ははあ!まだ二十歳にて浄広弐でしか。そのご身分は朝政を執られて居る方々のご身分ですぞ。未だ宮廷に未熟な舎人皇子様にそこまで‥、史は唖然とした
安殿では、舎人皇子が退座した後、藤原史が目通りに入って来た
。
御簾が上がったままに為って居る。
帝は先ほどの姿勢のまま
、眼を閉じ考え事をして居られるようだ。
史は一礼して座るなり
「如何で御座いました?」
と、興味も含めて、帝に声を掛けた。
史も、書面にては舎人皇子を自分なりに推し量っては居るが、皇子と直に面と向かって話した事が無いので、期待と警戒心の入り混じった不安があった。
帝は問いには答えず、暫く沈黙が続いた。
ひょいと史が眼を挙げると、讃良(帝)の眼には涙が滲み出て居るでは無いか
。遠目にもはっきりと分かる。
史はびっくりして、一座下がって小さな身体を、また小さく丸める様にひれ伏して、思いっ切り頭を床に着けた。
思いもよらぬ出来事だ。この気の強い帝が何ゆえに
‥!?
舎人皇子と何を話されたと云うのじゃ。
涙など、この帝には在りはせぬ‥‥、と今まで見たことも無い光景に、頭が真っ白に成った思いだ。
どれだけの時間が過ぎたろう。
帝はそっと袖を顔にやり
、静かに
「有間皇子を思い出してのう‥、あの舎人皇子を見ていると‥、面影が出て来るものかしらねぇ‥、妾は幼いながらも、有間皇子を慕っておった故に、急に胸が締め付けられた様に成ってのう‥、」
と、ようやく、ゆるりとお答えに成った。
史が、誕生して、生を受けた頃なので話にしか聞いて居ない。
「それほどまでに、良く似て要らしたのですか‥?」
史は、そのままの姿勢で
、一座前に進んで頭を上げ
、正座して、びっくりした眼で讃良に尋ねた。
「いや、顔はそれほどでもないのじゃが、物言いの仕草がのう‥、血は争えんものじや、のう史よ‥、」
「ははあ‥、」と、
史は、その言葉は、帝はご自分の事も、この我の事も含めての感慨であつたので有ろうか。
「妾はもう疲れたわ。大海人皇子様に嫁いで以来、息つく間も無かったような気がするわ‥、もう幾年に為るかのう‥、
のう史‥あの皇子を、此方
(こちら)に引き寄せる手立ては無いか」
「いや‥我もそう望むところですが‥、」
はたと史はその後を続けるのを止め、
「では‥舎人皇子様を皇太子にとお考えに‥?」
と、一挙に帝を追い詰めた
「いや、そこまで妾は考えて居らぬわ‥、」
帝は、史の突然の進言に
、己れの気弱さに愕然と成った。
「しかし、まだご油断は成りませぬ。皇子様が宮廷に入られて、どの様に変わるのか分かりませぬ。
昨年にも、ご相談の折りに申し上げたように、軽皇子様をお立てに成り、大上帝としてご後見あそばさないと‥、」
史は、弱気きに走る帝に
、追い討ちを掛けた。
「その事だが、妾は心配は要らぬと思う。有間皇子の事以来、阿倍氏族は分を弁えた動きしかして居らぬ。少々舎人皇子に良からぬ気があっても、阿倍氏族は放って置くまい。
その為に御主人を氏上に据えたのじゃ。御主人を手なずけて置く事じゃ」
「ははあ‥、あい努めます」
史は、帝の先見には、畏れいった呈で畏まった。
「で、舎人皇子様は何時からのご出廷で‥?」
「翌月の朔からじゃ。それにじゃ。新宮への遷(うつ
)りを年内に行って、翌年の春に、皇子に浄広弐〈(
じようこうに)皇族、王族八階級の第四位〉を授ける積もりじゃ」
「ははあ‥!?まだ二十歳にて浄広弐ですか?その身分は朝政を執られて居られるお方のご身分ですぞ。未だ宮廷に未熟な皇子様にそこまで‥!」
史は唖然とした。
勿論例の無い事だが、帝は
、舎人皇子の出方を思いつ切り楽しみにしてお出でのようだ。吉と出るか凶と出るか。
そう言えば、薬師寺の西堂の如来像は、他の仏像とちと違った顔相の作りじゃと誰か言っておつたが、あれは帝が仏師に有間皇子様を似せて作らせたのでは無いかのう。
余分な事だが、史は帝の幼き頃の憧れの男子を拝顔しに行こうかと
、心に止めた。
磐余近辺の阿倍本家の館から、山田道へ入り奥山から八釣に向かう。道なりに山道を走ると嶋の宮に出る。途中小原口の番所で、遠く新宮を望む。真下は現宮廷浄御原宮だ。
やはり造りの大きさが違うのがはっきりする。大安殿(大極殿)が既に出来て居り、遠目に見ても他の近辺の建物よりかなり大きく
、現宮の大安殿よりは造りが違うように見える。
帳内を連れた舎人皇子が嶋の宮に入った
。
当間国見と従者が待ち構えて居る前で、馬から二人は降りた。
「良く御出下さりました。お忙しい中、ご無理申し上げて申し訳ありませぬ。もう準備万端にて、何時でもご出立出来ます故」
と、国見は恐縮しながら、満面に笑みを浮かべた。
軽皇子がすぐ寄って来て
「叔父様、お早う御座います。本日は宜しくお願いします」
と、凛々しく挨拶した。すぐ後ろでは、軽皇子の帳内が深々と頭を下げて居る
「宜しく頼みますぞ」
舎人の声で、頭を上げ
「承知仕まりました‥」
と元気な返事だ。
少し離れて馬屋の前が少々騒がしい。
「ねぇ~母様、母様。妾もご一緒させて下さるようお願いして。妾もお姉様とご一緒させて。お姉様だけなんてずるい事よねぇ母様お願いして‥!」
「まあ~~吉備‥
貴女がもう少し大きく成ったらね。ご一緒させて貰いましょ。今日は兄様のお仕事なのよ」
母の阿閉が末娘の姫を宥めている。
ようやく十歳に成ったばかりなのに、姉の氷高と同じ乗馬の身支度して、駄々をこねている。
「だってどうしてお姉様だけなの。妾も上手(うまく
)にお馬を乗りこなせてよ
。お邪魔に為らない様にするから、母様‥お願いして‥、」
「でもお姉様は、後で【軽
】が見落とした事を、きちっと弟に教えなければお役目よ。お遊びじゃないの。
次の時には、貴女もご一緒させて貰いましょ。今日は我慢するのよ」
「でもよ‥でもよ。妾も兄様のお手伝い出来てよ」
と、なかなか諦め無い。
じっと側で、母と妹の遣り取りを聞いていた氷高は
、何とも遣りきれない気持ちで一杯だった。
自分も今日は、舎人の叔父様がご一緒と云うことで
、弟を唆してご一緒させるよう企てた身である。
自分が身支度して居る間に、妹もちゃっかり後を追うように乗馬支度して出て来た。
「吉備、ほら、あそこに居られる方よ。叔父様にお願いして見たら」
母はびっくりして
「氷高‥そんな事‥、舎人皇子様も無理矢理引っ張り出されたご様子なのに‥、
そんな御迷惑な事、お願い出来ないことよ」と、氷高を窘めた。
吉備は、兄の軽や国見と話をしていた背の高い若者が、此方を見た時
「あっ!」と、思わず声が漏れた。
父が亡くなつたあくる日に、一人で来られ、大声で哭いて帰られたお人だ。朧気ながらはつきり覚えている。非常に恐ろしかった事を。
吉備は後退り(あとずさり)し、今日のお願いする先がその叔父だと分かると
、黙ってしまった。
「まあ~この子ったら舎人叔父様を覚えていたの。あの時のお人だと」
阿閉は諦めた様子の末娘を、庇うように抱きしめて
、にっこり笑った。
舎人はようやく収まったかに見えた馬屋の前に近付いて行った。
氷高は吉備が、気を取り直したようなので、母と同じく優しく微笑んでいたが、
舎人が近づくと、振り返りじっと見つめた。
きらりと大きな瞳が輝き、眉が濃く、その眉は細く長く流線を描き左右に流れる
。笑顔の美しさは格別だが
、それにも増して、キリッと引き締まった眼差しはは
、厳しさの中に、えもいわれぬ優しさが光を放つ。
舎人は、吸い込まれるように、一瞬声も出なかったが、氷高の乗馬の身なり、びっくりしたように
「今日は、姫もご一緒で
‥、」
と、急に自分の顔が、如何様に破裂しているかを気付きながら、満面笑みを漂わせようと、必死に成って氷高に声を掛けた。
「はい‥ご一緒させて貰って、御迷惑おかけしますが
宜しくお願い致します」
飛び入りの厄介者らしく
、丁重に挨拶した。
瓜実顔を少々丸くした感じの輪郭が、時によっては瓜実、時によつては丸顔と
、女性の顔の変化は舎人には分からないが、どの様に変化しようが、舎人の眼にはこれ以上美しいものはこの世には無い、としか写らぬ様であった。




