平穏な日々 #13
五月四日
今日は菅野さんと約束がある。一時に図書館で待ち合わせ。しかも勉強をしようと言ってきている。勉強ってどうやってするんだろう? 勉強らしい勉強なんてしたことが無いからわからなかった。
着替え終わって煙草を吸っていると、部屋のドアがノックされた。
出てみるとそこには薫が立っていた。
「どうしたの?」
何かあったのかと思って聞いてみた。
「済まないが、街を案内してくれないか。知っての通り私は方向音痴でしかもこの土地には不案内だ。嫌かもしれないが付き合ってはくれまいか」
確かに右も左もわからない土地で、しかもあのじじいたちと一緒じゃ気も滅入るだろう。
「悪いんだけれど、今日は先約があって案内できないんだ。明日なら良いよ」
「先約? 先約ってどんな意味だ?」
「先に予約が入っていることさ、わかる?」
「ああ、なるほど。わかった。明日なら良いのだな。では明日の朝にまた来るとしよう」
薫は、相変わらず不思議な口調で言って母屋のほうに戻って行った。
一時ちょうどに図書館の前に着いた。菅野さんが逆方向からやってくるのが見えた。僕は軽く手を振って、いることを示した。
「やあ」
「悪いわね。無理言ってつき合わせて」
「いや、気にしてないよ。図書館は僕も好きだから」
菅野さんに言ったとおり図書館の雰囲気が気に入っていた。本がたくさんあって、静かなところ。深い海の底か、月面にでもいるような静けさ。どの図書館にいるときでも、そんな静けさが好きだった。
「で、勉強って? 何するの?」
「基本的に教科書の予習と復習をするの」
「ふうん。勉強ってそうやるんだ」
思わず言ってしまった。
「え、勉強したこと無いの?」
「菅野さんの言うやり方ではしたこと無いな。気が向いたときに教科書を読むくらいかな」
「信じられないわ」
同感だ。
「もし良かったら横で見ていても良いかな? どんな感じにやるのか見てみたい」
純粋な好奇心で言った。
「え、ええ。い、いいわよ。でも、邪魔はしないでね」
菅野さんは顔を赤くしながらそう言った。何で顔を赤くしたんだろう?
そして、図書館の中にある机が並んだ部屋に並んで座った。僕は何の用意もしていなかったので、さっき言ったとおりに彼女の勉強する姿を見ていた。彼女は顔を赤くしながら、それでも懸命に教科書を読み、アンダーラインを引き、練習問題を解いたりしていた。古文・英語・数学・物理と進めていくつもりらしかった。
彼女の勉強の様子を見るのにも途中で飽きてしまい、だんだん眠くなってきてしまった。しかたないので、眠気覚ましに図書館にある本を読むことにした。書架をまわり、西洋哲学史と経済学概論を持ってきた。
「御堂君て、いつもそんなに難しい本読んでいるの?」
「一緒に勉強しようにも教科書を持ってきていないからね。内容が理解できるかはともかく、暇つぶしにはなるさ」
それから、僕は本を読み、彼女は勉強を続けた。そして閉館のアナウンスと音楽が流れ、帰ることにした。
「今日は付き合ってくれてどうもありがとう。おかげで勉強がはかどったわ」
「それは何より。僕も勉強の仕方を教えてもらえてよかったよ」
菅野さんは、何故か嬉しそうに笑った。
別れ際に、突然昨日片桐さんに聞かれたことを菅野さんにも聞かれた。
「ところで、あの薫さんとはどんな関係なの? 外国で付き合っていたって聞いたわよ」
やれやれ、薫のことは女の子も気になるんだな。
「隣に住んでいたからな。近所づきあいさ。結構物騒な場所だったから、彼女が出かけるときはボディ・ガードで付いていっていたんだ」
「本当?」
「嘘を言っても僕の得にはならないさ」
片桐さんのときと同じように嘘をついた。でも菅野さんはなぜか嬉しそうな顔をした。
彼女と別れた後、煙草を吸いながら部屋に戻った。
五月五日
まだ眠っているときに何かドアのほうから音がした。気配を感じたといったほうが良いだろう。その音は小さくて良く聞こえなかったからだ。
ドアをノックしている。時計を見た。朝の七時。ずいぶん早い来客だな。
仕方なく起きて、蒲団をあわてて押入れに入れて服を着た。そうしてからドアを開けると、薫が何か皿を持って立っていた。
「ずいぶん早いな。まだ七時だぜ。こんなに早くからじゃ案内するにも店も開いてない」
薫は僕の目がまだ眠っているのを見て少しだけ笑ってこう言った。
「眠っているところを起こしてすまない。一緒に朝食をとろうと思ってな。早すぎたか?」
「いや、別に気にしてないさ」
コーヒーを沸かし、その間に顔を洗った。
薫は、どうやら朝食を母屋で用意してきたらしい。フレンチトーストとベーコン、スクランブルエッグ、それにくし型に切ったオレンジ。あの大家のばばあにこんな洒落た物は作れないと思ったから、ほぼ確実に薫が作ったのだろう。大家夫婦と朝食を一緒にしたときは、いつも決まって味噌汁と納豆、焼き海苔だったからな。ちなみに納豆は嫌いだ。
「ずいぶんと美味しそうだな。薫が作ったんだろ?」
そう言うと、薫は顔を赤くして頷いた。
「味の保証はできんが、たまにはこういう朝食も良いのではないかと思ってな」
「いつもはどんなメニュー?」
「毎朝、和食だったぞ。味噌汁と焼き海苔、あとは目玉焼きとか玉子焼きがあった。父上も喜んで食べておられた」
相変わらず言葉遣いが不思議だ。文語調になったり、時代劇風になったり、現代風になったり。それに、いつも男言葉を使う。
まあ、いいか。せっかくだから冷める前に頂くとしよう。
薫の手作りの朝食に手をつけた。予想外に(そう言ったら怒られるだろうが)美味しかった。
「うん、美味しいよ」
「そうか? それはよかった。用意した甲斐があるというものだ」
「でも、なんで一緒に食べようと思ったの?」
それが不思議だった。
「以前はよく一緒に食べていたではないか。もう忘れたのか?」
そう言えばそうだ。あのときはフレンチ・スタイルが多くて、バゲットかクロワッサンにカフェ・オ・レ程度だったけれど。
そして、頭の中で思い出したくない光景がフラッシュ・バックした。
白昼のカフェテリア。白い煙。爆発音。強烈な衝撃波。たくさんの人の悲鳴。うめき声。土埃の臭い。瓦礫の山。血の臭い。そして、死体の山。
「どうした? 顔が真っ青だぞ? 大丈夫か? 私の作った物が悪かったのか?」
今回は胃の痛みと吐き気は来なかったが、脂汗が吹き出ている。それをシャツの袖でぬぐいながら言った。
「いや、何でもない。すこし嫌なことを思い出したんだ。不快な思いをさせてごめん」
「嫌なこととは何だ? 話してはくれぬか?」
「・・・そのうちな」
朝食を終え、まったりとした時間をすごしていた。薫が突然言った。
「海を見に行きたい」
海か。それも良いかもしれない。
「じゃあ、行こうか」
バイクで海へと向かった。
薫は海が珍しいのか、素足で波打ち際を行ったり来たりして波と戯れていた。時々砂浜を覗き込んでは何かに触っていた。彼女はとても美しかった。
そんな彼女を、煙草を吸いながら見ていた。ビールを飲みたかったが、バイクに二人乗りで来ていたので我慢した。絵になる光景を呆けたように見ていた。
いつの間にか彼女は数人の男に取り囲まれていた。美人の宿命とでも言うのだろうか、どうやらナンパされているらしい。
男の一人が彼女の手を掴んだ。おいおい、ナンパでそれはタブーだろう。そんなことを思いながら、煙草をくわえたまま彼ら(四人だった)に近づいた。
「悪いがその子は俺の連れなんだ。手を出すのはやめてくれないか」
優しく言ったんだが、どうやらナメられたらしい。
「引っ込んでな! ガキ!」
「痛い目をみねぇうちに、この姉ちゃんを置いてあっちへ行きな!」
男のうちの誰かが薫の体に触ったのだろう、彼女が悲鳴を上げた
また思い出したくも無い光景がフラッシュ・バックした。
夕方の路地。薫の悲鳴。男たちの荒い息遣い。光るナイフ。薫の悲鳴。護身用のハンドガン。破裂音。飛び出した薬莢。硝煙の臭い。トリガーにかかった僕の指。男たちのうめき声。血の臭い。そして男たちの死体。
知らないうちに彼女のところに走っていた。そして全ては一瞬で終わっていた。
彼らと薫の間に体を割り込ませながら、薫に触っていた男の腕を後ろ手にねじりあげた。その腕から鈍い音がして男は崩れ去った。残りの連中は何が起こっているのか解っておらず、あっけに取られていた。残りの連中の股間を蹴り上げ、前かがみに崩れるところで鳩尾の辺りに拳を叩き込んだ。そして倒れた連中の腕の細いほうの骨にワークブーツの踵を落としていた。鈍い音がした。
四人ともうめき声とも何ともいえない声をあげていた。
ようやく正気に戻り、警察が来るレスポンスタイムを計算した。遠くで見ていたらしい人影が走り去るのが見えたから、もう一一〇番に通報されているだろう。早くて五分。
冷たい声で薫に急いで靴を履くように言った。バイクに戻りエンジンを掛け、ヘルメットを取り、薫にヘルメットを被るように言った。そして彼女の手を掴んで走ってバイクに戻り、ギアをローに入れて現場から逃げ出した。
遠くでパトカーのサイレンが聞こえた。少しアクセルを開けた。
後ろで彼女が何か叫んでいるが、よく聞こえなかった。
「聞こえない! 後で話せ!」
それだけ叫ぶと、薫は黙った。
部屋の中でも、薫はがたがたと震えていた。バイクに乗っている間中も、腰に回された手が震えていたので、よっぽどショックだったに違いない。あの時もそうだった。
牛乳を温め、コーヒーを入れてカフェ・オ・レを作った。カップを差し出すと真っ青な顔でそれを受け取り、何口かすすってからようやく落ち着いたらしい。顔色も元に戻り、震えも止まっている。
「創にはまた助けてもらったな。礼を言うぞ。お前はいつも私を救ってくれる」
「いや、たいしたことじゃない」
搾り出すように言葉を出した。
「どうした? また顔色が悪いぞ? 大丈夫か? 気分でも悪いのか?」
気分は確かに悪い。またあんなことをしてしまうとは。そして、思い出したくない光景が、今日は二つもフラッシュ・バックしてくるとは。
「もう母屋に戻ったほうが良い。じじいどもが心配する」
時計は七時を指していた。今度は胃の痛みと猛烈な吐き気に耐えられなかった。
結局眠ることもできず、そう遠くない昔の出来事を思い出していた。
厳しかった訓練。よく切れるナイフ。重いハンドガン。子供が持つには大きすぎるカービン銃。固定されたターゲット。飛び出してくるターゲット。数百ヤード先のターゲット。そしてCQC。
そして、また考えていた。いつも考えている。
今までにしてきたこと。訓練所で何人も仲間を負傷させ、そして殺したこと。薫を護るために何人も殺したこと。そして家族全員を護れなかったこと。僕は何をしてきたのか。なぜ今、僕一人が平穏で平和な生活をしているのか。何のために生きているのか。僕の存在価値は。僕が生きている意味は。生き残っている意味は。
安息の地はどこにあるのだろう。




