先帝天智が山科で拉致された時、丘の上から赤旗を振り下ろしていたのはあの史か‥、そして指示は皇后讃良か?この二人かかっては吾の知恵たるも如何ばかりや
母(新田部皇女、にいたべのひめみこ)は心配で、
良く叔父(二代目阿倍比羅夫ひらふ)に相談に行っていた。
「皇子、食事くらいなさい
。身罷われた皇子(大津)様には申し訳ないが、もう戻られないのじゃ。皇子がいつも遊びに行って、よくご勉強を教授して頂いて居たことは、我もよく聞いておりました。
しかし、もう忘れて頂きたい。
天下を動かされる方の考えを、我らがとやかく、口を挟むものではありません。
特に、我が阿倍家にとつては、皇子にはご存じないと思いますが、苦い経験を背負って居ります。
皇子にご忠告では在りませんが、くれぐれも、ご無体為されませぬように、お願いします」
叔父の比羅夫は、慰めとも諌めるともつかない口調で、落ち込んでいる吾を立ち直らせてくれた。
苦い経験とは、有馬皇子
(ありまのみこ)の事で有ろう。
御祖母様(おばあさま、新田部の母)橘姫の姉(小足ひめ)の子(孝徳天皇の皇子)の有馬皇子が、蘇我赤兄(あかえ、山辺皇女の祖父)を利用し、紀伊にて中大兄王
(天智)に謀殺されたのだ
。
左大臣であつた有馬の祖父阿倍倉梯麻呂(くらはしまろ、舎人の曾祖父)は、
もう亡くなってしまっていた。
[大津皇子様は、吾の代わりか‥!]
と、言い様の無い寂しさを感じた。
[あれは甘樫丘から始まったのだ]
舎人は、甘樫丘の大津の演説から、すぐあと、帝が身罷った日からの事を思い浮かべようとした。大津謀殺までの一連の流れは、大津の【やや】の乳母や、謀殺を告発したという川嶋皇子からも話を聞いて詳細は掴んでいた。
「皇子様‥‥舎人皇子様
!」
と、従者の帳内の声に、はっと身を構えた。
「ああ、そちか、許せ。どうもこの馬子様の墓の前に立つと色々思い出してのう
。もう少し考えさせて呉れぬか」
と、帳内を安堵させる。
此処に立つと飛鳥の宮が
、のどかに見えるわ。吾も何れかは、皆と同じように出仕して渦に巻かれるというわけか。
舎人は、きっと‥、浄御原宮の大安殿を見つめると
、すぐ馬子の墓に向き直った。
そして、川嶋皇子と乳母の話の筋を追って見る事にした。
甘樫丘の会から皆と別れた大津は、訳語田(おさだ
)の宮の近くに在る磐余(
いわれ)の池の堤に出た。
じっと水面を凝視したまま動かない。鴨が遊んでいるのも気がつかないようだ。
朝政に列席した時を思い出す。
「皇子‥どうじゃ。明日から朕の側で天下をみては」
と、父帝(天武)が決っしかねたように吾に声をかけ、お決めに為った。
「巽の刻(朝の四時)には宮廷に来るのじゃ」
「あい、承知仕まりました
」
いよいよか、と大津は自分に声をかけてくれた父を眩しくみた。
父帝が、先帝(天智)から去って吉野へ行かれた時
。
父帝が、近江を攻められた時
父帝が、吾と兄の高市皇子を救いに来られた時。
父帝が、吉野で吾を兄の高市よりも継位を上位に就ける事を述べられた時。
今から思えば、父帝が無ければ吾も在らんわ、と自我せる。
今日は皆よう来てくれたわ(甘樫丘の事)。何と草壁の兄様も。舎人皇子など年端もいかぬのによう来てくれたわ。
兄様(草壁)は、吾に勅が下っておるのを知りながら良く来られたわ。
今まで兄様には滅茶な事を良くしたものよ。側妻(
そばめ)まで寝取られて、口惜しい筈なのに、何もおっしゃっらなんだ。
吾が如何に存在(いい加減な男)なのかよう分かったわ。
母の皇后は、いつもちゃんとよく見てらっしゃったのじゃ。
父帝はもう助からんじゃろう。此のような勅(大津の朝政列席の中止)を皇后が出せるということは。
そして、二ヶ月もせぬうちに、帝は身罷った。
宮廷で帝の屍に別れを告げて、帰りに再び磐余の池の堤に立った。
じっと、今度は鴨を見つめる。
宮廷での皇后との遣り取りを思い出し、悔しさと、絶望感が込み上がって来た。
帝の屍の前で吾は、中臣史の列席をいぶかって問い詰めた。
後で皇后に、甘樫丘での集まりは【令】の規定に反すると問い詰められた。
[皇太子も来られ皆、承知の筈じゃ]
他の皇子達に、以後罷り成らぬと、全員集めて厳しく達っしたのだ。
この前例の無い葬礼は、
吾を皆から引き離し、宮廷からも遠ざけようとする狙いだったのじゃ。
列席しておった【史】とか申す者が皇后に逐一報告して居たので有ろう。それにしても、あの身のこなし小人ながら堂々とした風格をしておった。
近江に居たあの時、先帝(天智)が山階(やましな
)の狩場で拉致された時、
【大】、【小】と舎人達が
、死に際になぞらえた文字は【大識冠のお子】という意味だったのではないか。もう十数年も前に成るが、
吾は忘れようにも忘れまい
。吾らが遅れて、帝の馬に近づいた時には帝が居なく二人の舎人は倒れていた。
その前に前方の丘の上から見えた、赤旗を振り下ろしていたのは、あの史ではなかったか。
思わず、身が震えたわ‥、
中臣史とは鎌足様のお子と聞いておる。
もしそうであれば、近江宮から吉野へ向かわれる前に、父か皇后(讃良)が指示したに違いない。
[今見ると、やはり皇后か]
もう、吾も万事休したと覚悟せねば成るまい。
この二人にかかっては、
吾の知恵たるもの如何ばかりや在らん。
「いや、あい万事、ご承知仕りました。卒爾(そつじ
)ながら、吾は早々にご無礼申し上げます」
大津はすっくと立って、
屍の帝に一礼し、振り返って、皇子達には見向きもせずに立ち去った。
[吾にも意地がある。これは、帝が身罷った途端の狼藉じゃ。天位に食らいつく輩に、抗弁も無いわ。吾は叔母(皇后)の意に叶わなかったのじゃ]
末席に近い隅の方で、列席していた舎人皇子は、大津皇子の反抗的な毅然さに
、茫然として嗚咽するばかりであった。
磐代の浜松
が枝を引き結び
真幸くあらば
またかへり見む
〈有馬皇子〉
磐余の池の堤に立って、
急に有馬皇子の事を思い出した。
もう二十八年にもなるか
今の吾らの立場からすれば、兄の皇太子(草壁)が
、吾をその立場に追いやる筈だ。皇太子ではなく、母様(皇后)が、と口惜しい
兄様なら胸を差し出しても惜しくはなかったに
百伝ふ(ももつたふ)
磐余の池に鳴く鴨を
今日のみ見てや
雲隠りなむ
今生の別れと成るやも知れん。いや、もう未練がましいことは‥、
しかし、一目、あね大伯皇女に会いたい。厳罰に処されても。
振り返って大津は二人の帳内を呼んだ。
「そち達二人のうち、一通は妃へ巽の刻に。一通は兄様の川嶋皇子へ届けて呉れぬか。兄様へは何時でも良いが三日後にしてくれぬか
」と、その句を渡した。
「そうだ‥道作(みちつくり、帳内の一人)。そちは今から吾は伊勢へ行く。吾と伴にせんか‥、」
「え、今から伊勢に‥、で御座いますか‥?」
伊勢は畿内には入らない東国である。畿
内を出る時は許可が要るのである。当然罰せられる覚悟で無ければ為らない。
少々戸惑っていたが、道作も、最近の皇子の苦悩は充分承知している。生死は共にのお仕えだ。
「あい、お伴致します」
と厳粛に返答した。
畿内を離れることは禁じられている。敢えて冒されるのは、死を持ってしてでも、姉姫様にお会いしたかろうと、大津の覚悟を察した。
「舎人皇子‥、吾が大津皇子の足取りか解るのはそこまでじゃ」
と、兄の川嶋皇子は、当時の大津の苦悩の一端でも分かつあえたらと、自分の気弱さを責めるように答えた。
舎人が川嶋皇子からこの話を聞いたのは、大津皇子が亡くなって一年後のことであった。幼き頃より舎人皇子を大津が可愛いがって居たのを川嶋皇子は良く知っていた。その舎人の頼みのこと故、恥を忍んで話して呉れたのであった。又、その後の宮内の事も話してくれた。
「あの帝(天武)の御前の葬礼の後では、大津皇子の朝政参列復帰を、と長老の
八口音橿や壱イ支博徳、史の従兄の中臣臣麻呂等が中心に為って数十名の百官どもが、皇后に直訴して大事に為ったと聞いた。ただ、音橿や臣麻呂など中臣の臣などは、皇后側近の史を牽制してのことだろえが。
吾は近江の宮から良く知って居るが、大津皇子の才覚は、少々の荒っぽさもあったが、並外れでおった。近江帝(天智)も先帝(天武)も生存されておられたら、大津は間違いなく帝位を継いでおったろう。
何故に、吾が告発したことに為ったかは、あの磐余の歌を差し出してしまったからじゃ。
大津皇子が畿外の伊勢に行ったのを知らぬ訳は無かろう。と同罪を強いられてのことじゃった。莫逆の友(
親友中の親友)を謀(はか
)ってしまうことに為った
と。
終には、喉から声を絞るように呟いた。




