平穏な日々 #18
七月一日
あれから片桐さんの身には何も起こっていない。もっともSPを連れての送迎付きだ。送迎経路に爆弾を仕掛けるとかしない限りはとりあえず大丈夫だろう。
まあ、暴力団がテロリストみたいな真似をするとは思えないが。せいぜい銃を乱射する程度だろう。それに彼らは損得で動くことが多い。そうじゃないときは義理か面子だ。彼女の父親が手を打ったというからには義理の方から手を回したか、経済的な部分で彼らの得になるように動いたかのどちらかだろう。両方かもしれない。いずれにせよ彼らの面子は保たれているだろう。そう思っていた。
片桐さんが不思議そうな顔をしてやってきた。
「御堂君。昨日お父様が、創君は元気か?って聞いてきたわ。もちろん元気よ、って答えたんだけど、お父様ったら、あなたは自分の大事な友人だから粗相のないようになんて言うのよ。いったいあの晩、二人で何を話したの?」
「君のお父さんが言わないのなら僕も言えないな。何しろ君のお父さんは大事な友人の一人だからね」
彼女は目を丸くして言った。
「あのお父様と友人になれるなんて、あなた、どうかしているわ」
「そう思うのは君がお父さんのことを良く知らないか、でなければ誤解しているからだよ。もしかしたら、僕のことを誤解しているのかもね」
恭平さんのように、いたずらっぽく笑ってそう言った。気分はそう悪くなかった。
七月三日
このところ薫と一緒にいることが多い。なぜだか薫がくっついてくるのだ。邪険にもできず、昼飯も彼女を交えて村上と食べることが多い。梅雨時だから屋上に行って煙草を吸うこともできず、少しつまらなかった。菅野さんと片桐さんはいつも少し硬い表情をしていた。いつもの奴は鳴りを潜めている。
今日も薫と下校することになった。このところ薫が命令口調で一緒に帰ろうといってくるのだ。僕らは傘を差して、会話らしい会話もなく道を歩いていた。
気がつくと、何十メートルか先に見覚えのある黒のセルシオが停まっていた。何があっても良いように心の準備をした。薫に危害が及ばないように、周囲の状況を確認した。そしていつものように、次に起こりうることを予測し、どう行動するかを考えた。
セルシオの後部座席から、見覚えのある男が一人だけ降りてきた。その男は、まるで僕が友人であるかのように気安く話しかけてきた。
「よう。久しぶりだな、坊主。元気そうで何よりだ。今日は違う女の子を連れているのか? 俺もお前くらいの頃はいろんな女と付き合ったぜ」
「・・・・・」
「そう警戒するなって。片桐由紀の件は上からの命令で俺たちは手を引くことになった。お前も彼女の親父から聞いているだろう? 今日は別の用件なんだよ」
「・・・薫、先に帰っていろ」
嫌がる薫を無理やり先に帰宅させた。危険な目には絶対に会わせたくない。そして僕がどんな人間なのかは知って欲しくない。
「・・・で、用事って何ですか?」
「聞きたいこととかいろいろ有ってな。・・・良かったらゆっくり話ができるところに行かないか? ほら、丸腰だぜ」
彼は上着の前を開け、さらにたくし上げた状態でその場でくるりと一回転した。武器らしい膨らみはどこにもなかった。
「嫌だとは言えないようですね」
警戒を解かずに言った。
「物分かりが良くて助かるぜ。まあ、乗れよ。別に拉致なんかしねぇからよ」
男はにやっと笑って言った。仕方なく彼と一緒にセルシオに乗り込むことにした。そして彼は運転手の若い男に、近くにある少し大きめの公園の名前を告げそこへ向かうように指示を出した。彼は車の中で話しかけてきた。
「この前は見事にしてやられたぜ。惚れ惚れするくらいだった。どこであんなことを覚えたんだ?」
「言う必要はないと思いますが」
気分が悪い。
「そんなにつれなくするなよ。俺とお前はな、同じ匂いがするんだ。俺には判るんだ」
どういう意味だ?
「でな、どっちが上か興味が出てきてな、もう、組織の上から何を言われようと止められねぇんだよ」
「どっちが上か?って? どういう意味ですか?」
「言葉どおりさ。どっちが強いのか。俺らの世界じゃな、坊主、力が強いか頭が良いかのどちらかでねぇと上には行けねぇのさ。もっとも今じゃ頭が良いほうが力を持ってるがな」
「・・・大変な世界ですね」
「でな、俺は力でのし上がってきた。だから、同じ匂いのするお前のような人間と関わったら、必ずけりをつけるようにしてるんだ。ちなみに、今まで負けたことはないぜ」
力比べかよ。なんて言って良いのかわからないな。それにしても気分が悪い。
そんな話をしていると、運転席から、着きましたと声がかかった。男は嬉しそうに言った。
「さあ、降りようぜ。ショー・タイムだ」
「・・・」
促されるまま車を降り、彼の後を着いて行った。少し開けたところまで歩いた。芝生で青い、普段なら家族連れでにぎわう場所。嫌な記憶がまた戻ってきた。胃の痛みと吐き気は我慢できている。
彼はまた嬉しそうにこう言った。
「で、得物は何にする? チャカか? ヤッパか? それとも素手か? 何でも良いぜ」
「任せますよ」
ため息をついて、仕方なくそう答えた。
「じゃあ素手な。どっちも生憎と車に置いてきちまったからな。でな、ルールは簡単だ。相手が参ったと言ったらそこで終わり。骨が折れようが血を吐こうが、参ったと言うまでは終わりじゃない。いいな? 適当なところで参ったって言えよ? でないと殺しちまうぜ?」
「わかりました」
「じゃあ行くぜ」
彼は車を降りるときに上着を脱いでいた。僕も制服の上着は車の中においてきた。雨がシャツにしみて気持ち悪かった。二人とも全身がずぶ濡れになっていた。
勝負は一瞬で終わっていた。彼を地面にうつぶせにした状態で後ろ手をねじり上げてひざで押さえ込んで、空いている左手で拳を作り、人間の急所の一つである鼻柱を狙える位置につけていた。すぐに彼は言った。
「参った」
すぐに彼を離さなかった。彼はまた言った。
「参った。俺の負けだ。もう離してくれ。さっき言ったろ? 参ったといった時点で終わりだって」
「信用できませんね。あなたたちは嘘を平気でつくらしいから」
「嘘じゃねぇって。これだけ力に差があったら、どうやったってお前には勝てっこねぇ」
「その言葉を信用しましょう。でも、嘘だったら今度は本気でやりますよ」
彼はぎょっとした。彼の顔が、見る見るうちに真っ青になっていくのがわかった。実際、力なんか使ってはいなかった。訓練所でやったことのほんの初歩。CQCの初級レヴェルだ。 まあ、そんなことはどうでもいい。思い出さないようにしよう。そして彼を離した。
彼の服と顔に泥が付いていた。僕はただ全身ずぶ濡れだった。下着にまで雨がしみている。
「お互いに服がひどい状態だな。ふぇっくしょい!」
彼はくしゃみをした。なぜか彼のことが憎めなかった。どこかしら愛嬌がある。
「僕の部屋でシャワーを浴びて着替えたらどうです?」
思わずそう言っていた。
「そっかー? いいのかー? わりいなー」
自分が負けているのに、勝負がついて清々しいような、そんな表情をしている彼を見て、思わず苦笑してしまった。車に戻る途中、他愛もない話をした。
「お前、そんなに俺のこと見て笑うなよ」
「笑っているわけじゃないですよ」
「じゃあ、なんだよ」
「面白かっただけですよ」
「同じじゃねぇか」
確かに彼は面白かった。暴力団の人間とはとても思えなかった。そして彼の車で僕の部屋へ向かった。気分の悪さは治まっていた。
帰ったら、薫が部屋の中で待っていた。母屋に帰れといったが、彼女は頑として聞き入れなかった。仕方ないので、とりあえず彼に新しい下着や服を貸し、シャワーを浴びさせた。僕は服を全部脱いでタオルで拭くだけにした。この部屋は六畳一間とはいえ、風呂やキッチンは六畳間から仕切れるようになっていたので、薫に裸は覗かれずに済んだ。
「何か飲みますか? と言ってもコーヒーくらいしかないですけれど」
「おお、コーヒーか。ありがたいねぇ」
コーヒーを入れ、カップを渡した。彼はそれをとても美味そうに飲み、ホッと息を吐いた。
「名乗るのが遅れたな。俺は田代、田代明弘だ」
「御堂創です」
「良い名だな、うん。ところで、お前、一人暮らしなのか?」
「ええ、去年家族を亡くしました」
薫も知らなかったのだろうか。二人で驚いていた。
「で、あんな技をどこで覚えたんだ? 教えてくれよ」
「今は言いたくないです。今度話します」
薫がいたので話したくなかった。田代さんはどうやら勘が良いらしく、わかったように頷いた。
「よし、それは今度聞こう。で、この女の子はお前のこれか?」
そう言って彼は小指を立てた。
「そういうのじゃないですよ。このアパートの大家のところにホームステイしてるんです。留学生なんですよ、彼女は。で、大家の家はすぐ裏なんです」
「ふーん、そうか。おい、ねぇちゃん、頑張れよ。意味わかるよな?」
薫は頬を赤くして頷いているけれど、何を頑張るんだ? この人もわけのわからないことを言うなぁ。でも、彼女があの光景を見なくて良かった。大事な薫に見られなくて良かった。僕はただの戦闘マシーンなんだ。ただの人殺しだ。今回は殺さなくて済んで良かった。そして、前回も。
コーヒーを飲み終わったんだろう。彼はおもむろに立ち上がって服とコーヒーの礼を言い、近いうちにまた会おうと言った。そして、また面白いことを言った。
「今日から俺たちは友達だからな。何かあったら言ってこい。俺もお前に何でも言うから」
田代さんはそう言って携帯電話の番号を名刺に書き、投げてきた。そして僕の電話番号を聞いてきた。
こうして暴力団員(かなり地位の高い)の友人ができた。
彼が帰ってから、薫が真剣な顔で聞いてきた。
「家族を亡くしたとは、どんな意味じゃ?」
何だよ、さっきは意味もわからず驚いていたのか?
「父と母と兄貴は去年死んだんだ。そういう意味さ」
「なぜ死んだのじゃ?」
「爆弾テロに遭ったんだ」
いつもの奴がやって来た。あの忌まわしい記憶が。強烈な胃の痛みと猛烈な吐き気。トイレへ駆け込んで吐いた。苦しい。とてもつらい。そして悲しい。
薫はびっくりしたように僕の様子を見ていた。大丈夫かと聞かれ、大丈夫だと答えた。しばらく彼女は黙っていたが、ポツリと言葉を漏らした。
「・・・いつのことじゃ?」
「君が帰ってから半年位してかな? 去年の夏だよ」
「そうか・・・」
彼女は下を向いてしまった。涙を流しているらしい。時折、膝の上できちんと揃えられた彼女の手の上に水滴が落ちた。彼女の口から嗚咽が漏れている。僕が流せなかった涙を、彼女は僕に代わって流してくれていた。
しばらくしてから、彼女は真っ赤な目をしたまま見つめてきた。そしておもむろに僕を抱きしめた。びっくりして彼女を突き放そうとしたが、なぜか力が入らなかった。
「つらかったのじゃな? つらいのじゃな? でもわらわの前では我慢しなくてもよいのじゃぞ。泣きたければ泣くがよい。ずっとこうしていてやるからな」
彼女はこう言ってさらに強く抱きしめてきた。彼女の甘い匂いを嗅ぎながら、彼女の柔らかい胸に顔を埋めたまま動くことができなかった。泣いてもいいと言われたけれど、泣くことができなかった。そのかわり、永遠にこの時間が続いて欲しいと、なぜだかそう思っていた。
「お前のお父上や母上様はわらわにとても良くしてくれた。お前の兄様も本当の妹のように可愛がってくれた。母上様にはいろいろなことを教えてもらった。お前の好きな食べ物。得意な教科。苦手な教科。好みの色や癖。それにお前が悩んでいたことも」
また僕の家族を思い出したのだろう。つむじの辺りに熱い水が落ちてきていた。彼女は泣いてくれていた。僕が失っている感情を、彼女が補ってくれている。泣くことのできない僕の代わりに薫が泣いてくれている。なぜだかそんな気がした。
そしていつの間にか彼女の腰に手を回し、抱き合うような姿勢をとっていた。
長い時間、彼女と抱き合っていたような気がする。ようやく薫は抱きしめる力を弱めて、優しく抱きしめたまま僕を見つめてこう言った。
「お前は本当に、強くて、優しくて、そして折れてしまいそうなくらいに繊細なのじゃな。以前と少しも変わっておらぬ。わらわはお前に護って欲しい。しかし、わらわはお前を癒してあげたいのじゃ。だから・・・。だから、いつでもこうして抱きしめてやるぞ」
繊細なんかじゃない。そう言いたかったが何も言葉が出てこなかった。ただ薫の甘く芳しい匂いに包まれたまま抱きしめられていたかった。抱きしめていたかった。
その甘い時間は、じじいからの無粋な電話で終わってしまった。そして、薫の時代劇に出てくるお姫様のような口調を思い出して少し笑った。
あの薫が、僕と家族が大事にしていた薫が、慰めてくれた。抱きしめてくれた。あの甘く芳しい匂いとともに。




