あの女狐め、吾を封じ込める積もりじゃな。軽皇子に付けて、吾の身辺を監視するつもりじゃ。
翌年甲午(こうご、六九四)の春一月、阿倍氏族では朗報で賑わった。
少麻呂は直広肆(じきこうし、貴族の仲間入り)に
御主人は正広賑(しようこうし、大臣級)にそれぞれ昇格した。
舎人皇子の動静に、帝が怒って居られる事に、戦々恐々の最中での思いもよらぬ位階の人事であつた。又
、布施御主人は、阿倍氏を賜わり、氏上として認定された。
この年七月、遷都の準備に慌ただしい折りに、舎人皇子は宮廷に出
仕するよう、帝からの使いを受けた。
「舎人皇子‥そなたもそろそろ朝政の事を良く知っておいてくれねば困ります。正式には、そなたが二十歳に成る翌年からに為るが、早く来て慣れたが良いと思うてのう‥、
翌月(八月)の朔より、毎日参内するようにしてたもれ‥、
そうよのう、広瀬王の所(
もと)でお仕えすれば良いのう‥、」
百官達の会見には言葉は厳しいが、成人して初めて二人だけで会う甥には優しい叔母だ。御簾もいつもは下げられているが
、今日は始めから上がっていた。
「ははあ‥畏まりました。帝のお役に立てられるよう、良くお勤め致します」
「ほほほう‥まあ何と嬉しいことを。悪戯っ子で無鉄砲なそなたが、こんなに立派に為って‥。でも、そなたが妾の事を、怖い叔母だと言って居るのを、噂で聞くぞよ」
と肘掛けを引き寄せた。
舎人は慌てて
「いえ~飛んでも御座いません。先帝が身罷われ、すぐ皇太子か〈コウぜ(亡くなる)〉られて、さぞご苦労無さって居る事は、良く存じて居ります。
いつも気が張りつめてお出でなので、吾は側の者には、恐れながら、愚痴を言う者を、叱咤して居る次第です」
「まあ~~上手なお返しだこと。
御祖母様の橘姫様がご存命なら、きっと満面に笑みを浮かべてお喜びに成られたのに‥、
良く可愛いがって頂いたのよ‥妾は‥、
それに皇子(舎人)の叔母様の明日香姫(あすかひめ
)様とは、姉妹の様に、今でも仲の良いお友達なの」
「ははあ‥左様で御座いましたか。吾が五~六才の時に御祖母様が〈コウ〉じられました故、良くは覚えては居りませんが、静かな、
いつも笑顔を絶やさない婦人だと記憶して居ります。吾が悪戯して、
母様に良く咜られて居ると
、御祖母様がいつも味方をして呉れていた事を覚えて居ります」
ちょっと俯きかげんにして、御祖母様の面影を追うような素振りをした。
帝はちょっと間を置いて
「そなたの母様(新田部皇女、にいたべのひめみこ)が妃(天武の)に成って
【宮】に来られた時は、びっくりしたわ。御祖母様にお顔がそっくりだし、立ち居振る舞いは、そこに橘姫様が居られる様だったわね‥、」
「ははあ‥母様はそれほどまでに御祖母様に似てお出ででしたか‥、」
帝は、肘掛けをよけ、居ずまいを正した。
「此れからまだまだ大変だわ。先帝のご遺志を出来るだけお継ぎしようと‥、その為には少々の犠牲はやむ無くってよ‥!」
[ 成る程、その為の代償が、大津・草壁・川嶋皇子
様達を追いやった抗弁なのか]
舎人の頭を一瞬よぎつた
「舎人皇子‥!」
「ははあ‥!」
「そなた達若い者が、此れから背負って行くのよ、この国を‥、生半可な気持ちで
、朝政に携わっては駄目よ‥、!」
「ははあ‥良く存じて居ります。天と神に誓って励みます。先達の博識を良く身に付けたいと思って居ります」
「もう、悪戯
をする歳では無いわ。広瀬王に良くお仕えして、余り王を困らせては駄目よ」
と念を押された。
「ははあ‥良く心得て居ります」
と、一礼して安殿を出た。
渡り廊下に入ると、当間国見(たじまのくにみ、東宮所属の官人)が待っていたかのように寄って来た。少し間を置いて中腰になり一礼した。
「皇子様‥お久しゅう御座います。暫くお話を‥、」
と、辺りを注意深く見回して話し掛けて来た。
「国見様‥何用で‥?」
舎人も国見事は良く知っていた。
東宮の官人と言えば、皇太子のお守り役だ。今、皇太子は決まって居ないので
、各皇子の官に出入りしては、ご機嫌伺いに回って居る。誰が皇太子に成るか分からないからだ。
「ははあ‥皇子様のご都合も聞かずに、ご無礼な御願いで御座いますが、次の宮廷の休みに、お時間を頂きませぬか」
舎人、は急な申し出に少々びっくりしたが
「いや、良いが‥どちらかに出掛けるのかな?吾は
、翌月からの出仕を今、帝から申し渡されたばかりじゃ」
少々間を置いて
「準備もあるが、良かろう承知した。して、何処に参るのかな‥?」
「 はい、嶋の宮の軽皇子
様を、新宮(藤原宮)にご案内致したく、是非、舎人皇子様にお連れして頂いたら光栄かと存じまして。
ええ~~新宮は殆ど出来上がって、居る模様で、この暮れには、帝も宮を遷(う
つ)されるご予定と伺って居ります」
「ご一緒にじゃと。何故じゃ。吾でなくとも良く御存じの方も多かろうに!?」
国見は、ちょっと左右に眼をやって小声で、
「はい‥左様では御座いますが、帝のご推挙も御座いまして‥、」
「何‥、帝が‥!?」
あの女狐め、吾を封じ込める積もりじゃな、【軽皇子】に付けて、吾の身辺を監視するつもりじゃ。
しかし、顔は穏やかに国見を見て
「あい分かった。何時に何処へ行けば良いのじゃ」
「はい、午の刻(うまのこく、朝六時)に嶋の宮に御越し頂ければ宜しいかと。我もご一緒にお待ちして居ります」
「午の刻じゃな。晴れれば良いが‥、」
「その日は、〈陰陽寮〉からは、良い日頃と伺って居ります」




