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001 「わたしはある日目覚めると、飛行機になっていた」

わたしは、「風の谷のナウシカ」が嫌いだった。

なんでだろう、と思う。

まあ、大した理由はないのよね。

それは、多分こんなことだ。

わたしは、もう随分昔のことになるけれど、学生時代に文化人類学を専攻していたの。

で、神話や伝承の比較構造分析をやったりしていた。

例えば、中心と周縁理論なんていうのも学んだりしたの。

そういう見方でナウシカを見ると、結構中心と周縁理論で読み解けてしまうのよね。

王の死と、それに伴う混沌(穢れ)の氾濫。

穢れの奥底に、中心と繋がる見えざる回路があり、王族は穢れをコントロールする。

王族は、氾濫する穢れを沈静化させ日常に回帰していく。

それらはまあ、その昔「ゴールデンバッフ」に基づいてTSエリオットが荒地を書いたようなもの。

もしくは、ストラヴィンスキーの「春の祭典」を考えてみてもいいかもしれない。

ようは、古典的な作品と骨格は同じくしている。

そんな解釈も、できると思うのよね。

えっと、それの何が悪いかっていうと、別に悪くはないと思う。

そもそも、好き嫌いの話をしていて、良い悪いではないからね。

じゃあ、何が嫌いかっていうと、うまく言えなくなるんだけれど。

わたしは、ヘーゲルの哲学も嫌いなの。

絶対精神の自己展開、ていうやつ。

それって、結局のところわたしはこう思うわけ。

わたしたちの手の届かないところ、しかも隠されたところから、じっとわたしたちを見つめているものがいる。

その現実からは手がとどかない何物かが、わたしたちを実は支配しているって感じ。

それはとても、気に入らない。

中心と周縁理論にも、同じものを感じるのよね。

わたしたちが触れることのできない、構造というものが実はわたしたちの振る舞いを規定していたりする。

まあ、これは本来構造主義と呼ばれるものの、正しい解釈ではないと思う。

けれど、わたしはそんなふうに思ってしまうの。

ヘーゲルは、未来に向かって伸びていく超越について語った。

中心と周縁理論は、円を描き回帰し続ける超越を語る。

形は違うのだけれども、本質は同じ。

わたしたちから隠された何かが、支配している。

そんなものは、くそだと思っていたわけ。

ナウシカに、そんな匂いを感じてしまったの。

でもね。

たまたま、テレビでナウシカを見ていて全く別の感想を抱いたの。

何にこれ、素晴らしいじゃんと。

なんていうのか、それはそれでうまく言えないんだけれど。

どんなに作品の作者が専制的な支配を試みても、作品はその支配から反乱をおこし覆す。

ま、そんな難しいことじゃないのかもしれない。

ええと、つまりはこういうこと。

空を飛べるのって、素晴らしいよね。

なんで、そんなふうに思うようになったかというと。

わたしが、空を飛べるようになったからだ。

メーヴェに乗る、ナウシカみたいに。

なんでかというと。

わたしはある日目覚めると、飛行機になっていたの。

ある日目覚めたら、毒虫になっていたグレゴール・ザムザみたいに。

いや、少し違うかもしれないけれど。

わたしは、飛行機になって空を飛べるようになった。

つまりは、そういうこと。


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