大津の熱弁はまだ続いている。幼い頃の舎人は、先生のような兄(大津)の幸せな家庭を思い浮かべていた
川嶋、忍壁皇子。広瀬、竹田、桑田、
三野の各王[現天皇から数えて三世から五世まで]等(ら
)は、帝から帝紀と上古の
記録を確定せよと勅されたが、資料は少なく、実際は何をどうして良いか戸惑
ったまま四年も過ぎた。
中臣の大島
、平群の子首がいろいろな伝承を各郡から、老舗の重臣に頼んで、取り寄せては記録しているが遅々とした状態だ
。帝が、何を目指しているのか理解していなかった。
ただ、間違いや疑わしいことが多いので、よく調べて記上し直せ、と。
そういう最中の大津の説明会であった。
しかし、皇太子草壁と吾(
舎人十一歳)が何故、同じように皆の後ろで連座していたかが不思議と言えば不思議であった。
皇太子はいつも大津皇子に為て遣られてはいたが、大津の才と勇ましさに、弟ながら好いて居られ頼りにして居られた。
今日の会も、皇太子が皆に集まるよう指示したとか
。三日前の事であったらしい。
吾は、大津皇子にへばり尽いていた。七歳の時から
、吾の母方の館(阿部家)
が近くにあったせいか、
訳語田の宮[敏達天皇の宮(当時大津皇子の館)]へは、勝ってに上がり込んでは、
色々な蔵書を盗み読んでいた。妃の山辺皇女様も、やんちゃな童には無頓着で、おおらかで優しいお方だった。
舎人の意識は、大津の弁舌から遠く離れ、訳語田の宮での、かつて気ままな日々が大津の音色(ねいろ
)と重なり夢うつつの間にのめり込んで行った。
「姫様‥もう今日は奥の室にてお待ちに為られましては‥、」
と、生まれて間もない【やや】を抱いた乳母が心配そうに、山辺皇女に声をかけた。
「いいことよ、ややが風邪を引かないよう、貴女こそ
、奥でお待ちなさい」
山辺が優しく微笑んだ。
「皇子様が今日、お出かけの時、必ず迎えるようおっしゃったのよ。何か良いことでも有るのか知らね。いつも妾には解らないような事ばかりおっしゃって。今日はやさしく声を掛けて下さったの」
と、もう目は閉じて、口もとが綻ぶ(ほころぶ)。
乳母は、その幸せそうな姿を見ると、声も掛けずに
、ややを起こさないように、そっと奥の室に入った。
蹄の音が近づいて来た。帳内が一人、早々と宮に入る。
家人が走りより知らせる。
「皇子様がお帰りです!」
と言いざま、大津の出迎えに走った。
皇女は、じっと動かす座したままだ。
庭先で夫大津の声がかすかに聞こえる。
次の帳内が
「お帰りです」と、又
皇女に声をかけた。
まだ、山辺皇女は動かない。ややもすると
「妃‥【やや】はどうした‥!」
大津が山辺に声を掛けた
「まあ~~妾よりも【やや】が先なの‥、」
と、ちょっと僻み
を入れて、大津を笑顔で睨み返す。
「なあに‥妃には後でゆっくりと思うて、はははあ‥
‥、これは参ったわい」
と折れる。
「妃、吾は今日初めて、朝政に列したわ。吾も此れからは、天下の事を調ずる立場に為ったのじゃ」
「まあ~~おめでとうございます。でもそれは今朝から分かっていらっしゃったんじゃございませんこと」と、又笑顔で睨むが、今度は、夫への尊厳の念を込めての、誇り高い返しだった。
「まあ~許せ。実際そうなつてみなければ、妃には言えぬからのう‥、」
「でも皇太子様がお居でなのに、憚りは御座いませんこと」
「いやそれは無かろう。帝も兄様(草壁)が余りご丈夫じゃないので、大事な時の為じゃとおっしゃっておった。兄様も心強うて有難い事じゃとおっしゃっておったわ」
「それは良う御座いましたわ」
改めて
「本当におめでとう御座います。亡き母様もさぞ、天でお喜びなさって居られるわね」
と、大津の母の大田皇女のことを思う。大津が五才の頃亡くなったので、二人とも余り馴染みはないが、母が帝(天武)の寵愛を受けていたことは、息子の大津を常に草壁の次に付け、引き立たせていたことでも解る。
当時の気風では、特に母方の後ろ楯が無ければ、出世などおぼつかなく、致命的であった。母の大田も、
大津の事を思えば、死にきれなかったろう。
「さあ早く、ご報告を、」
大津皇子を、母の神前へ引っ張って行った。
この様子を隣の室で、大津の帰りを待って蔵書を物色していた舎人は、聞くとはなしに、何気なくつぶさに聞いていた。
漢詩、漢文、儒教、陰陽道等々、幼げな舎人の問いに、大津はいつもいやがりもせず、丁寧に易しく教えてくれた。
「皇子は熱心よのう‥、」
母に報告した後、妃の山辺に聞いたのか舎人の居る室に入って来た。
「今頃のそちの年端であれば、他の者達は山や川岸を駆け巡ってはしゃいでおろうに。友は居らぬのか‥?」
「いえ、吾は何時でも一人で駆け回っております。兄様とお会いする時だけです
。賢ぶって居るのは」
「あはははあ‥、面白いことを言う皇子じゃ。吾も、
そなたのような年端の時は
、教授達を良く泣かせたものじゃ。通り一辺の教えには、もう聞き飽きたとな、先帝(天智)はそれを聞いていつも変わった王子(おおきみ、当時はまだ皇子ではない)じゃと呆れておったわ。わっはははあ!!」
大津の笑い声と共に、舎人は、はっと目が覚めた。
あれ、吾は眠ってしまっていたのか‥、
と自分の不謹慎を恥じる。
大津の熱弁はまだ続いていた。




