平穏な日々 #6
十二月一日
あれから玲子先生は何もしてこない。どうやら寒くなって諦めたらしい。ほっとした。
僕の生活は相変わらずで、黙って授業を聞き、休み時間に少し近くの席の連中と話し、昼休みには独りになって音楽を聴きながら屋上でパンを食べ、煙草を吸った。放課後には玲子先生と話したり、アルバイトをしたり、V―MAXに乗って走り回っていた。
玲子先生が諦めたと思って安堵するにはまだ早すぎたらしい。
今日はアルバイトが休みの日だった。バイクで走る気にもなれず、部屋でヴィセンテのCDを聴いていた。彼の流麗なフラメンコ・ギター。それを聴きながら、訓練所でホセの奏でた無骨な、でも聴く者の胸を打つフラメンコ・ギターを思い出していた。
今までにしてきたこと。今までしてきたことの意味。僕だけが生き残ったこと。生き残っている意味。僕自身の存在理由。一体何のためにここにいるのか。そんなことを考えていた。
ドアがノックされている気配がした。ヘッドフォンを外し、ドアを開けた。そこには玲子先生が立っていた。何の用だ?
「えへへー。こんばんはー」
「こんばんは。って、何しに来たんですか?」
「決まっているでしょー。前の続きをするのよ」
は? 前の続き? 何の続き?
「ねぇ、いつまで女の子を玄関先に立たせておくつもり?」
ああ、はいはい。部屋に入れろって言うのね。どうぞどうぞ、何のお構いもできませんが。おい、部屋の中じろじろ見たって何も無いぞ。
そう、部屋の中に家具らしい家具は無い。じじいたちからもらった卓袱台くらいだ。あとはこの前寒くて電気ストーブの小さいのを買ったから、その程度しか無い。あとキッチンにはやかんとコーヒー・メーカーしか無い。本とかCDは箱に入れて押入れに入れてある。もちろん布団も押入れだ。洋服もそんなに持っていないから押入れで全部用が足りている。まだ余裕があるくらいだ。制服はハンガーにかけて壁にぶら下げてある。
「わー、何も無い。珍しいー」
そうなのかな。他の人の部屋なんか見たこと無いや。昔は、そう、小学生の頃はベッドとか勉強机とかがあった。中東ではベッドしかなかった。
玲子先生は何を考えたか、壁にかかっている制服に抱きついて犬のように匂いを嗅いでいる。
「えへへー。創の匂いー」
何を言っているんだ? この人は。制服にしわが寄るだろ。
「何しているんですか」
彼女の脳天に軽く手刀を入れた。
「いったーい。か弱い女性に、しかも、こんな綺麗な女性に何するのよー」
抗議して来たが言い返してやった。
「か弱くて綺麗な女性は、受け持ちの生徒の制服の匂いなんか嗅ぎません」
「いいじゃないよー。嗅ぎたかったんだもん」
開き直りやがった。やれやれ。気を取り直そう。
「コーヒーでも飲みますか?」
「うん! 飲む飲むー」
反応がお子様だな、相変わらず。彼女は卓袱台を前にして、ぺたんと座っている。押入れから毛布を出して膝に掛けてやった。結構冷えるんだ、この部屋は。
「ありがとう。相変わらず優しいのね」
優しい? この僕が? そんなつもりはないぞ。
「まあ、とりあえずコーヒーを飲んで暖まって下さい」
気を取り直して彼女にコーヒーを出した。まだ部屋の中を見回しているぞ。
「何も無いけれど、綺麗に掃除もしているのね」
雑巾で拭く程度だけど、たまにしている。六畳分の畳と申し訳程度の板の間、そしてキッチンとトイレ・風呂。全部掃除したって半日程度しか掛からないから。
訓練所にいたときは、懲罰で一晩中掃除をさせられた。トイレとか、シャワールームとか。
嫌な記憶が蘇りつつある。首を振ってそれを打ち消した。
「どうしたの? 首なんか振って」
「いや、なんでもない。気にしないで下さい」
時間がたつにつれて、玲子先生の顔に赤みが増し、口元が緩みつつある。なぜか背筋が寒くなった。まさか、まさか、さっき言っていた続きって・・・。
「しよ」
「は?」
「エッチ」
「は?」
「するのー!」
彼女は抱きついてきた。そんなのありかよ。これじゃまるでレイプされるみたいじゃないか。
ふとそんなことを考えたとき、あの、あの思い出したくも無い光景がフラッシュ・バックした。
夕方の路地。薫の悲鳴。男たちの荒い息遣い。光るナイフ。薫の悲鳴。護身用のハンドガン。破裂音。飛び出した薬莢。硝煙の臭い。トリガーにかかった僕の指。男たちのうめき声。血の臭い。そして男たちの死体。
またいつもの胃の痛みを覚えた。直接掴まれている。暗転するような世界。猛烈な吐き気。
「創? 創! 大丈夫? 顔が真っ青よ!」
トイレに行って吐こうとした。だけど、間に合わなかった。夕食前だったから、胃は空っぽだった。いつもと同じように胃液しか出ない。苦しい。つらい。そして悲しい。結局板の間に崩れるようにして吐くことになってしまった。
玲子先生はまた、優しく背中をさすってくれた。でも、今回はいつもより苦しくて時間も長いみたいだ。
苦しい。とにかく苦しい。助けて。誰か助けて。薫の顔が思い浮かんだ。薫、僕は自分のしてきたことにこんなにも苦しめられている。一体何のために生きているんだ? 君を助けたかった。護りたかっただけなのに。家族を護りたかっただけなのに。なぜここにいる?
かなり長い時間もがき苦しんでいたように感じた。ようやく治まって玲子先生にお礼を言った。彼女は気にしなくても良いからと言い、胃液で汚れた板の間を雑巾で掃除してくれた。またお礼を言った。彼女は気にしなくても良いからとまた言ってくれた。
「毎日何回もこうなるんでしょう?」
彼女は言った。
「そうです。僕の意思に関係なく、あの思い出したくも無い光景がフラッシュ・バックしてくるんです。そうすると、さっきみたいに吐いてしまうんです」
今回は薫を助けたときのことだったが、薫の事や訓練所のことはまだ話していなかったからごまかした。彼女はまた背中をさすってくれている。
「いつでもこうしてあげるからね」
玲子先生は優しくそう言ってくれた。嬉しかったが、心がなぜだか痛んだ。
結局、無事に(?)解放され、玲子先生は少し残念そうに帰っていった。
十二月九日
相変わらず平穏だ。平和な日常だ。街ではクリスマス・ムード一色になっている。
面白い噂を聞いた。この寒いのにこの街のどこかで幽霊騒ぎが起こっているそうだ。普通、日本で幽霊といえば季節は夏と相場が決まっているものではないのか? ホラー映画もなぜか夏に上映していたし。
騒ぎの場所は、意外と近かった。過去に工業団地として整備された地域の中で、途中で採算割れしたのか企業が放置した一角で、地図にも載っていた。
N工業株式会社○○工場跡地
地図にはそう書いてあった。そこで幽霊を見たという噂が、このところ頻繁に校内で囁かれている。
面白い。単純にそう思った。幽霊か。そんなもの信じてはいないけれど、見ておくのも話のネタになるだろう。なんとなくそう思った。
放課後の屋上で、玲子先生に聞いてみた。
「最近の幽霊騒ぎ、ご存知ですか?」
「ええ、見たという人結構が多いみたいね。どう騒ぎを鎮めたらいいかわからないくらいよ」
「ふうん」
そうか。そうだとすると本当に面白い。でも、ほぼ百%の確立で普通の人間だ。ホームレスか何かだろう。誰にも見咎められない。雨や風が防げる。火を焚いても火事の心配も少ない。
どうやらそう考えていたのが、玲子先生にはわかったらしい。
「創、あんたもしかして・・・」
「見に行ってみようかと」
「やめなさいよ。何かあったらどうするの?」
玲子先生は幽霊を信じているのだろうか。顔の筋肉がこわばっている。
「大丈夫ですよ。見に行くだけですから」
彼女は、顔を青くして震えながらまた言った。
「やめときなさいって。何かあったらどうするのよ?」
最後は涙声だ。大丈夫ですよと言って先生と別れた。
V―MAXのエンジンに火を入れ、暖機運転しながら場所を思い出していた。十分にエンジンが温まったのを水温計で確認し、アクセルを二、三度開けて空ぶかしをした。
そして目的のN工業株式会社○○工場跡地へバイクを走らせた。
門のところにバイクを停め、メイン・スウィッチをオフにした。
真っ暗だ。街灯も何も無い。漆黒の闇。飲み込まれていきそうな暗闇が続いている。
ポケットからフラッシュ・ライトを出して、足元を照らした。そしてライトを口に咥えたまま門を乗り越え、建物の方へ歩いて行った。
敷地はかなり広い。後ろに森なのか林なのか、木々が生い茂っている。敷地の端のフェンスからずいぶんと離れて、かなり大きい建物が五棟並ぶようにして建っている。
建物全ての周囲を確認し、何も無いことを知った。本当に何も無い。建物だけだ。それぞれの建物には全て正面に大きな鉄製の扉があって、どれもチェーンや南京錠は付いていなかった。鍵穴が二つあった。
とりあえず一番手前の建物から調べることにした。
大きな鉄製の扉には鍵がかかっていなかった。そっと、音がしないように全身に力を入れて少しずつ開けていった。そして身体一つが入れる隙間を作って、建物の中に滑り込んだ。人の気配は無い。フラッシュ・ライトをずっと消していたので、もう一度それを点けた。中を覗いてみた。がらんどうだ。奥の方へ行くと、事務所らしきスペースとトイレがあった。また周囲を見回し、何も無いことを確認して次の建物に移ることにした。入ってきたときと同様に、静かに扉を閉めた。
次の建物も、真ん中の建物も、その先の建物も一緒だった。
最後の建物の扉を少し開けたら、灯りが漏れてきた。やっぱり。人がいる。気配を窺うと、どうやら三人程度いるらしい。話し声がしていた。少し楽しそうだ。隙間から覗いてみると、焚き火を囲んで何か飲んでいるらしい。見た目はホームレスだ。
なぜか力を入れて扉を開き、入ってからまた扉を閉めた。冷たい風が入ると嫌だと、なぜか思った。そして彼らに近づいた。彼らはとても驚いていた。
当然のことだな。楽しく話していたら、いきなり人が入ってきて、しかも扉を閉めたんだからな。
「こんなところで何をしているんですか?」
「な、何だ、お前は?」
聞くのも当然だな。
「ここに幽霊が出るって噂が僕の高校で広まっているんですよ」
「なんでぇ。そんなことがあったのかよ」
「じゃあ、そろそろここは引き上げ時かなぁ・・・」
中の一人がしんみりとそう言った。やはり冬を越しやすいところに居たいらしい。
少し考えてから言った。
「・・・黙っていましょう。でなければ、幽霊が出るから近づかないほうが良い、とでも学校で言いふらして置きましょう。誰も近づかないように」
「え・・・?」
なにやらびっくりされているぞ。予想外だ。
「良いのかい? 俺たち、ここに居られるようにしてくれるのかい?」
「警察とかにも言わないでいてくれるのかい?」
「誰にも話さないのかい?」
一斉に言うなよ。気持ちはわかるけどさ。
「ええ。誰にも言わない。誰にもあなたたちの邪魔はさせない。ただ、ここに幽霊が出る。それでいいでしょう?」
そう言ったら、皆ほっとしたような、喜んだような顔をした。面白い。
そして中の一人が、僕に向かって少し汚れたプラスティックのコップを出してきた。
「何ですか? これ」
「俺たちの気持ちだ。飲んでくれ。こんなものでしか礼ができなくてすまねぇけどよ」
そう言って一升瓶から酒を注いできた。なぜだか嬉しくなった。
「じゃあ、お言葉に甘えて、いただきます」
不思議な色をした飲み物だった。でもアルコールであることは間違いない。冷えた身体が暖まった。焚き火のせいもあるかもしれない。
「俺がブレンドしたんだ。どうだ? まあまあいけるだろう?」
手前に腰を下ろしていた男がそう言った。確かに、味はまあまあだ。
「ええ、結構いけますね」
「そうかい。嬉しいこと言ってくれるね。もう一杯飲めよ」
言われるまま飲んだ。それから、彼らと楽しく世間話をし、彼らの愚痴を聞いて、それから部屋へと戻った。




