葛城皇太子、ヒコオオヒヒの命がけの恋
[辺りはまた薄暗い静かな御所の宮から、遠く東の三輪山を見やると、山の向こうの空は明るく、夜明けを知らせんとばかりに、一面うっすらと強弱の光を投げ出していた。
深い静けさを打ち破って、一人の男がけたたましく駆け込んで宮に入った。門前の警備の奴婢(ぬひ、奴隷的な下僕)達が慌てて制したが、それを振り切って主のワカタケヒコを叫び呼んだ。「何事じゃ‥!?」
ワカタケヒコは不機嫌な顔で、その男を睨み付けた。
「はい‥、いえ、大変なことが起きまして、急ぎお知らせて来い‥、と」
「うん‥?」
じっと男の顔を見て
「そなたは、磯の宮におった家人(けにん、いろいろな役を持つ家来)ではないか‥!」
「はい、サクと申します」
「どうしたのじゃ、父上に何かあつたか‥?」
「いえ、先王のヒコフトニ様ではなく、ヒコクニクル王の妃のイカガシコメ様です」
「シコメは、軽の宮に居ったのではなかったか‥?」
「はい。稚児様をお産みになった後、ご休養にて磯の宮へおいででした」
「して、そのシコメがどうかしたか?」
「はい、ヒコオオヒヒ様に連れ去られました‥、!」
「何‥、!ヒコオオヒヒに‥!! まだ十五才に成ったばかりだぞ。馬鹿なことをしおつて‥、!それはいつ頃のことじゃ」
「はいもう一時半(いつときはん、三時間)は過ぎていると思います」
「う~~ん先ほどの出来事か‥!まだ暗闇ではないか‥それでヒコクニクル王には伝えたのか‥?」
「こちらに来る前に、真っ先にお知らせに駆けつけました。お知らせしたところ、ワカタケヒコ様にも伝え来よ‥、と」
「それで‥!」
「長男のオオヒコ様と磯の宮に走られました‥!」
「〈ヒコオオヒヒには自制するように言いくるめておったのに‥、いくら慕っておったところで、自分の父の妃になったのじゃから、もう手が出せまいと思っておったが‥、堪忍袋の緒が切れてしまったか‥!!」
話を聞いて、じっと渋い顔で思案げに考えていたが、目の前のサクに気がつき
「そなたにはご苦労であつた。今はここでゆっくり休め‥、」
「いえ、滅相もございません。すぐ帰って騒動を鎮めませんと」
言うと頭を下げて,どたどたと出て行った。
〈何とも律儀で素早い男だ‥、〉
走り去るサクを頼もしげに見て、感心したように唸った。
さて,一大事が起きたわ‥、手立てを考えねば‥と。ヒコオオヒヒはもうすぐ皇太子として推挙される予定だつた。
「ようやく迎えに来てくれたのね‥、!」
即製の板の御輿から降りて、イカガシコメはヒコオオヒヒを恨めしげにじっと見つめた。しかしその思いは、オオヒヒの自分に対する深い愛を感じ取り、鬱積した心を吹き飛ばすかのように,溢れんばかりの涙を流し
「ヒヒ様‥!!」
と叫びながらオオヒヒに抱きついていつた。
「おお‥!!」
ようやく、思い切ったことをした自分にもシコメにも、今はこうすることしか出来なかったのだ。それが、二人の定めだと思うと、不安より満足感と感動で、オオヒヒも涙ながらに、シコメをひしつと強く受け止めた。
就いて来た家人達も、二人の事情を良く知っていたがための決行だった。
これから先は、自分達がお二人をお護りせねば、と意をかたくしていたが、何せ相手はこの国(葛城)の王だ。
戦の陣営を固め、準備せねば‥、と皆散らばって行った。どれくらいの追手が来るか。先のことは
この一戦にまずかかっているのだ。
軽の宮(大和高田より)に知らせに行き、戦の陣営を整え、この巻向(桜井市)に到着するには二時(ふたとき、四時間)は掛かるだろう。
昨日のうちに、農耕の民達には、王の兵が攻め込むで来た時の守りの要領を伝えてある。イカガシコメ様の父上様にも、民の応援を頼んでいる
。
この巻向の宮はヒコオオヒヒ様が生まれた時、母のウツシコメ様が兄のウツシコオから譲り受けた館だ。ウツシコオを父に持つイカガシコメとヒコオオヒヒとは従姉弟同士なのだ。
幼い時からのお互いの思慕が、年頃に成って離れられない仲になったのだ。
実に仲むつまじく、先々ご夫婦となるだろうと家人達も心待ちしていたのだつた。
家人の長ワニは、ヒコオオヒヒが生まれた時からのお抱えを命じられていた。ヒコクニクル王からは絶大の信頼を得て任されていたが、年が経につれ、自分の息子以上に可愛いがつて来た。
ところが、王がイカガシコメ様を強引に妃にしてしまった時には驚愕した。何故に、そのような理不尽なことを‥、!王も二人の思いを知っておられたろうに。と先々の不幸を案じていたのだつた。
ワニは、将来王になるかも知れないヒコオオヒヒに武芸は勿論。あらゆる知識を身に付けさせていた。当時の知識人はほとんど倭人であつたが、その中でも出雲の教えを身に付けるよう強く示唆していた。