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開店時間前の静かな店内。真土は満面の笑みを浮かべ、世界一愛するメシと向き合っていた。彼の目の前で真っ白な湯気を上げるのは、真土の贅沢三点セットのメイン――『らぁめん五里霧中』の看板料理、塩ラーメンだ。
「ほわ~っ、今日も美味そっ! いっただっきまぁーーすっ!」
真土は慣れた手つきで前歯に挟んだ割り箸を割ると、澄んだスープの中から、白く細いストレート面をガボリと掬い上げた。その動作で、食欲をそそる香りが尚更湧き上がる。それだけでもすでに天国だ。
以前店長が「確か銀杏だったはず」と言っていた一枚板のカウンターの隣の席では、同じものを注文した弥生が困惑の表情で真土を見つめている。あまりに庶民的な店に戸惑っているのだろうかと真土が見返すと、弥生は一度視線を逸らし、自然な動作で割り箸を取って割った。意外と慣れていそうだ。
そしてもう一度真土を見ると、少し言い難そうに尋ねた。
「――あの、本当にこれだけで良いの……?」
あまりに予想外の弥生の問いに、真土は驚きを隠せないまま、裏返る声で返した。
「『だけ』って……ラーメンに餃子を付けちゃうんだぞ! しかも飲み物も水じゃなくウーロン茶。贅沢の極みじゃんか!」
ラーメン屋では良くある組み合わせであるが、ホットのウーロン茶を頼めるのはなかなか珍しい。洒落た茶器ではなく、シンプルなマグカップに注がれているため飲みやすく、その点も真土のお気に入りポイントだ。
「あ、うん……そっか。……いや、君が良いなら良いんだ」
もっと高級な料理でも躊躇いなく奢ることを考えていた弥生は、しかし心底嬉しそうな真土に納得し、自身も手を合わせ「いただきます」とラーメンに箸をつけた。
「……あ、本当に美味しい」
「当ったり前だろ! 俺の人生で最高のメシだもん」
二人が忖度なしにラーメンを褒めていると、カウンターの向こうで四十路の男性店長が喜びを露わにニカっと笑った。
「嬉しいねぇ。やっぱせっかく作った料理は、美味しく食べてもらいたいもんだ」
「オレにとって、おいちゃんのラーメン程美味いメシはないからね。奢って貰えるってなったら、ここしか思いつかなかったよ」
もちろん他のメニューも最高! と大ぶりの餃子を一口で頬張り、幸せそうに咀嚼する真土を見て、店長は感慨深げに頬杖をついた。
「にしてもまさか、マサが友達連れて来る日が来るなんてなあ~……しかも、有里園とは」
「あ、いえ僕は――」
「な。オレもびっくりしてる」
迷惑をかけただけ、と訂正しようとする弥生の前に言葉を滑り込ませることで、真土は弥生を友達だと言い切った。
言ってしまってから、ちらと弥生を窺った真土だったが、嫌な顔はされていない。むしろ嬉しそうだ。
(よっし。第一ラインクリア!)
友達のなり方なんて良く分からないが、言葉にするのも一つの形だろう。『言いたい』ではなく『伝えたい』と思ったらとりあえず伝えてみて、もし間違ったのならちゃんと謝る。そうでなければ何も始められない。
「ってかおいちゃん、『まさか、マサが』って、それ駄洒落?」
「ハハッ、んなつもりじゃねーよ」
慣れない友達づくり初手の緊張から解放された真土はいつものペースを取り戻し、軽口をたたく。楽し気な真土の様子に引っ張られたのか、弥生の表情も尚明るい。
そんな弥生にはもう一つ頼みがある、真土が内心そわそわしていると、そのチャンスはあっさりと訪れた。
「ねえ一条君」
「ちょい待った」
「?」
乾杯でもないのにウーロン茶を軽く掲げた真土に、弥生がきょとんとする。
思わぬ好機の到来に、ちょうど飲もうと持ち上げかけたコップで変な動きになったと自分でも思った真土だったが、ここは気にせず進むしかない。
「オレさ。高校入ってから全っ然友達できてなくて、学校に行くと毎日名字でばっか呼ばれるんだよね。逆もそうだし」
「? うん」
弥生が素直に話を聞き頷いてくれる。真土は今こそとウーロン茶で口と喉を潤すと、一拍落ち着き、そして大真面目に頼んだ。
「そんな訳で是非、『真土』と呼んで欲しい。そしてオレも『弥生』と呼びたい」
少し真剣さが大袈裟すぎただろうか。それでも真土にとってはそれくらい緊張し、どうにか叶ってほしい願いである。
すると弥生は目を伏せ、彼もまた静かにウーロン茶を飲む。
弥生は何も言わない。間が生まれる。自己紹介の時に負けず劣らずの寒気がする。
(さ……流石に頼むの、早すぎた…………?)
居たたまれない。断っても良いから、とにかく何か言ってくれ弥生――
頭の中ではすでに名前で呼びながら、真土はキメた表情で固まり、何なら息も止めたまま待ち続ける。
故郷の界納村は同じ苗字の相手ばかりで、名前呼びが当たり前の生活を送ってきた真土だが、もしかしたら都会育ちの弥生からすると「百年早い」と言わんばかりの頼みだったのかもしれない。
(いやいや、百年はないだろ……十年くらい?)
真土はまたもや緊張の波に呑まれ、思考もめちゃくちゃだ。そんなの例えの数字でしかないと理解しながら、頭の違う所では、十年なら待てるかも、などと思ってしまっている。欲を言えば五年、いや、どうか二年以内で――
半端なタイミングで息を止めた上、シャカシャカ回り続ける脳内のせいでなお足りない真土の酸素も限界に近づいた頃、弥生はようやく再起動が完了したように、徐に口を開いた。
「……実は僕も、年の近い友人は居なくて」
そこで一度言葉を切ると、弥生は箸で餃子を持ち上げ、しかし結局そのまま戻す。そして落ち着かない様子で箸も置くと、手を両膝に添えた。
弥生が動いてくれたことで、真土も息を吐いて、吸って、吐いて。ついでに姿勢も整える。
頼みを怒られることはなさそうな反応だが、何だか弥生の纏う空気が重い。真土は黙って、続く言葉を待った。
「実家が、その……少しオカルトな研究もしているから、幼い頃は――今思えばあれは、彼ら自身というより保護者たちの言葉だったのかな――気味悪がられたり、除け者にされることも多くて」
オカルト。確かに本魔の歴史にはにはそういった側面もある。たいていの人々は架空の存在だと思っている四神の実在など、分かりやすい代表例だろう。
過去と夢想の狭間に眠る四神を呼び起こす程の研究所。本魔の真の姿を知らない者からすれば確かに、恐怖の対象となってもおかしくはない。真土は曖昧に頷く。
「大きくなったらそれはそれで、有里園のお金目当ての人が寄ってきたり、逆に御曹司なんてレッテルで遠慮して壁を作られたり……」
弥生はそこで溜め息を一つ挟み、「そんなだから、学校生活ってずっと、あんまり良い思い出がないんだよね」と、少し辛そうに笑った。
何と伝えたら良いのか。自分とはかけ離れた質の苦労に真土が掛ける言葉を探していると、それが見つかる前に、弥生は自身で過去の苦みを振り払い、彼の代名詞である爽やかさを呼び起こしてはにかんだ。
「だから僕も、突然こんな風に話せる相手が出来て――今日、真土と会えて良かったなって思ってる」
「!」
良かった。嬉しいのは自分だけではなかった。目の前で偽りのない喜びを伝えられて、こちらも破顔せずにいられるはずがない。
真土は生まれて初めて出来た同い年の友人に向けて、ニッパと軽やかに、太陽の明るさで笑った。
「へへっ、ありがと弥生」
一先ず自分ができる限りの目標を達成した真土は、この隙に油で喉を滑らかにしておこうと、レンゲでスープを一口。そして餃子を半分に割りながら、つい遮ってしまった流れに帰ろうと、弥生を促した。
「――で、ごめん。さっき何か言いかけてたよな?」
一瞬、こんなに別の話を挟んだら、自分だったら話題を忘れてしまうかもと思った真土だったが、弥生は少しも考える間もなく「ああうん」と、先程途切れた言葉をするりと引き出した。頭の回転が速いのだろう。
「真土は店長さんと、とても仲が良いんだなって思って。僕は行きつけの店というものは特にないから……常連客って皆、こういうものなのかい?」
「うー、ん? 常連、はちょっと分からないけど――」
何だか意外だ。御曹司と言えば、高級寿司店や歴史ある料亭などに子どもの頃から通い慣れ、むしろ行くのは行きつけの店ばかり、なんてイメージがあったが、それも真土の思い込みの偏見だったのだろう。
こういった勝手な想像で話を進めてしまうことは、きっと、弥生にとっては大きな負担になる。友達として気を付けよう。真土はそう秘かに心に刻み、質問には素直に、答えられることだけを答えた。
「おいちゃんはオレの叔父さんでさぁ~……あ、母ちゃんの弟ね。そんで店とか関係なく、小っちゃい頃から仲良しなんだよ。今住んでるアパートも、ホントはおいちゃんの家だし」
「ああ、そうだったのか。……すみません、何も知らず。真土の――ええと、今日友人になったばかりの、有里園弥生です」
慣れない『友人』の響きこそ言い淀んだが、弥生はすっくと立ち上がり、やはり名刺と共に美しい挨拶を披露した。
静かな店内でこれだけ真土と話していれば、もう店長は弥生の名などとっくに知っているのだろう。自己紹介の本当の目的、弥生は実は『友人』と言ってみたかっただけなのだが、少し照れくさいその理由は心の内だけに留めた。
日々庶民の溜まり場を切り盛りする店長は、思いがけない立ち居振る舞いについ目を丸くする。しかし彼はすかさず「流石、これが有里園か……」と驚きを消化して、いつもの調子を取り戻した。
店長はカウンター上に置かれた弥生の名刺を捲るように手に取ると、頭に巻いた手拭いを外して、彼らしい豪快な笑顔で気さくに名乗り返した。
「一条央乃だ。気軽に『オーさん』とでも呼んでくれ」
このラーメン屋は、十年程前に前オーナーから譲り受けて以降、央乃が一人で切り盛りしている。味は継がず、メニューも完全リニューアルだったのだが、それが功を奏したようだ。狭い路地に隠れるように建つ細長い店は、前オーナーの愚痴の定番「立地の不利」もなんのその。新装開店当初から程良く繁盛し続けている。
味は折り紙付き。地元のテレビや雑誌からも取材の依頼が時折来るようだが、「丁寧な仕事を続けるためには、今ぐらいの忙しさが丁度良い」と毎度断っているらしい。狭い店内、あまりぎゅうぎゅうに混むと真土としても落ち着かないため、それで店を回せるのならば、真土も央乃のポリシーは大歓迎だ。
そんな隠れた名店が貸し切り状態で、ついに出会えた友人と一緒に美味いメシを頂く。言うまでもなく、真土の機嫌は最高に良い。ニッコニコである。
その隣では弥生も、真土のように露骨に顔には出さないものの、穏やかな至福の表情で、会話の間に、最後の餃子をスッと口に運んだ。
(弥生君は食べ方が綺麗だな……いや決して、マサも汚くはないが)
央乃はそんなことを思いながら手拭いを巻き直し、和やかな空気で完食を目前にする二人の若者の姿をぼんやり眺めていた。何だか青春だ。良いものを見せてもらった気がする。
すると央乃は何か閃いたとばかりに、企む顔で口角を上げた。
「? あれ、おいちゃん?」
央乃が不意に厨房の奥へ姿を消す。帰って来た時、彼の持つ盆には、涼やかな二つの小皿が乗っていた。
「俺から、友達記念のサービスだ。二人とも食ってけ!」
どん、と盆ごと差し出されたのは、ラーメン屋の定番デザート――杏仁豆腐だ。
「デ、デザート…………?」
「わ、ありがとうございます。頂きます」
「おう。弥生君は素直で宜しい! ……それに比べて」
「?」
溜め息を吐く央乃に視線でちらと示され、弥生が隣を見ると、真土が深刻な顔で震えていた。
「……お、おいちゃん。偶にならこれくらいの贅沢しても、オレ、破滅しないよな……?」
何を言っているのかさっぱり分からない。弥生が困惑していると、央乃が呆れた調子で甥を叱った。
「ったく。いくら何でも、お前は節制し過ぎだ。長老の言ってたアレ、半分くらいは冗談だって、流石にもう分かってるんだろ?」
そこまで言われてようやく、真土はそろそろと手を伸ばすと自分の分の杏仁豆腐を取り、自身の前に置いた。しかし尚、真土は怯んだ様子だ。
「そう、なんだけど……。でもっ、小っちゃい頃に染み付いた生き方って、変えるのすっげぇ大変なんだぞ!」
「…………まーそうだが」
真土の言い分にも一理ある。確かに央乃も、子どもの時に水族館でその姿に驚いて以来、今でもエイが苦手だ。特に顔のように見える腹に寒気がする。
うっかり思い出し宙に浮かんだエイを、央乃は物理的に手で払い、イメージから追い出す。その前では、本心では食べたくてたまらない真土がスプーンを手に「Oh……」と沈んで、集会で聴いた長老のおっかない話と恐怖の権化の絵を思い返していた。
『良いか? 欲は身を亡ぼすと言ってなぁ。これ、うちの村に代々伝わる「破滅者語」という……まあ、地獄の絵みたいなもんじゃ。……エラい目にあっているのが一目で分かるな。こうならんよう節制するのじゃぞ。特に食事は控えめに……ホッホッホ』
真土も今でこそ、長老の話がどこまで本気なのかは大体理解できているが、幼い頃は全てを真に受け、時には怯え、子どもなりに様々な工夫をして暮らしたものだ。お陰で今でも、贅沢のラインというものがいまいち分からない。……大事な話だということは分かっているが、それでも思う。……長老めッ!
真土がぐっ……とスプーンを握りしめていると、その隣では待ち飽きた弥生が、あっさりと一口目を味わっていた。
「央乃さん、これもすごく美味しいです。今まで食べた杏仁豆腐で一番、好みの味かも」
「お、そうかそうか! それは良かった。ほらマサ、お前の基準だと弥生君も破滅することになるぞ」
内心「オーさんとは呼んでくれないか……」などと思いながらも、それをおくびにも出さない央乃に諭され、真土がそろそろとスプーンを皿に戻す。
「……だよな。今日くらいは良いか。大丈夫か。こんな日のために日々、気をつけてるんだもんな。うん、良し――」
真土は最後はしつこく自分に言い聞かせるように喋り、とうとう手を合わせるとようやく、彼にとっての難関の先のデザートに有り付いた。
「…………美っっ味」
じーんと沁みる表情で、真土は味わい尽くすように一口、また一口と、少しずつ幸せを食べ進める。そんな真土の姿に弥生は、これ程までに食事を貴重なもののように味わう人間を初めて見たなと思いながら、彼もまた自分のペースで、思い出に刻まれた杏仁豆腐を完食し、ご馳走様でしたと手を合わせた。
「真土、ゆっくり食べてて良いからね」
「お? おう、ありがと」
真土がニヘと笑う。幸せそうに食事する表情は良いものだな、と弥生はウーロン茶を飲みながら、のんびり真土を待とうと思っていた。が、
ヴヴッ……ヴヴッ……ヴヴッ……――
電話だ。弥生は無造作に尻ポケットに差していたスマホを右手で取り出した。
「ちょっと失礼」
連絡をしてきたのは、研究所で仲間たちと共に四神の対策を練っている妹だった。
弥生の担当は、四神の大まかな居場所の特定と、場合によっては人や動物の保護――実際に困っていた真土を見つけたため、必要な役だったと言える――なのだが、こちらに連絡が来たということは、何か手がかりが見つかったのかもしれない。
弥生は入り口近くの模造観葉植物と並んで立ち、期待と共に電話に出た。
「もしもし飛鳥? ……うん、こっちは大丈夫。君の作ってくれた札がちゃんと効いてる。それで――え、探し物? …………その勾玉が必要なんだね。分かった、僕もすぐ戻る」
一切の無駄がない説明を受けて電話を切ると、弥生は早足で真土の隣へ戻った。
「すまない。急用ができた」
弥生はぬるくなってきた残りのウーロン茶を一気に飲み干すと、小振りだが使い勝手の良い愛用の折財布を出し、会計の準備をする。こんな慌ただしい別れになるのなら、先に真土の連絡先を聞いておけば良かったと思いつつも、またここに来ればすぐ会えるだろうと今は諦める。それに真土には名刺を渡した。彼の方から連絡を貰える可能性だって、大いにある。
出会ったばかりの友人に不思議な信頼と縁を覚えながら、弥生は伝票を見てから千円札を数えて取り出す。そんな弥生に真土は、違う次元に居るかのようなまったりさで、ようやく吹っ切れた杏仁豆腐を存分に味わいながら訊ねた。
「なあ弥生、今『勾玉』がどーのって聞こえたけど……」
「ああ。どうやら四神にもう一度眠りについて休んでもらうには、二つの勾玉の力が必要らしい。見当もつかないが、すぐに探して手に入れなければ」
弥生は気が急いて仕方がないが、真土はこれでもかという程呑気に構えている。雑な別れ方になってしまうけれど仕方がないかと、カルトンに小銭を揃え終えた弥生は諦めかけたが、
「その勾玉ってさ」
「うん?」
止まった弥生に見せるため、真土は服の中から首飾りを引き出す。
「これ?」
「…………え」
真土、そして央乃までも。二人は揃ってそれぞれ黒と白、二色の勾玉を掲げ示していた。