18
「ああ、愛しの桜! 愛していると言ってくれ!」
辰巳は胸に手を当てて、仰々しく天に向かって叫ぶ。
昼休みの校舎裏で、俺たち以外に人の気配はない。俺は惣菜パンを齧りながら辰巳の一人芝居を睨んでいた。
「やはり一度降りてしまった花見を説得するのは難しかったようだね」
振り返って目線だけを下に向けた辰巳は他人事のように言う。
「そりゃそうだ、もう一度手を挙げる理由が、花見には無い。役は全部決まったんだから」
「まあ、僕もそのことは想定内だ。だから、自然かつ明確な理由、花見がヒロインを演じなければならないという必然的状況を用意するんだよ。君は、僕の言う通りにやれば良い。全ては上手くいく」
「よーい…………アックションっ!!!」
桃山は相変わらずチョけているが、俺たちは今日から本番と同じステージを使っての稽古をし始めた。
冒頭から暫くは俺の出番は無く、ヒロインの女と人に化けた獣のやり取りが続く。所々で、セリフやポジショニングの確認や、BGMや照明などのテストも行われた。照明にはこだわりが強いらしく、桃山監督自らが操作していた。
終盤にさし仕掛り、ようやく俺の出番がやってくる。一応のわかり易さを優先して、俺は狼の覆面を被ってステージに上がった。
場面設定は深い鬱蒼とした森の中。照明はほとんど無いに等しい程の暗さで、さらに覆面のせいで視界も狭い。今からやるのは、ヒロインの女と獣の攻防戦のシーン。このとき女は獣の正体をまだ知らない。
「よーい、あああックションっ!!!」
力のこもった声で桃山が叫ぶ。
俺と女は全力で駆け出し、互いに一定の距離を置きながら、その間に緊張を張り巡らす。
そして、台本通りに獣が女に飛びかかろうとする瞬間、突然に、僅かな照明さえもが消えて、ステージ上は完全な真っ暗闇に飲まれた。
次に、女の甲高い悲鳴と共に、何かの落下音が相次いで響いた。これは、台本には書いていないことだった。
照明が付かないらしい。スタッフたちは急いで、閉め切っていたカーテンを開けて、自然光を取り込んだ。きらきらと埃が輝き、ステージ下には呻き声をあげる女と、その上に獣がのしかかっていた。
「……わ、悪い」と言って獣は、ゆるゆると女の上から体を退けて、その傍にへたりこんだ。
生徒たちが二者を取り囲むように集まってくる。桃山はその外側で腕を組んでいた。遅れてやってきた辰巳はその群れをかき分けて中心に入り、呻く女、獣の順に目を向け、また女に目を向け直ひ、しゃがんで彼女を抱き起こそうとした。「大丈夫か!?」
「……いた、い」女の声は掠れて今にも消え入りそうだ。目には涙が浮かんでいる。
「何処が痛い?」辰巳は至って冷静に質問をする。
女は、ゆっくりと自分の左手を動かして、弱々しく右腕を指した。確かに、その右腕、肘のあたりが赤黒く腫れていた。地面に手をついたときの衝撃が原因だろう。
「歩けるかい?」と辰巳は彼女の耳元で囁く。女は首を振った。
あれほどの落下音だ。足に怪我があっても、おかしくはない。
「保健室の先生を呼んで」「それから担架を」辰巳は、手前にいた生徒たちに指示を出して、他の生徒たちに女を預けた。女の周りに再び生徒が集まり出し、獣は完全にその輪から疎外された。
辰巳は、獣の覆面を取った俺に向き直り、2人で歩き出す。
「君は、無事かい?」
「ああ、何とかな。さすがに衝撃は受けたけど、目立った怪我は無い」
「それは良かった。……しかし、残念だなあ」辰巳は立ち止まって、慌ただしい集団を振り返る。俺もつられて振り返った。
「主演女優が稽古中に舞台から落下し、大怪我。本番までの復帰は困難が予想される、か」
「桃山」俺はその声の主の名を口にする。
「君もやってくれるねえ。ボクが操作していた照明が突然制御不能になったかと思えば……」
桃山は溜息をついた。
「また代役を立てなきゃだけねえ、適任者を説得しなきゃ」
そう言って桃山は俺たちに背を向ける。
「おい、桃山」 俺は呼び止めずにはいられなかった。
「大丈夫だよ、ナルシくん。君が不利になるようなことは言わない」
桃山は振り返らずに手をヒラヒラと振った。
辰巳は俺の肩を叩いた。