平穏な日々 #8
二月十四日
冬休みの間も、年が明けてからも、ずっと僕の生活は変わらなかった。くどくどと話すまでも無いくらいに。事件も何も起きなかった。緊張感の無い生活。でも、平和で平穏な生活が続いていた。
ところで、今日はセント・ヴァレンタインズ・デーだ。世間も学校も浮かれているようだ。海外じゃチョコをあげるとか、告白するとかいう習慣は無い。だから、別に気にしていなかった。というよりも知らなかったというほうが正解かもしれない。
珍しく体調を崩した。とは言っても、本当は珍しいことじゃないのかもしれない。朝からずっといつものやつに苦しめられていただけなんだ。今日はアルバイトを休ませてもらった。マスターは困ったような声を出していたが、電話している最中にもあれが襲ってきたので、マスターも心配してくれて、直るまで休んでいて良いということになった。
夕方まで苦しんでいた。あの忌まわしい記憶の数々のフラッシュ・バックと胃の痛み、そして猛烈な吐き気。それが断続的に襲ってきていた。
だんだん治まってきた。水を飲んでから布団に横になろうと思っていた。そんな時にドアがノックされた。ドアを開けると玲子先生が紙袋を両手に提げて立っていた。
「どうしたんですか?」
「どうしたもこうしたもないわよ。何で今日学校を休んだの?」
そう言われてもな。
「例のやつが朝から断続的に来ているんです」
そう言ったら黙ってしまった。
「明日は大丈夫かもしれません。だいぶ治まりましたから」
「そう、じゃあ、これを渡しておくわ」
そう言って、乱暴に両手に提げていた紙袋を置いた。
「何ですか? これ」
「チョコよ、チョコ。見てわからないの」
「?」
「バレンタイン・デーなのよ。今日は」
「どういう意味ですか?」
僕の言葉にきょとんとした顔をしている。
「あ、あのね。日本では今日は、女の子から好きな男の子にチョコをあげて告白してもいいことになっているのよ」
「ばかげた習慣ですね」
「もう! そう言わないの。いくら知らないって言っても相手はそんなこと気にしてないんだからね! 紙袋に入っているのは靴箱とか机とかに入っていた分よ!」
こんなにたくさん、どうしろというんだ? そうだ。良い事を思いついた。
「あのですね、お願いがあるんですが・・・」
そう言ったら、玲子先生は目を輝かせて見つめてきた。何だか照れるな。
「これ、処分してもらっていいですか?」
「え・・・? なんで? いいの?」
「チョコが特別に好きなわけじゃないし、好きでもない女の子からこんなものをもらっても嬉しくも無いですし、はっきり言えば迷惑ですね」
絶句している。そんなに変なことを言っただろうか?
「・・・わかったわ、これは私が責任を持って処分してあげる。その代わりに、一つだけチョコを受け取りなさい」
「は?」
「はい、これ。私からよ。これだけは受け取ってもらうわ。いいわね?」
有無を言わせないな。相変わらず。
「わかりました。玲子先生からもらえるんだったら喜んでもらいますよ」
そう言ってみた。すごく嬉しそうだな。玲子先生は。そしてまた、両手に紙袋を提げて持って帰った。
やれやれ。変な習慣があるものだ。
三月九日
僕の生活は相変わらず平穏だ。仲間を傷つけることも無く、人を殺すことも無く過ぎていった。あの忌まわしい記憶のフラッシュ・バックと胃の痛みと吐き気は、いつも隣にいるけれど。
教室では、あのバレンタイン・デーとやらにチョコレートをもらった男子が、お返しを何にしようかと悩んでいる。ホワイト・デーとやらが今月の十四日(もうすぐだ)にあるとかで、その日にお返しを渡すらしい。
授業の間の休み時間に、隣に座っている男子が声をかけてきた。珍しいこともあるもんだ。こいつとはあのいかがわしい雑誌の時くらいしか話したことは無い。
「おい、御堂。お前はお返しするのが大変だな。ほとんどが本命チョコだったんだろ?で、誰に何を渡すんだ?」
「誰にも渡さないさ。そんなばかげた習慣があるなんて知らなかったし。それに、誰からもらったなんて知らないんだ」
そう言ったら、奴は目を丸くして畳み掛けるようにしてこう言った。
「お前、そんなこと言っていると彼女なんてできないぜ。あんなにたくさんの女の子からチョコをもらっておいて、しかも本命だろ? そのうちに冷たい男って評判が立つぜ? 良いのかよ?」
「どんな評判が立っても構わないさ。別に今のところ恋人が欲しいなんて思ってもいないからな。それに、あのときのチョコは全部先生に処分してもらったから、誰からもらったかは自分では全くわからないんだ」
また目を丸くしている。何だこいつ?
「御堂、お前さ。・・・いくら日本に居なかったからって言っても、変だよ。やっぱ。全部先生に処分してもらったって? あの玲子先生にか?」
「そうだ」
驚いたままだな。何だこいつ?
「じゃあ、あの噂は本当だったんだ・・・」
「何の噂だ?」
「玲子先生が、お前にチョコをあげた女の子全員に、お前が断わっているって伝言して回ったってことさ。知らなかったのか?」
「何だって?」
驚いた。あの人はそんなことして回ったのか。そうか。だから最近、店によく来ている女の子の数が減ったんだな。ありがたいようなありがたくないような不思議な心境だ。まあ、僕自身にとってはありがたいが。
「しかし、本当に変わっているよな。お前。チョコが欲しくても一つももらえない奴なんて、吐いて捨てるほどいるのによ。俺だって彼女がいなきゃ一つも無しだぜ」
「もらえたのなら良いじゃないか」
そう言ったところでチャイムが鳴り、教師が入ってきてその話しは終わりになった。
そうか、この際だから玲子先生に何かお礼をしよう。チョコももらったことだし。




