音のない口
母の口からは音のしない時がある。喉に何かの病気があるわけではない。
歯がかすかに見えるくらいの細やかな動きもあれば、普段の喋りよりも抑揚がついたような動きの時もある。それに連動して頬骨の辺りの肉が動き、さらに連動して目が動く。音がない口というのは、思っている以上に不気味で視線が集中する。
その動きが何を表すか、それを考えたことがある。頭で考えたことが溢れ出ている、作った幻想を無音で奏でている、またはもっと大きい理由。しかし、どれも該当しないと思った。そうして一つの考えが出てきた。そうだ、あれは絶望を語っている。そう思うと背筋が凍って内臓に響いた。そうだ、いつもそうだった、何かあるごとに口が音を消していた。もしかしたら、俺に対する不満?呆れ?怒り?・・・絶望。それともこの家にはいない誰か。もちろんこちらに対しても絶望。
なぜ口を動かすかはわからない。何故なら普段は音にして俺に伝えてくるからだ。親としての威厳、それを教えてくれる。その威厳が愛だとするのなら、あの口から出る無音は絶望、唯の怒り。
俺が嫌われているかもしれない、これが一番怖かった。まだ面と向かって言われた方がましだ。その内あの口と無音が背中から刺してくるぞ、そういう考えが常に頭をかすめる。
ある時、祖母が亡くなった。母方の祖母である。車に乗って葬儀に向かう時、バックミラーに母の口が写った。いつものように動かしている、こんな時にまで、と恐怖より怒りが少し勝った。
車から降りると母は泣いた。口で無音を作りながら泣いた、祖母の死に顔を見ながら泣いた。まだ俺に向かって・・・・・・絶望を・・・・・・、俺は泣いてしまった。母は少し笑っている。きっとあの口は絶望だけを出していない、希望とかのいろんなものを出している。そう思ったところで葬儀は終わった。
しばらく経った時こう聞いた。「たまに口が動いてるけどなんなの?」最初から聞けばよかったと思った。「え?無意識だから気が付かなかったわ」
心の器から溢れた思いを口が代弁している。そうなんだと思った。
背筋の凍てつきが取れた。




