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一通り脚本を読み終えた俺は、冊子を閉じて、机の上に置いた。他の面々も同様に顔を上げ始めた。
「全員読み終わったかな? じゃあ、まずは役の方から決めていきたいと思いうんだけど……」
今度こそホワイトボードに書く場面だった。桃山は、役の名前を書き並べていく。
「主な登場人物は、ふたり。復讐に燃える美しき少女と、赤い眼の獣。なんだけど、誰か、やってやるぜ! っていう人はいない?」
桃山は暫く視線を巡らせるが、誰からも手は挙がらない。俺は目が合わぬように下を向き続けた。他の面々も同じようにしているようだった。
「……なるほど、立候補は無しね。じゃあ、脚本を書いた人間として、是非ともヒロイン役をお願いしたい人がいるんだけど……」桃山はある女生徒に視線を定めた。「花見ちゃん、どうかな? ヒロインをお願い出来ないかなぁ。私がイメージするクールビューティだけどチャーミングなヒロインとピッタリ重なるんだけど」
「ええっ!? わ、私?」 さすがに驚いた様子だ。俺も驚いた。
「桃山、そりゃ完全に人選ミスだぜ!」 「確かに確かに!」 といきなり割り込んできたのは、サッカー部の男子生徒だ。「花見ちゃん、この前の試合で……」
男子生徒は、花見がマネージャーの仕事でドジを踏んだエピソードを語り出した。「花見ちゃんがステージの上に立ってるなんて想像出来ねぇ!」 「ステージから落っこちたりして!」 「もぉ〜、恥ずかしいからやめてよ〜!」
場の空気は完全に白け始めているが、彼らはそんなことには気付きもしないで話を続けている。今この場で内輪の笑いを持ち出すなんて、ナンセンスにも程がある。それを理解できるのは、サッカー部に所属している人間だけなのだから、内輪の外にいる人間には、全く関係も無く、面白くもなんともないのだ。
腹を抱えて笑い、完全に周りの状況が見えなくなっているサッカー部員達に白い視線が向けられる。花見は苦笑いしながら、「ちょっと、ここでそんな話しないでよー!」と照れ隠しのように空を掌で押している。
もう耐えられない。これ以上見ていられない。サッカー部の馬鹿どもが愚行に及んだせいで、花見まで痛いやつだと思われてしまうじゃないか。
俺が、今すぐにこの場の空気を変える必要がある。そう、風穴を開ける必要が。
「……あの」
「盛り上がってるところ、悪いけど、ちょっといいかな」
「はいはい、なんでしょうか。辰巳君!」 桃山は待ってましたと言わんばかりに名を指した。
笑いを遮り、空を切り裂いたのは辰巳冬弥の声だった。俺の声は虚しく霧散した。
「もうひとつの役、俺がやろうと思うんだけど」
「オーケーオーケー、赤い眼の獣ね。……他に立候補はいませんかー?」 桃山は再び視線を巡らせるが、それは先程の期待に充ちた目ではなく、事務的な確認の意味を含んでいた。「あ、そうそう」 また何かを思い出したような顔をする。
「赤い眼の獣はね、読んでもらったからわかると思うんだけど、人の姿の時と、獣の姿の時があるでしょ。それで、メイクとか衣装の関係上、2人で一役を演じて欲しいんだよね。てなわけで、辰巳君は……」
「人の姿で」
「それじゃあ、獣の姿の方は誰か……」 桃山はまたチラチラと視線を向け始めた。やっと立候補があがったのに、また探し直さなくてはならない徒労感の滲んだ顔は少し苦笑いしていた。
視線を向けられる側も同じ気持ちのはずだ。やっと候補が出揃ったと思い、安心していたのに、まだあと一人必要だなんて、あまりにも不意打ちだ。この気まずい空気が1秒でも早く消え去ることを切に願っていることだろう。
しかも今度の役は、獣と来た。桃山の話から察するにメイクや衣装がかなり面倒そうな雰囲気がある。その上、出番ではセリフもほとんどない、あっさりと殺されるラストシーンだけのようだ。そんなしょぼそうな役で、数分に満たない時間のために、大層なメイクや衣装を施されるのは、やはり面倒臭そうと感じているに違いない。しかし、勘違いしてはならないのは、メイクを施す側よりも、施される側の方が簡単なのだ。下手に小道具作りの担当に回るよりも、数分間ステージに立つ方が楽なことに気づいていないのだ。
だが、そんなことは重要ではない。殺される前、獣と少女は見詰め合う、数十秒くらい、と書いてある。かつて無いほどに濃密な数十秒になることだろう。
今回ばかりは百歩譲って、人の姿の役は辰巳に譲ってやるとしても、彼女の視線を独占できる機会を、他の愚図どもに渡すわけにはいかない。この俺がやるべきだ。そう確信した。
「……はい」
「……え?」なんだよ、その間の抜けた声は。気に入らない。
「俺がやるよ」
「ほ、ホントに! ありがとう…………ナルシ君!」絞り出したのがそれかよ。シがもうひとつ足りてないんだよ。
10数名の視線が一気に集まるのを感じる。その視線に含まれる感情は何だ。驚きか。恐怖か。尊敬か。それとも嫉妬か。
「お前が表に立つなんて、意外だな」 辰巳が不快そうに口角を上げる。
「たまには、こういうのも悪くないと思って」
辰巳は去年の文化祭以来、俺を目の敵にしている節がある。
「なに、君たち……なんか怖いよ」 桃山が2人に交互に視線を向ける。「さて、役が決まったことだし、次は小道具と衣装に……」
「ち、ちょっと待って!!!」サイレンが耳元で鳴ったような金切り声。
「お、どうしたの花見ちゃん」
「私、まだやるともやらないとも言ってないし……」
「ということは……」
「……やりません。ホントに人前に出るのとかも苦手だし、意外とドジだし……」
桃山は、意外とって自分で言っちゃうんだ、と呟いていた。
「なので……他の人にお願いして下さい」
「うーん。私としては、花見ちゃんしかいないと思ってたんだけど、無理矢理はやらせないよ。ごめんね、勝手に話進めちゃって」
「ううん、いいの。こっちこそ、期待に添えられなくて、というか、ごめんなさい」
「気にしないで、私が勝手に言ってるだけだから。……そうなると、また誰かにお願いしなくちゃね」
そう言って、桃山はまたまた視線を巡らせると、一同の肩が不自然に上がった気がした。散々に絞り出した結果がコレなのだから、これ以上握り潰したところで、苦い汁しか出てこないことは誰もが理解していた。
俺は茫然として、もう1歩も動けない。花見が降りた。花見が降りた。花見が降りた。花見が……。口の中で言葉が転がっている。
俺のせいか!? 俺と一緒に舞台に上がるのが嫌なのか! 俺は花見に拒絶されたのか!?
いいや、そんなわけないだろ? 絶対に違う。きっとサッカー部のせいだ! そうに違いない。サッカー部のヤツらが、花見の自信を損なわせたからに決まっている。ふざけやがって、許さない。
結局、ヒロインの少女役は、愚図どもの中から選出された。名前は……知らない、というか興味が無い。
桃山に指示されて、役者チームはセリフ合わせを始めた。最後まで出番のない俺は椅子に腰掛けて、ホワイトボードの近くで話し合っている花見の姿をぼんやりと眺めていた。この状況が気に入らなかった。