平穏な日々 #21
九月十四日
修学旅行が終わった。
修学旅行先は定番の京都と奈良だったが、薫は何もかもが珍しいというようにはしゃいでいた。僕だって初めてだ。
片桐さんは毎晩、どこかへ電話をしていた。楽しそうに話していた。彼女の決断がどうだったのかはその電話での笑顔で察しがついた。多分、許婚に電話していたのだろう。彼女が電話しているときの表情は、村上や菅野さんと同じような、恋をしているとでもいったような表情だった。でも、片桐さんは僕には何も言ってきていない。
団体行動や自由行動の時間も、周囲の状況確認をしてリスクが無いかどうかを見ていた。
薫はずっと一緒に行動していたから、僕が何をしているのかや、何を考えているのかを薄々感づいていたみたいだ。
修学旅行先は、当然のように観光地で人が大勢いたので、何回もあのカフェテリアでのことを思い出した。いつもの奴が来た。そしてその度に脂汗を額ににじませ、何度も吐いた。そして、いつも無意識のうちに脱出経路や周囲の人間が武器を持っていないかをチェックしていることに気がついて、その度に嫌悪感に襲われ、そして吐いた。
薫はそんな僕に優しくしてくれた。吐く度に背中をさすってくれた。いつも胃液しか出なかった。いつもの、胃を直接掴まれているようなそんな気分の悪さが、彼女の手でいつも和らいでいった。魔法の手かもしれないと、何度か本気で考えた。
最終日の夜(昨夜だ)、薫に呼び出された。指定された場所に着くと、彼女は人が来ない、しかも他から見えないような場所へ連れて行った。
また何かわがままを言うのだろうか。座って、ぼんやりとそんなことを考えていた。そんなときに、薫が思いがけない行動に出た。
おもむろに僕を抱きしめてきた。びっくりして彼女を突き放そうとしたが、なぜか前にされたときと同じように、力が入らなかった。
「まだつらいのね。またつらい思いをしているのね? 前も言ったでしょ? 私の前では我慢しなくても良いの。いつでもこうしてあげるって言ったでしょ? 私には甘えていいのよ」
彼女はこう言って強く抱きしめてきた。彼女の甘い匂いを嗅ぎながら、彼女の柔らかい胸に顔をうずめたまま動くことができなかった。前に感じたように、永遠にこの時間が続いて欲しいと、なぜかそう思っていた。そして彼女の腰に手を回し抱きしめていた。
長い時間、彼女と抱き合っていた。ふと薫は抱きしめる力を弱めて、優しく抱きしめたまま僕を見つめてこう言った。
「あなたはやっぱり優しくて、繊細なのよ。折れてしまいそうなくらいに。自分では否定するかもしれないけれど、初めて会ったときからそうだったわ。私はあなたを癒してあげたいの。だから、もっと強く抱いていいのよ」
何も言葉が出てこなかった。ただ薫の甘く芳しい匂いに包まれたまま抱きしめられていたかった。抱きしめていたかった。そして薫の言うとおりに彼女を強く抱きしめた。
そのとき僕は幸福だった。
それは薫に恋をしているっていうことなのだろうか?
九月二十五日
今日も平穏な一日を送った。このところいつも薫が朝食から昼食まで用意をしてくれる。正直言って嬉しかった。こんな日々がいつまでも続くと良いのに。そう本気で思った。いつもの奴はまた鳴りを潜めている。
何だか薫と付き合っているようで、それを村上たちに冷やかされるたびに、なんだか恥ずかしくなった。
でも、そんな平和がいつまでも続くわけが無いんだ。




