史という策略家を得て、皇后讃良は自分の権威を守る為着々と準備を進めて行く積もりか‥?
元来、臣下が召されるような場所ではないが、史は別格だ。
讃良は、膝を崩し横座りで肘掛けに身を預けていた
。片手は顔に手を当て、涙を見せぬような仕草で沈黙していた。
少し離れ、史は正座して黙祷しているようだ。
一方、讃良は、昨日妹の阿閉が宮に来た時の会話を思い出していた。
「[御祖父様(おじいさま
、天武)がお亡くなりに成った時、お父様(草壁)は
、幾日も幾日も殯宮(もがりのみや、貴人の死の魂を沈めるまで、棺ひつぎに納め安置して置く場所)に着きっきりで、賓客に応対していたわ。御祖母様(おばあさま、讃良)は、早く天子に即位して皆の者を安心させねば為らないと、お父様を説得していたそうね。でもお父様は首をたてに降らなかった、ねぇ~母様。お父様 は、帝になるお積もりはなかったのではないかしら]
と、氷高は言うの」
阿閉は、涙ながら讃良に言った。
阿閉は昨日の葬礼が終わったあと、姉の皇后讃良に会いに宮へ来た。顔を見せない姉に真意を聞いておきたかった。
「貴女は良い子に恵まれて
‥‥、氷高は美しく成り、軽は良い子に育っているじゃないの。吉備はまだ解らないけど‥、ねぇ阿閉‥。
妾はどうしても、大海人の他の皇子達に、帝位を譲りたくないの‥‥、妾が暫く頑張るわ。今大切な時なの。弱気に成ったら内、外
(国内でも国外に対してでも)に打ち負かされて、妾達も、この国自体も破滅するかも知れない。今、我が子の為に天位の権威に隙を見せる訳にはいかないの。
皇太子の死に嘆き悲しんで居るような母親など、万民には必要ないの。
妾だって後の事は解らないのよ。よわごしでは、妾達も、この国をも守れないの。だから、成長したら軽を跡継ぎにさせてくれないかしら」
「ええ!軽を‥‥、まだ七歳ですよ軽は。いいえお姉様。お姉様も、もう手を引いた方がいいんじゃ御座いません。高市皇子も長皇子
、弓削皇子、もう少し立てば舎人皇子もお出でじゃ御座いませんか!?」
「馬鹿ねえ貴女って。今までの事を見てご覧なさい。
天下を取った一族(やから
)は、皆、邪魔者を抹殺していくのよ。後、誰に成っても貴女の子達は無事じやないわ。特に軽わね」
阿閉は父の先帝(天智)の遣り方を、母の姪娘から、幼き頃からよく聞いていたので
ぞっとした。
「阿閉、殯の時も行けないけれど我慢してね」
讃良は申し訳無さそうに言ったが、阿閉は姉の眼の奥が光ったのを見逃さなかった。大津皇子の時を思えば、姉の讃良は、自分では計り知れない御人(おひと
)なんだ。
阿閉はこっくり頷いたが
「でもねえお姉様‥、身罷
(みまか)った日に、又先でも母様からお悔やみも無しで‥‥、夫の草壁がお可哀想すぎます」
と言ってその場を去った。
「もう三日に成りますか」
目を開け、史は讃良に声を掛けた。
「甲午(こうご、四月十三日)の子の刻(ねのこく、十二時)ぐらいと聞いて」
史の問いには答えず、草壁が息を引き取った時の事
を言っている。
「それにしても、あつけない事じゃ。帝(天武)を殯の宮から大内陵に御送りして
、まだ五つの月も為らぬと
言うに‥‥、気弱な子じゃった」
と、遠くを見つめる。
もう何年も前から草壁を諦めていたのだ。ただ、大津皇子を排斥するまでは、何としてでも皇太子として頑張って貰わねば、と。
悲痛な眼差しから、気の張った目付きに変わり
「いつも、何をしてでも打ち負かされておった。その、大津皇子を省いてやったというに」
と、キラリと光る。
「幼い時からの軟弱さは、母としていつも気掛かりで
、大津に負けじと力強く育てた積もりだ。意に添い、妾の妹の阿閉を娶らした時は、何と立派に成ったかと案じは解けたがのう。大海人に無理やりねじ込んで、二十歳に成った時に皇太子に成ったのに‥‥、
皇太子に成って、朝政を執り行うように為ってからは
、又てっきり気弱に為ってしまったのう」
急に声を掛けられ、史は
「ははあ‥そうで御座りましたか」
としか答えられない。何せ
、その時分から宮仕えしているので、それまでの皇太子の様子は図れなかった。
「大海人も大海人だ。二年後には大津を朝政に列席させてしまった。草壁の体力を考えての策であったろうが。
跳んでもない。あの皇子は
、大海人さえ舌を巻くほどの采配ぶりじゃ。百官(ひやっかん、宮廷の高級官僚
)どもも、草壁が指示を出しても、大津の顔色を伺っておったわ。才の長けた皇子じゃった。
大海人さえ生きておれば、策もあったろうが、病に落ちってしもうて草壁も益々
【気】が失くなってしもうたわ。
それで、そちに頼んでの結末じや」
と、一気に喋り終えて、じっと史を見据え、又、目を閉じた。
「あの頃は、我も宮に仕えたばかりでしたので、皇太子の身の事は図りかねますが、阿閉の妃が、いつもにこやかに皇太子を見守ってお出でだったのが記憶に御座ります」
史が、宮仕えしたのは二十四歳の時であった。
讃良は、その時の事を思い出したのか、目を輝かせた。
「そうじゃ。そちが河内の道明寺へ参り戴いた平癒の守り札を持ってくれたのじゃったな。あの時、帝はびっくりなさって居られたわ。
[あの大織冠(藤原鎌足)内大臣のお子か!]と」
吉野へ下る前に、史に命を与えたのは、藁をも掴む思いだった
【帝を言朱(ちゆう殺害)せよ】
十五歳の若者に、大変な命を与えたものだ。まさか
、その命をあっさりやってのけるとは‥!?
しかし、帝(天智)が身罷った時は、病が急に悪化してコウジタ(死んだ)。という報にそれを信じていた。
今、大海人があるのは、この青年のお陰でも有るのだ。
史は、恩着せましくもなく。代償も一言も妾に要求もせず。何も知らぬ帝(天武)に、宮入を懇願していた。[大織冠のお子が来てくれて心強い]と、二もなく喜んで、彼を受け入れてくれたのだった。
当時は、天下を取って油の乗り切った時期だ。いろいろな政策を打ち出し、豪族依存の政(まつりごと、政治)を絶ち切り、皇子、王族を各所に配し【皇親制】の基盤を作るのに、力を注いでいた頃だ。妾も皇后としてその随所では、相談も受け政務の一員でもあった。
夫婦の契りは、何年も疎遠のままだった。たまの褥(しとね、男と女の交わり)役も、他の妃達がつとめ、妾は(讃良は当時三十代半ば)、女の身としては辛い日々を過ごしていたわ。
そんな時に、近江の宮時代に弟のように可愛がっていた史が、立派な男に為ってやって来たのだ。
妾は、天が送ってくれた思し召し(おぼしめし)としか思えなかった。
史と、男と女の関係に成るのに、時間はかからなかった。
それでも、帝の生存中は
、一時の過ちぐらいで事は済んだのだったが、夫も子も亡くした今と為っては、悲しさよりも心のしこりが取れたように、女の性の芽
(さがのめ)が開いたようだ。
「史、もうそっとこれえ」
と、手招きする。恥ずかしげに片方の手を裾に手をやつた。
史も、不謹慎ながらも、昔ながらの憧れの女性だ。宮入の時は、何かの間違いでの交わりかと思ったが、
久しぶりの誘いに、目がぎらつく。
讃良の目は潤み、盛りのついた雌猫のように雄を誘う。
史は、小柄な身をもっとすくめて、讃良の前へ座したまま、つつっと寄った。
「さあ‥、これへ」
讃良は、裾を思いっきりめくって脚を広げた。史は、讃良の股間に飛び込んだ。
讃良の両腿を抱え上げる。腰を突き出した秘部に口を付け、優しく舌で掬い上げた。
「あへ‥!史、そこ‥!!」
讃良は歓喜の悲鳴を上げ
、思いっきり史の頭を抱え込んだ。
七七すなわち四十九日
六月一日の朝。皇太子草壁の殯宮が始まった。嶋の宮から少し上がった右手に在る。
参列者は少なく、ほとんど身内だけで草壁の魂を暫く見守り、冥界へ送る。
舎人皇子は、従者を連れて再び殯の日に来た。
【馬子の墓】の前を通り
、又少し下がった所で、
飛鳥川と冬の川が合流する所にさしかかる。道は二手に別れるが、右手に掛かる橋を渡って走れば吉野へ向かい、そのまま真っ直ぐ山道を登って行くと、馬の脚で一刻(三十分)ほどで多武峰にたどり着く。近くに鎌足様の霊廟(れいびょう位牌を安置し霊をまつる建物、後に祭神鎌足にして談山神社と成る)が在り、宝姫(斉明)が重ソ(ちようそ、二度目の帝位に就く)して帝位に作った【両槻宮】が在る。峰ノ上に繁る二本の槻の木の間に【物見台(楼閣)】を作ったのだ。
此処からだと、浄御原宮が真下に見え、飛鳥の地が眼下に広がる。八方から敵が攻め寄せても、つぶさに陣営が解るという位置なのだ。
まずは吉野より、次は紀伊よりと、順に室、竹内、穴虫(
あなむ)、竜田
、下津、上津(
かみつ)、初瀬
、宇陀からとぐるり、京に攻めいる敵方を見越せるのだ。
峰からまだ先をずっと下がって行くと、舎人の住まい(阿倍家館)の近くまで辿り着く。
道程が行きも返りも急なので、めったに使わない。
川の合流地点で、舎人は馬を止めた。
吉野道へ行く橋を渡って、
すぐ左の方の山肌に、殯の宮らしき小さな建物が見え、数十名の人の塊が座している。御輿はなく、服装も遠目に見ても皇族、王族の者は居ないようだ。




