだ。肩を落とした弥生は、気晴らしのように水筒の紅茶を二つのタンブラーに注ぐと、一つを真土に渡した。
「良かったら。僕のお気に入りのブレンド茶葉なんだ」
「あ、ありがと」
紅茶はさっぱり分からない真土だが、程良い温度のそれをとりあえず一口頂いてみる。穏やかな気持ちになる良い香りがするのは分かった。美味しいとも思う。
「……ええと、あんまり渋くなくて飲みやすいな。香りは強いけど、変に喉に残らなくて、すっきりしてる。食べ物に合わせるより、お茶だけで楽しむ系、みたいな」
何か感想を言った方が良いのかと、求められてもいない人生初食レポ――この場合飲レポか――をぎこちなくも披露した真土に、弥生は小さく驚いて息を漏らした。
「すごい……一口でそんなに分かってくれたんだ。君は舌が良いんだな」
「へ? そ、そう……か、な」
人生で初めて褒められたポイントに、真土はうっすら汗をかきながらもはにかんだ。
紅茶と駄弁りで落ち着いた様子の弥生に真土が一安心していると、ぽろろぉんと可愛らしい音を鳴らし、タブレットがメッセージの受信を知らせた。
すかさず内容を確認した弥生は、ぱっと顔を明るくすると、その透き通った声が引き立てる良い知らせを告げた。
「真土、一安心だ。四神の再捕獲に成功したらしい」
「マジか! 良かった……んだけど、弥生さあ」
「何だい?」
一度は喜んだものの、すぐに浮かない表情をした真土に、弥生は何か不手際な点でもあったかと固く返す。
すると真土は居心地が悪そうに、右手で首の後ろを二度掻いた。
「その『捕獲』っての、何か違わないか? 四神だぞ? せめて、そうだなぁ……『保護』とか」
「……!」
思いもしなかった意見だが、確かにそうだと感じ、弥生はつい今まで疑問にも思わなかった単語を速やかに更新した。
「それは至らなかった。すまない。すぐに対策チーム全員で共有するよ」
「ああ、よろしく。どうも気持ちが悪かったから」
弥生は返信途中だったメッセージに一文を付け足して送信すると、深く溜め息をついた。自分だけではない。チーム一同誰からも、真土のような言葉は出なかった。
「……気を付けているつもりでいても、僕らはまだまだ傲慢なのかな。他人の事ばかり言ってはいられない……――」
そう自分に言い聞かせるように低く声にすると、弥生は静かに窓の外に目を向ける。
真土は揺れる紅茶の水面を見つめ、そこから視線を弥生とは反対側の窓に流す。そして友人の気が済むまで、嗚咽の消えた車内で、しばし静寂の時を過ごすことにした。