平穏な日々 #12
四月三十日
学校へ行く準備も終えて、のんびりとコーヒーを飲んでいた。
部屋のドアがノックされた。ドアを開けてみると、薫が同じ高校の制服を着て立っていた。よく似合っていた。でも少し驚いた。同じ高校なんて。
「ずいぶん早いな。まだ登校するまでには時間があるぞ」
カップを持ったままだったので、コーヒーを飲みながらそう言った。だが、彼女はそんなことは気にもせずにこう言った。
「私にもコーヒーをくれないか」
別にいいけどさ。仕方なく彼女を部屋に招きいれ、コーヒーを入れた。コーヒー・メーカーで入れた、インスタントより少しましなコーヒー。豆を少し深煎り(フレンチ・ローストくらい)にしてあるので、香りが強くて濃い。でもマシーンで入れたからあまり苦くは無い。
「おいしいな。朝にはこのくらいがちょうどいい」
薫はそう言ってくれた。
「で、何の用だ? 朝っぱらから」
「一緒に登校してくれないか? 場所が良くわからないんだ」
なるほどね。方向音痴なのは相変わらずみたいだな。以前、中東の街中で迷って、泣き出した彼女の顔を思い出した。そして、あの時護身用に持っていたハンドガンの重さを思い出して悲しくなった。胃の痛みと吐き気はやって来なかった。
「いいよ。一緒に行こう。ああ、職員室に先に行くならそろそろ出たほうがいいかもな」
「うむ、よろしく頼む」
相変わらず硬い言葉遣いだな。面白い奴だ。
学校へ着いて、職員室に彼女を連れて行った。職員室の入口で別れ、教室に向かった。
席についてしばらくすると、教室がざわつき始めた。
「留学生が来るんだって」
「俺たちのクラスらしいぞ」
おいおい、転校生の次は留学生も同じクラスかよ。どんなクラス割なんだ? 確かに他のクラスより人数は少ないけれどさ。
そして、薫が担任と一緒に現れた。教室が一気に騒々しくなった。そりゃ薫は美人だからな。騒ぎたくなる男子の気持ちも良くわかるぞ。僕も初めて会ったときに言葉を失ったくらいだからな。心を掴んで離さないと思うくらいに綺麗だから。
薫は僕を見つけると、こちらに向かって嬉しそうに笑った。
「薫・マリア・リューリクだ。よろしく頼む。薫と呼んでくれ」
相変わらずの男言葉で自己紹介した。あっという間に質問タイムになった。父親がロシア(今はモスクワにいるらしい)で銀行家をやっている(以前は外交官だった)こと。母親は日本人であること。そして僕と知り合いであること。僕と同じ敷地に住んでいることまで白状させられていた。
やれやれ。皆、こういうのが好きなんだな。そう思いながら、何の気もなしに菅野さんと片桐さんの顔を見た。そしたら二人とも、睨んでいるような何とも言えない硬い表情で薫を見ていた。
矛先はこちらにも向かってきた。目の色を変えた男どもに囲まれ、矢継ぎ早に質問を浴びせかけてきた。一斉に質問されたので、聞こえた質問にだけ答えた。
「僕の住んでいるアパートの大家のところがステイ先なんだ」
「外国に居たときに隣に住んでいた」
それだけ答えた。それ以上のことが聞けなかったので諦めたのか、僕と話すのが嫌になったのか、すぐに釈放された。
昼休み。相変わらず一人で屋上にいた。そろそろ奴が来るだろうと思っていた。案の定、村上がやってきて、いつもの台詞を言った。
「おい、御堂。お前、あの薫さんと付き合ってたんだって?」
「近所づきあいな。それ以上の関係じゃなかったぞ。ボディ・ガードはさせられたが」
「うらやましいなぁ。あんな綺麗な子と知り合いだなんてよ。で、どう思う?」
予想通りの事を聞く。そういう話題にはうんざりだ。どうでもいいじゃないか。
「別に何も」
あの時、僕がどんなにつらく苦しんでいるとしても、どんな犠牲を周囲に強いることになっても彼女をどうしても護りたかったこと。そして護ったことは話したく無い。
「やれやれ、お前らしい返事だな。彼女、あっという間に学校中の話題になってるぜ。何しろスタイルが良くて、しかもハーフで美人ときてる。確実に学校一だろう」
「そうだろうな」
「狙うんなら今のうちだぜ。放っておくと誰かに持っていかれちまうぜ。いいのかよ?」
また同じ台詞だ。
やれやれ。
五月三日
相変わらず部屋に家財道具はほとんど無い。目立つのは、卓袱台と、コーヒー・メーカー程度だ。あと、壁にもたれるときに使うクッション(この前買った)。食器や調理器具もほとんど無い。テレビも無い。そんなわけで、部屋の掃除はすぐに終わってしまう。キッチンだって、相変わらずお湯を沸かす程度にしか使っていないから、掃除も簡単なもんだ。
今日は部屋を掃除した。掃除が終わり、煙草を吸いながらコーヒーを飲んでいると、電話が鳴った。
「もしもし」
「あ、御堂君? 私、片桐よ」
「やあ」
片桐さんが何の用だろう?
「悪いんだけど、買い物に付き合って欲しいのよ。一時に駅前でいいかしら?」
時計を見た。ちょうど十二時だった。今日は何もする予定は無かった。
「別に構わないよ。じゃあ一時に駅前にある時計の前で」
「ありがとう。じゃあ、後でね」
シャワーを浴びて埃を落とし、出かけるために着替えた。財布をポケットに入れようとしたら、また電話が鳴った。
「もしもし」
「御堂君? 菅野です」
「やあ、どうしたの? 何か用?」
「ええとね。一緒に勉強してくれないかなと思って。二時に図書館で待ち合わせはどう?」
今日はずいぶんと人気があるな。
「悪いが今日は予定があるんだ。明日とかなら構わないけれど」
「じゃあ、明日でいい? 一時に図書館でもいいかしら?」
「構わないよ。じゃあ、明日の一時に」
「ありがとう」
そう言って電話は切れた。そして片桐さんとの待ち合わせ場所に急いだ。
一時少し前に駅前に着いた。片桐さんが待っていた。
「ごめん。どうやら待たせたようだね」
「ううん。私も今着いたところなの」
「で、買い物って?」
どうせ荷物もちなんだろうけれど、あまり重たいものはいやだからなぁ。
「洋服を買いたいの」
「? 洋服だったら、女の子の友達のほうがいいんじゃないの?」
自慢じゃないが、そういうセンスは持ち合わせていないぞ。今だって少しよれたパーカーにカーゴパンツ、靴はワークブーツなんていう組み合わせだ。
「いいのよ。あなたで」
よくわからないな。まあ本人がいいというなら別にいいか。そんなにたくさんは買わないだろうし。
その考えは甘かった。とにかく買う量が半端じゃなく多い。そして、まわった店の数もとんでもなく多かった。両手に洋服の入った袋をぶら下げ、いつの間にかへとへとになっていた。楽しくなんか無かった。洋服を買うのがこんなに大変だなんて初めて知った。
「こんなものかしら?」
ようやく片桐さんは買い物を終わらせるつもりになったようだ。腕時計で時間を確認してみた。六時三十分。五時間以上買い物をしていたのか。それにしてもすごい量だ。
「おなかすいたわね。御堂君はどう? どこかで食事でもしない? 今日付き合ってくれたお礼におごるわよ」
「それはありがたいな。いずれにしても少し休みたい」
「何よ、だらしないわね」
彼女はくすくす笑いながら言った。
「で、何か希望はある?」
「任せるよ」
口に入るものなら何でも良かった。別に食事にこだわりがあるわけでもなかったから、普段から弁当屋の弁当とかジャンクフードを食べている。どこに連れて行かれても別に構わなかった。
連れて行かれた先はフレンチ・レストランだった。
「ドレス・コードに引っかかるんじゃないの?」
心配になって聞いてみた。高級な店だとカジュアルな服装やネクタイをしていない客の入店を断わるからだ。服装に関するルールのことをドレス・コードというそうだ。
「大丈夫よ。そんな高級な店じゃないから」
片桐さんはこともなげに言った。
店の支配人は僕の服装を見て顔をしかめた(アクセサリーもつけていたからスラム街にいるチンピラに見えたのかもしれない)が、席に案内してくれた。
まあ、こんな格好をしているが一応テーブルマナーは心得ているので、楽しく食事ができたと思う。片桐さんはずっと楽しそうに微笑みながら食事をしていた。そんな彼女を見ていると、僕も何だか楽しくなった。
そういえば片桐さんは良い家柄のお嬢さんで、とても裕福な家庭の子供だった。ようやく思い出した。でも、記憶にある片桐さんは高飛車に物を言うようなタイプだった。そのことを言うと、彼女は恥ずかしそうに言った。
「確かにあの頃はそうだったわ。今考えると恥ずかしいわ。でも思い出してくれたのね。嬉しいわ。ありがとう」
「礼を言われることじゃないさ。すっかり忘れていたからね。でも転校してきたとき、よくすぐに僕だってわかったね?」
「言ったでしょ。あなた全然変わってないもの」
やれやれ。僕も成長していると思うんだけどな。
「ところで、あの薫さんとはどんな関係なの? 外国で付き合っていたって聞いたわよ」
突然彼女の目が真剣になったと思ったら。やれやれ、その話題か。
「隣に住んでいたからな。近所づきあいさ。結構物騒な場所だったから、彼女が出かけるときにボディ・ガードで付いていっていただけだよ」
「本当?」
「嘘を言ってもどうにもならないだろう?」
でも、それは嘘だ。彼女と彼女の家族を護りたかった。僕の家族と同じように。
片桐さんはなぜか嬉しそうな顔をした。
食事も終わり店を出ると、彼女は迎えの車が来るから駅前で別れようと言い出した。あのうんざりするほどの量の洋服が入った袋を、もう持たなくても良いことがわかって、少し安心した。
迎えのベントレー(ベントレーを送迎に使う家があるなんてな)に乗り込むときに、片桐さんはこう言った。
「今日は私のわがままに付き合ってくれてありがとう。じゃ、また学校でね」
昔はそんなこと言うような人間じゃなかったな。人間が丸くなったんだな。変なところに少し感心した。




