草壁の殯の日に再び舎人は訪れたが遠くで眺めた。相変わらず皇后も他の皇子供達も来ぬとは今宮廷では何が起こっているのか‥、その時柿本人麻呂の挽歌の朗唱は習いであつた
その右手には坂田寺の堂が見える。厩戸皇子(うまやどのみこ、聖徳太子)の父帝(用明天皇)の病気平癒を祈願して、仏師鞍作止利の父多須奈(たすな
)が建てたという。先帝(
天武)の崩御の時、無遮大会(むしゃだいえ、国王が施主となり、一切の人々を供養-布施する仏会ぶつえ)を、飛鳥の主要四社(大官寺・飛鳥寺・川原寺・小墾田豊浦寺
(おわりだとようらでら)
と伴に営んだ尼寺だ。
やはり、皇后は来ぬか。
他の皇子達も来ぬとはよほどの事じゃ。
舎人が、もう今日はよそうと引き返そうとした時、
朗々と良く響く声が聞こえて来た。
天地の初め成るとき
ひさかたの天の河原に
八百万千万神(やおろず
ちよろずのかみ)の神
集ひ集ひいまして 神
分かり分かりし
時に
天照てらす日女
(ひめ)の命
天をば知らしめす と
葦原の瑞穂の
国を 天地のよりあひの
極 知らしめす神の命
と
天雲の八重
雲わけて
神下しいま
せまつりし
高照らす日の
皇子
飛鳥の浄御
の宮に 神ながら太敷(
ふとし)きまして
天皇の敷き
ます国と 天の
原石門を
開き 神上
り上がりいましぬ
吾が王
皇子の命(み
こと)の天の
下知らしめす
世は
春花の貴くあらむと
望月の満
(たた)はしけむと
天の下四方の
人の 大船(おおふね
)の思ひ頼みて天(あ
ま)の水仰(
あお)ぎて待つに
いかさまに思
ほしめせか つるもな
き真弓の岡
に
宮柱太
敷きいまし 御在所を
高知りまして
朝ごとに御言(みこと
)問はさず 日
月の数多く
(まぬく、あまた)な
りぬる
そこ故に 皇
子の宮人
ゆくへ知らずも
哭礼の後の、挽歌の朗唱は習いであったが
「何と貴高い、お歌なんだろ」
十四歳の舎人であっても、その神秘的壮麗さがわかる。
柿本人麻呂の朗唱であった。舎人は後で知った。
【天地の初め成る時から】とは、天地創造の時
からの神々を天皇家の祖先として、もうこの方(人麻呂)は決めて居られる。
大津皇子様が、帝の言葉としておっしゃっていた。天照らす神こそ天皇家の祖神である。という事を知って居られたのであろうか。
神の御子が、現人神(
あらひとがみ)としてこの国を治めるべくものなのだ。天皇という聖なる存在を、降臨と昇天という神秘性を兼ね添えることに
よって、絶対なる服従を意識させて居られる。
何と壮大で説得力ある歌の調べであろう。
帝(天武)が天地を往復し、皇太子(
草壁)が若くして身罷(
みまか)われた悲しみがあっても、草壁も帝と同じように神そのものと為って
天界へ戻られたのだから、いささかも案ずる事は無い、と。
舎人は馬を返して、もう一度蘇我馬子の墓の正面に立った。
皇后(讃良)はもう称制(しようせい、帝の代理
)ではなく、真の帝に成る為の準備をされて居ると
聞く。
皇太子は何だつたんだろう。皇后は我が子であっても臣下としてしか扱わなかった。古の習いはいざ知らず、余りにも酷い仕打ちだ。
他の皇子、王達の動きも如何ばかりや。
大津皇子謀殺の事件が全てだが、舎人はまだ当時十一歳だった。何が何だか解らず、悔しさと悲しさで暫く食事も喉を通らず、幾日も泣き明かした。




