平穏な日々 #20
八月一日
何か玄関の方でごそごそとした気配がしている。でも悪意は感じられなかった。猫か何かがいるのかと思った。このまま眠り続けることにした。・・・部屋の中に何か良い匂いが漂い始めた。わけがわからず、眠りの中から這い出すことにした。どうやって部屋に入ったのか、薫がキッチンで朝食の支度をしていた。しかもエプロンをつけて。
「???」
脳はまだ活動していない。
「起きたか? 朝食はできておるぞ。顔を洗ってこい。わらわと一緒に朝食を摂るのじゃ。そして、海へ行くぞ。良いな?」
何も言えずに顔を洗い、卓袱台を前にした。どうやって焼いたのか鯵の開きと玉子焼き、それにご飯と味噌汁。ここには炊飯器も調理器具も無いんだが?
「なあ、薫。どうやって用意したんだ? ここには炊飯器も魚を焼く網も、ましてやフライパンなんかも無いのに?」
「決まっているであろう? 全部持ってきたのじゃ。重たかったぞ」
キッチンを見たら、炊飯器やなべとかの調理器具が置いてあった。母屋から持ってきたのか? ばばあに怒られるぞ。部屋に入ってきたのは合鍵を見つけたからだな。
「母屋にあったのを持ってきたのか? 後でばばあに怒られるぞ」
そう言ったが、薫は平然とこう言った。
「全部買い揃えたのじゃ」
また何も言えなくなった。それでも、気を取り直して薫の作ってくれた朝食に手を伸ばした。美味しかった。
「ごちそうさま」
「お粗末さまでした」
時代劇調から一転して、しおらしい口調になった。相変わらず面白い奴だ。
「で、海へ行きたいって言っていたか?」
「連れて行ってくれ」
暑いのに。面倒くさい。バイクで行くのは良いけどアスファルトの照り返しが結構熱くてきついんだよな。それに渋滞しているし。電車には乗りたくないしな。
「ね、お願い。またバイクで海に連れて行って?」
可愛らしい口調で、そうお願いしてきた。以前と同じ、あの口調で。薫の綺麗な顔を見てドキドキしてしまった。仕方ないか。そうお願いされると弱いんだ。
「じゃあ、行くか」
薫はとても喜んだ。何だかもう水着とか用意は済んでいるようだ。気が早すぎないか?
「着替えるからあっちに行っていろ」
そう言って薫を追い出した。そして体中に刻まれている訓練の跡を隠すために長袖の白いボタンダウンのシャツに袖を通し、サンドベージュのチノクロスパンツを履いた。
訓練でできた傷だけじゃない。あの爆発の傷跡も隠したかった。玲子先生に話したように。誰にも見られたくなかった。誰にも知られたくなかった。だからいつも、体育の授業でも、夏服になってからも、寝るときでも、襟が付いている長袖のシャツと長ズボンで過ごしていた。いくら暑くても。もちろん、今年も水泳の授業はさぼっている。
そしてバイクに乗って、海へと向かった。予想したよりも渋滞はひどくなくて、すり抜けもできたから、風を感じることができて多少ましだった。それでも去年初めて海を目指したときのように、熱風が足元からも、正面からも吹いてきた。
海へ着いた。海の家に入り、かき氷を頼んだ。薫はそそくさと更衣室へ向かった。かき氷をぼんやりと口に運びながら彼女を待っていた。
彼女が更衣室から出てきた。彼女は淡いブルーのビキニに同系色のパレオを巻いていた。思わず息を止めて見とれてしまい、かき氷を落としそうになった。彼女は少し恥ずかしそうだったが、とても綺麗だった。
初めて彼女と会ったときのことを思い出した。あの時も、あまりの美しさに目を奪われ、見とれるばかりだった。今も心を奪われたと言っても良いかもしれない。この地球上にこんな美しい生物が存在しているのかと本気で考えるくらいに。
「創は着替えないの?」
「気が向かないからな」
傷があるのを見られたくなかったからそう答えた。もちろん水着なんか持っていない。彼女は何だかがっかりしたような顔でこっちを見てきた。仕方が無いだろ。お前には特にこの傷は見られたくないんだ。
「パラソルとビーチチェアでも借りるか? そのままだと日焼けしちまうぞ」
「うん!」
嬉しそうに見つめてきた。知り合った頃と変わらない、綺麗で邪気の無い笑顔で。
薫は一日中楽しそうだった。そんな彼女を見ているだけで、なぜか幸せな気がした。平穏な日常。つらさも、苦しみもない世界。僕の望んでいるもの。それを彼女が全て持っているような、そんな気がしていた。それが錯覚であることは十分わかってはいたけれど。
彼女は浜辺の視線を一身に集めていた。男たちから、そして女の子たちから。今日は僕がずっと横にいたから、ナンパしようとする奴もいなかった。もっとも、これだけ綺麗なら声を掛けるのにも相当勇気が要るよな。
八月十二日
あれから薫は、毎日僕が眠っている間に勝手に来て、朝食を用意するようになった。嬉しいような嬉しくないような、不思議な気持ちになった。薫の綺麗な、可愛い笑顔、そして彼女の甘く芳しい匂いで毎日起こされるのも悪くは無かった。でも正直なところ、寝顔を見られていると思うと恥ずかしかった。
今、夢を見ている。自分でもこれが夢だとわかっている。毎日同じ夢だ。
あの、思い出したくも無いつらい訓練の日々。
射撃訓練。
狙撃訓練。
その他の訓練。血を吐くくらいにつらい訓練。
仲間を殺している。平然と。冷静に。
仲間に向かってトリガーを引き続けている。
あの、思い出したくも無いカフェテリア。
白いテーブルと椅子。人々のざわめき。
黒い鞄。鞄から出た白い煙。
伏せろという言葉。
強烈な衝撃。鼓膜を破る爆発音。
土埃の臭い。瓦礫の山。
血の臭い。そして死体の山。
ずたずたになった家族の身体。
怪我をして動けなくなった僕。
そして暗闇の底へ、闇の深淵へ突き落とされた。叫んで必死に手を伸ばした。針の先ほどに見えた光の方へ。誰かの手が僕の手を掴んだ。手を握っている。暖かい手。柔らかい手。そして光の方へ引き上げられ・・・・・。
・・・・・。布団の近くで何かが動く気配がした。・・・。甘くて芳しい、薫の良い匂いがする。また薫か。今度は何をしているんだ? 熱い水が頬に落ちてきた。そして、何か唇に柔らかいものが押し付けられた気がした。何だ? いたずらをしているらしいな。それでも薫の甘い匂いが気持ちよかった。なぜか安心して、また眠りに落ちていった。
九月二日
夏休みの間に、何回か恭平さんと電話で話し、何回か田代さんと電話で話したり食事をしたりした。そして、村上や菅野さんや片桐さんたちと遊んだ。もちろん薫ともあちこち出かけた。初めて経験する楽しい夏休みだった。いつもの奴が突然やってきては僕を苦しめていったが。
今日は始業式だ。授業は無い。
始業式が終わって、屋上で煙草を吸っていた。村上がやってきて、何かもじもじして何かを言いたそうだ。奴が言い出すまで煙草を吸って待つことにした。
しばらくたってから、村上は思い切ったように話しかけてきた。
「聞いてくれるか?」
「何でも聞くぜ。ただし、金の相談には乗れないぜ」
そう言ったら奴は苦笑いした。
「金の話じゃない。実はな・・・。俺さ、菅野のことが前から好きでさ。・・・夏休みの間にアタックしたんだ。・・・それこそ毎日のように」
「ふうん。で?」
「おいおい、親友の恋の行方を心配してくれないのか?」
心配しているさ。そりゃあな。でも、どこか冷めた気分で聞いていた。
「で、どうだったんだ?」
真っ赤な顔をしていやがる。どうやらうまくいったようだな。
「うまくいったんだな?」
「ああ。でもな、最初っから彼女はお前に気があるようだったし、お前も彼女とデートしていたみたいだから」
だからなんだ?
「気兼ねしたってことか? ずいぶん前に言ったろ? 別に何とも思ってないって」
「そうだったな」
「菅野さんは優しくしてくれるか? 好きだって言ってくれるか?」
意地悪で聞いてみた。照れているのかな、また真っ赤になりやがった。
「ああ、好きだって言ってくれた。それにすごく優しい」
「ああ、今日も暑いなー。お前のせいで余計暑いぜ」
茶化してやった。悪びれずにこんな事言ってきやがった。
「なんだよ。祝福してくれないのか?」
「祝福しているさ。おめでとう。願いが叶ったな」
最初の頃に、お前言っていたろ。好きになってくれる女の子がいないかって。
「ありがとう。お前に言われるのが一番嬉しいぜ」
「? お前、今ありがとうとか言わなかったか?」
「? 言ったが?」
「初めて言われた気がする」
奴は不満そうに、お前はほんとにひどい奴だな、とか言っているようだ。だけど、それを無視して、村上にあの菅野さんみたいな可愛い彼女ができて良かったと、心から思っていた。
九月七日
村上たちは本当に上手くいっているようだ。教室でも、恥ずかしげも無くいちゃついていやがる。菅野さんも楽しそうだ。恋をするっていうのも良いものなのかもしれないな、彼らを見ていたらそう思えた。僕には必要の無いものだけれど。
何気なく片桐さんを見たら、目が合ったのに、なぜか悲しそうな、寂しそうな複雑な表情をした。
その夜、一本の電話がかかってきた。
「恭平だ。相変わらず元気そうだね」
「恭平さんも忙しそうですね。休まないんですか?」
しばらく僕らは学校のことや世間話をした。
「ところで恭平さん。今日は世間話がしたくて電話してきたのではないでしょう?」
「相変わらず鋭いな。さすがは私の友人だな」
ふざけたような話し方だけれど、かなりまじめな話のようだ。
「茶化すのは無しにしましょう。恭平さん。由紀さんのことでしょう?」
「そうだ。娘は夏休みの間中、ずっと悩んでいたそうだ。例の許婚と君のことでな。で、どうやら彼女なりの決断をしたらしい」
やっぱり決心したか。今日のあの複雑な表情を思い出した。
「ただ、どう決断したのかは私も知らんのだ。君に何か酷いことを言うかも知れん。由紀の父親として先に謝っておこうと思ってな」
「気が早いですね。彼女が何も言ってきていないのに」
本当に気が早い。
「実は明後日からモスクワに長期で出張になるのだよ。かなりのハードスケジュールになるだろう。だからな、友人である君にはそのことも含めて伝えたかったのだ」
「ありがとうございます。とても嬉しいです」
僕みたいな人間を気に掛けてくれるなんて。本当に嬉しい。
「あの子がどう決断しようと、卒業までは転校はさせん。だから、どんな結果であれ娘のことをよろしく頼む。たとえ友人ということになっても」
「わかっていますよ。ところで恭平さん」
「何かね?」
「お気をつけて。ウォツカはほどほどにしてくださいね。おっと、余計なお世話でしたね」
「いや、気に掛けてくれてありがとう。土産を楽しみにしていてくれ」
僕らは最後に笑ってそう言って電話を切った。何か寂しそうな声が気になった。




