希うモノ
以前紫藤玖藍として活動していた際投稿した希うモノのリメイク版です。
駄文なとこは変わらないですが稚拙ながらバトルシーンを組み込み世界観がガラッと変わっております。
○○はふらつく足取りで屋上へと向かった。階段を少し上っただけで動悸は激しく、息も絶え絶えだった。屋上には返り血を浴び真っ赤な服を着た男が立っていた。
「よお、待っていたぜ。」
男の足元には人間の死体とおぼしきモノが落ちていた。男はコンクリートに座り込むとその死体の腕を捻った。ベキョッという音と共に死体の腕はいとも簡単に肉体から離れ、飛び散った血液が○○の頬を濡らす。○○はコンクリートにへたり込んだ。その時だった。真っ暗な夜の闇を裂いて閃光が走り男をかすめた。男はキシッと笑うともぎ取った腕を持ったまま高く跳躍しそのまま闇に紛れた。
「っ!逃がしたか。」
目映い光と共に天空からまた別の男が現れた。男は夜の闇を思わせる真っ黒な服に身を包んでいる。男は死体をちらりと見た。
「魂は持っていかれたか。くそっしくじった!」
男は俯せに倒れている○○の側にしゃがむと怒りを孕んだ声で問うた。
「君は自分が何をしたか解っているのか?」
○○は何も答えない。否、答えられる状態ではなかった。○○は既に虫の息で目は光を失いつつあった。男はため息をついて立ち上がると何処からともなく大きな鎌を取り出した。
「己の罪に気付くまで君には償いをしてもらう。永遠の時の中でね。」
男はそう呟くと鎌を振り下ろした。
―――
ピピピピ、ピピピピ。
2Kの部屋に目覚ましの音が鳴り響く。ベッド上には布団の塊しかなく、ベッドの主はどうやら布団に潜り込んでいるようだ。布団の塊から手だけが伸び、けたたましい鳴き声を上げる時計を止めた。ベッドの主はゆっくりと身体を起こす。淡い光を放つ白髪に血のような少し濁った赤の瞳を持つその少年は目が覚めきらないのかしばらくぼんやりとベッドの上にいた。すると今度は携帯の着信音が鳴り響く。少年は少し腹立たしそうに携帯を取った。
「やあ、いい朝だね!」
電話の向こうからやけに明るい声が飛び出してくる。少年は窓の外をちらりと見る。外はどんよりと重い雲が太陽の光を遮っていた。
「こっちは曇りだよ。」
少年は淡々と『いい朝』を否定した。電話の向こうからは大袈裟にため息をつく声が聴こえてきた。
「用件は何ですか。」
少年は挨拶もそこそこに話を切り出した。電話の主はガラリと雰囲気が変わった。
「仕事の話さ。君にある少女を任せたい。隣町の大学病院の一條雛依という17歳の心臓病の子だよ。」
電話の主は少し低めのトーンで用件を伝えた。少年はわかったとだけ返事をした。
「日の光が少ないせいで悪魔達が活性化している。気を付けて。」
少年は黙ったまま電話を切った。すると窓に何かがぶつかる音がした。少年が窓に目をやると普通の生物とは思えない異形のモノが窓を叩いている。少年は枕元のバイオリンケースを開き、弦を指で弾いた。するとバイオリンと少年を中心に衝撃波が拡がり窓は無傷のまま異形のモノは弾け飛んだ。少年はため息をつくと身支度を整え朝食も摂らず外へ出た。外は先程の異形のモノと同じ様なモノが宙を漂っていた。ただ街を行く人々はそれを気にも留めず、普通に通り過ぎていく。異形のそれらは少年にしか見えていない。少年の名は神代千歳、死神である。死神といえば人の命を奪う者とされがちだが彼等は違う。死を間近に控えた人間は弱っている。その弱った心につけこみ願いを叶える等と宣い、身体と魂を食すまたは弄ぶ存在が悪魔と呼ばれる者達で千歳達死神は死を間近に控えた人の魂が無事に行くべきところへ行けるよう守り抜くのが仕事である。しかし悪魔の大半が実力行使に出る為死神は悪魔を撃退する必要があり、戦いになる事が多い。千歳は実戦において類い稀なる才能を発揮し悪魔討伐のみの任務も受けている。
30分程歩いただろうか。千歳は仕事の相手がいる病院の前に着いていた。受付で面会の手続きをし仕事相手の病室へと向かう。この病院は末期患者は南の全個室の棟へ移されるらしく彼女の病室も南の棟の端にあった。少女の病室へ向かう際も1人の死者がストレッチャーで運ばれていった。
「…悪趣味だよな。」
千歳はストレッチャーが消えていった方向を見ながらそう呟いた。確かに同じ様な病人を集めておけば看護も介護もしやすいだろうがその代わりこの棟の病人はほぼ毎日誰かの死を目の当たりにするのだ。それは何よりも残酷な事ではないだろうか。そんな事を考えながら千歳は一條雛依と札のかかった病室をノックした。どうぞという声に千歳が扉を開けると風がふわりと吹き抜けていった。千歳が中に入ると雛依は長い茶色の髪を風になびかせ、千歳の方を振り返った。
「十六夜さんから話は聞いているわ。貴方が千歳君ね?」
病人らしく青白い顔色に似合わない明るい笑顔の少女がそこにはいた。一條雛依、彼女は心臓の病であと一月でこの世を去る。しかし雛依自身はあまり悲壮感を漂わせてはいなかった。十六夜とはさっきの千歳の電話の相手であり千歳の上司にあたる。千歳達死神の長のような立場で今回のように仕事の采配をしている。だがノリが少々めんどくさい為皆あまり会話をしたがらない。雷撃を得意とする為仕事ができないと容赦なく雷撃を放つ。人の上に立つには問題だらけな人物だが仕事はかなりできる為そこのみ評価されている。千歳は近くにあった椅子に腰掛け、ため息をついた。すると雛依は不思議そうな表情で千歳の傍に寄ってきた。
「貴方…どこかで見た覚えがあるわ。」
千歳は一瞬ドキリとした。普通の人間には千歳達死神は見えない。仕事相手の前で具現しない限りは死神を見た事があるなんて言葉は生きている内は出てくる筈がないのだ。
「髪の色が違うけれど貴方神代千歳っていうバイオリニストよね?」
雛依はそう言うとベッドの脇のラックから雑誌を取り出した。月刊クラシックというその雑誌には天才少年バイオリニストと大きな見出しでまだ髪は焦げ茶色で生き生きとした瞳をしていた頃の千歳の姿があった。
「…杜撰な事後処理だな十六夜さんよ。」
千歳は吐き捨てるように呟いた。人間の中には死後死神に転生する事が決まっている者がいる。千歳は少しイレギュラーな事態に陥ったが大抵は死神の庇護なく、自分の魂を守り抜く事ができる。しかし死神になるにあたって容姿・記憶は変わらない為人間であった時の痕跡は抹消される。最初から存在していなかった事になるのだ。どうやら千歳が死神になる際はその処理は少し杜撰に成されたらしい。そして何の因果かその記録の残り滓にめぐりあってしまった。
結局千歳は雛依とほとんど会話する事なく病院の屋上にいた。胡座をかいてぼんやりしていると傍に十六夜が降ってきた。その風貌は某アニメの巨大な学園の長に収まっている悪魔の様な奇抜な格好だった。千歳はそれを見て更にげんなりとした。
「千歳君駄目じゃないか。女の子にはもっと優しくしないと。」
千歳はため息をついた。
「十六夜さんよ、俺は仕事に来てるんだ。人間との馴れ合いを楽しみに来てんじゃない。」
千歳の言葉に十六夜は少し悲しげに眉をひそめた。
「君だって死神という存在になっただけで人と何も変わりはしないよ。」
十六夜は千歳の隣に腰を下ろした。
「何が君から人間らしさを奪ってしまったかはだいたいの見当はついているけれど取り戻す事すら諦めてしまうのかい。」
千歳は何も言わなかった。何も言わず目の前を通り過ぎようとした小さな悪魔を掴み、握り潰した。小さな断末魔はこだまする事もなく消え去り、千歳の手から砂が風に飛ばされるようにさらさらとそれは飛んでいった。
ほとんど会話らしい会話もないまま一週間が過ぎたある日。
「ねえ、私バイオリン聴いてみたいわ。」
千歳が雛依の部屋を訪れると雛依はいきなり切り出した。千歳がバイオリンを持ち歩いているのを見てからずっとそう思っていたらしい。千歳は断りたかったが雛依があまりにもキラキラした目で見つめてきた為嫌々ながらも弾いて聴かせる事にした。二人で屋上に上がり千歳はケースを開けた。毎日丁寧に手入れされ艶を放つバイオリン。千歳がどれほど大切にしているかが目に見て取れる。雛依は優しい微笑みを浮かべた。調律を施し、千歳はバイオリンを肩にのせた。千歳が弓を滑らせると滑らかな旋律が風のように吹き抜けていく。雛依は目を閉じ静かに聞き入っていた。
「いい音ですね。」
秘書が十六夜の傍にコーヒーを置き呟く。十六夜も耳を澄ませた。
「ああ、千歳君のバイオリンだ。珍しいね彼が能力以外のバイオリンを弾くなんて。」
十六夜はバイオリンの音を聴きながらひどく悲しそうな表情をしていた。
千歳がバイオリンを弾き終わると同時にそれはやってきた。雛依を先に部屋に帰らせ千歳はトイレの個室に籠った。激しい頭痛と胃の不快感は容赦なく千歳を苛む。何も入っていない胃は胃液だけを吐き出す。胃液すらも出なくなり意識がぼんやりする中、千歳はやっとの事で立ち上がりふらふらと雛依の元へ向かった。そして部屋の扉を開けると同時にその場で倒れた。
「ちっ千歳君!?」
雛依は驚き声を上げた。
「どうかしたの一條さん。」
廊下を通り掛かった看護師が雛依に声をかける。雛依は目の前に人が倒れているのに悠長にどうしたと聞いている場合ではないと思ったが看護師の何か変なものを見るような視線が自分に注がれている事で気が付いた。千歳が普通の人でなかった事に。雛依は少し迷ったが微笑んで「何でもない」と答えた。看護師が通り過ぎていった後で雛依は動かなくなった千歳を自分のベッドまで運び、寝かせた。
「十六夜さんもいないし私がどうにかするしか…。」
雛依はとりあえず千歳の衣服を緩める事にした。上着のジッパーを下ろしワイシャツのボタンを幾つか外すと雛依はその行為を後悔した。緩んだ服の間から覗く千歳の身体には無数の傷痕がありどれも古傷とは言い難いモノだった。
千歳は夢を見ていた。死神になる直前の交通事故に巻き込まれ植物状態になった時の夢を。身体には無数の管が繋がれ瞳は閉ざされ何にも反応しないままベッドにただ寝かされていた。病室の扉が開き千歳によく似た青年が入ってくる。千歳の兄、神代千晶だ。若くしてバイオリニストとして成功した千歳をマネージャーとして支えてくれていた。千晶の表情は冴えずその手には先程買ったと思われる週刊誌があった。千晶はベッドの脇にある椅子に腰掛けた。
「『天才少年バイオリニスト神代千歳、復帰は絶望的。』…だってさ。」
千晶は週刊誌を床に叩き付けた。叩き付けられた拍子に開いた千歳の事が書かれたページには千歳が入院している病院のモザイクがかけられた写真と千歳が植物状態に陥り、寝たきりになっているという説明があり、その後専門家が千歳の状態について詳しい説明とバイオリニスト復帰が絶望的である事を念押ししていた。
「千歳、俺達の生きてきた世界はこんなもんだったんだな。千歳の気持ちを何も考えようとしないで面白おかしく記事にしやがる。目が覚めないなんて、バイオリニストに復帰出来ないなんて誰にわかるんだ!」
千晶は拳を握り締め歯を食い縛り涙を流す。大事な弟が事故に巻き込まれ生と死の狭間をさ迷っているという時に追い討ちをかけるような記事を書かれ怒りと悲しみが溢れ出す。しかし千歳の傍でその話をしてしまった事が千晶の命取りとなった。深夜千歳は自分に語りかけてくる何かに気が付いた。
「お前、また動けるようになりたいとは思わないか?」
その声の主は言った。自分なら今の千歳の状況を変える事が出来る、またバイオリニストに復帰させられる、奇跡を起こせると。その言葉は千歳のボロボロの心と身体には砂漠で見付けたオアシスのように麻薬に近い効果があった。千歳は願った。奇跡を起こしてほしいと。それが悪魔の罠だとも知らずに。悪魔は千晶の心の弱さもすでに知っていた。目が覚めないなんて分かりはしないと言いながら千晶は分かっていた。現実と自分の願いに板挟みにされ脆く崩れそうな心を必死に保っている、そんな状態だった。悪魔にはそれがひどく好都合だった。死を間近にしなくとも心が弱りきっていればつけこむ隙はいくらでもある。悪魔の中でも力の強かったその悪魔は生者である千晶の魂を狩る自信があった。千歳は死神に生まれ変わる存在だった為に死神がついておらずフリーだった。しかし死神達は千歳の心の弱り具合を正しく認識出来ていなかった。そこを悪魔につけこまれた。
「じゃあ奇跡の代償にお前の大切なモノを頂く。目が覚めたら屋上に来な。」
千歳の夢はそこで途切れた。
千歳が目を覚ますとそこは見慣れない天井だった。まだ疼く頭を押さえながら千歳はゆっくり身体を起こした。傍らでは雛依が千歳の手を握ったまま寝息をたてていた。千歳は自分の記憶をたどり、部屋に入った途端意識を失った事を思い出した。千歳が雛依を揺すると雛依はすぐに飛び起きた。
「千歳君目が覚めたんだね。」
雛依は少し申し訳なさそうに下を向いた。視線は千歳の服の緩みから覗く生傷の数々に向いていた。千歳は視線に気付くとワイシャツのボタンをとめはじめた。
「死神は悪魔と戦うのが仕事だ。無傷で済む筈がないだろう。」
素っ気なく話す千歳に雛依は何もかける言葉が思い付かなかった。
「バイオリンを能力以外で弾いた事で閉ざした記憶が無理に呼び覚まされて身体に異常をきたしたんだよ。雛依ちゃんが心配する気持ちは分かるけど彼が自分でやった事だ、気にしない方がいい。」
十六夜はそう言うと雛依の頭を優しく撫でた。千歳が自分の家で体力を回復している間十六夜が代わりに雛依につく事になったのだが十六夜は早速雛依の泣き言を聞く羽目になった。雛依は自分がバイオリンを弾いて欲しいとせがんだせいで千歳が体調を崩したと思い十六夜に訴えてきたのだ。十六夜はこうなる事がわかっていながら雛依に予め説明をしておかなかった。今回の件も含めて千歳は自分の享年と同じくらいの年頃の者と接していると無意識に精神が不安定になる。雛依から逃げるように屋上で一人になろうとするのも無意識だった。しかし十六夜の計画を思惑通りに進めるには千歳は雛依と一緒にいなければいけなかった。
「私が千歳君にしてあげられる事はないんでしょうか。」
雛依はふいにそう呟いた。十六夜は驚いたように言葉を失う。雛依は十六夜の方に向き直った。
「会って一週間しか経っていないけどちゃんとお話だって出来ていないけど、千歳君が何か苦しみの渦の中にいるのだけはわかるんです。」
十六夜は雛依の中に何か光のようなモノを見た。十六夜は確信した。雛依には千歳を救う力があると。そしてこれから先死神と人間の営みにおいて彼女の力が大いに役立つ予感がした。
「じゃあ…。」
2日程の療養を経て、千歳が雛依の元を訪れると雛依はどんよりとした空気を纏っていた。千歳は少しぎょっとした。普段はこれでもかというくらい明るい彼女がどんよりとした空気を纏っていたら流石の千歳も少し動揺した。
「あ、千歳君かぁ。」
雛依が発した言葉そのものにまるで重さがあるかのように千歳の肩にのしかかった。
「だ、大丈夫か?」
千歳は雛依の額に手を当ててみる。熱はないらしい。千歳がベッドの脇に腰かけると雛依は千歳の肩に頭を預けてきた。
「今日ね、私のお母さんがくるの。だからちょっと席を外してて。」
千歳は言われるまま雛依の病室の窓から出て下の出っ張りに腰かけた。すると程なく雛依の母親が現れた。病院に来るには少し派手なブランド物のスーツに身を包み髪にはしっかりパーマが当てられていた。雛依はさっと前髪を直した。雛依の母親は無表情のままベッドの脇の椅子に腰掛けた。
「さっき先生と話をしてきたわ。延命治療の話だけど。」
雛依の母親は雛依が口を開くより先にいきなり話を切り出した。延命と聞いて雛依は少しドキリとした。
「もちろん希望しなかったわ。貴女もこれ以上私に迷惑かけずに済むしね。」
母親は無表情のままそう告げるとさよならともまた来るともなく席を立ち病室を出ていった。千歳は再び窓から中に入った。
「どうせなら私が死ぬ時まで来ないで欲しかったんだけどね。」
雛依はポツリとそう言った。そして千歳の方を振り返り困ったような笑顔で言った。
「私の話、聞いてくれる?千歳君。」
千歳は何も言わず頷いた。
雛依の家庭状況は複雑で雛依は母親に疎まれていた。母親は若くして会社を立ち上げ今では二千人もの従業員を抱える会社を経営している。そんな母親が雛依を身籠ったのは25の時、相手は当時の不倫の相手だった。まだ若かった母親は妻子を持った男を愛し、相手も子供が出来たと知ったら妻子を捨て自分を選んでくれると信じていた。しかし雛依の母親が不倫相手に選ばれる事はなく彼女は一人で雛依を産み落とした。不倫相手の心変わりを待つ間に堕胎できる時期を過ぎてしまっていたのだ。幸い家政婦を雇う余裕があった母親は家政婦に雛依を丸投げし、伴侶となる男性を探し回るようになった。しかしいくら若くても子供がいるというだけで男は遠退いていく。母親は次第に雛依に辛く当たるようになった。しかしそんな母親にも伴侶となる男が現れ、結ばれる時がきた。相手も男の子を連れており再婚するのに問題はなかった。しかし母親は余計に雛依を疎むようになる。相手の連れ子が男の子という事もあり母親によくなついた為母親は連れ子を溺愛するようになる。一方長い間自分の結婚の妨げになってきた雛依は憎くて憎くて仕方なかった。極力口を聞かないようにし、
食事も共に摂らなくなり1日の間に一度も顔を合わさなくなった頃雛依の病気が発覚した。雛依が難病で長くない事を知った母親は雛依を病院に入れたまま特別用事がない限り面会にこなくなった。
「だからね、私達は仲が悪いなんて程度じゃないの。お母さんに嫌われていても家政婦さんは私を娘のように育ててくれたし、お互い憎み合うよりはどちらかがいなくなる方が周りが傷付かずに済むの。」
雛依はすでに達観してしまったように話す。いや恐らく本当にその域まで達してしまったのだ。千歳は何も言わず黙って話を聞いていた。仕事が決まった際相手の情報は既に記憶済みだが千歳は水をさすつもりはなかった。むしろ知っていたからこそ初めて会った時の雛依の明るさに驚いたのだ。その時だった。千歳が何か凶悪な気配を感じ窓の外を見ると暗い雲が重くのし掛かり稲光が所々光っている。千歳は顔をしかめた。
「強力な悪魔が近いな。」
すると大きな音を立て、雷が近くに落ちた。
「ひゃあう!」
雷に驚いた雛依は傍にいた千歳に抱きついた。雷は立て続けに何度も落ち、一つ落ちる度に雛依は悲鳴を上げその度に千歳は締め付けられていく。身体が細くあまり余分な肉のない千歳はぐんぐん締め付けられ次第に息苦しさまで感じるようになった。
「かはっ、落ち着け雛依。一度離れろ。このままだと俺はあんたに絞め殺される。」
息苦しさに声がかすれる中何とか言葉にし、千歳は雛依を一度離れさせた。しかし離れたはしから再び雷が鳴り雛依が飛び付いてきた為千歳は雛依としばらく格闘する羽目になった。長い格闘の末胡座をかいた千歳の足の間に雛依が収まるという形に落ち着いた。
「雷が怖いだけで人を殺しかけるとはあんた恐ろしい女だな。」
雛依の頭に顎をのせながら千歳はぼやいた。
「死神って死ぬの?」
雛依は怪訝な顔をして千歳の方を振り向いた。
「んー、まあ滅多に死なないが悪魔に魂を食われたら死ぬな。悪魔があんまりにも強力だったら悪魔を殺す事に特化した俺みたいなのが駆り出されるからほとんど死なないが。」
千歳は死神としては力が強くこの辺りを漂っている小者なら能力を使わなくても少し捻るだけで悪魔を葬り去る事ができる。能力の代償が大きく何日間か寝込む程である。雛依は千歳が話している内に眠りについていた。まだ昼間だというのに外は夕方のように薄暗く樟気が濃い。千歳が雛依の額に手を当てるとうっすら汗が滲んでいた。母親が来た事で気疲れしたのだろう。千歳はその汗を拭った。そしていつの間にか千歳自身も眠りに落ちていった。
「目が覚めたら屋上に来てみな。」
その言葉が反響し千歳は目を覚ました。試しに腕を動かしてみる。色んな管が繋がれ重たくなった腕はゆっくりとだが確かに動いた。千歳はゆっくりと身体を起こした。身体中の骨が軋むような感覚が全身を駆け巡り欠如していた感覚が戻ってくる。千歳は点滴等の管を引き抜きよろめきながら壁を伝い屋上へ向かった。腕はズキズキと鈍い痛みを放つ。千歳が事故に遭ったのは半年近く前だが今日まで眠り続け使われなかった身体は元のように動かず階段の手前で千歳は膝をついた。階段を這うように上がった千歳は屋上の扉を開けた。
「……っ!」
その瞬間千歳の目に映ったのは兄千晶の変わり果てた姿と返り血で赤く染まった男の姿だった。男は千歳の方を振り返るとニヤリと笑った。
「よお待ってたぜ。」
千歳はその場にへたりこんだ。千晶はピクリとも動かない。男は千晶の腕を掴み、捻りあげた。肉の千切れるブチブチという音が千歳の耳を叩く。
「やめっ……やめてくれ!」
千歳の言葉は声にならなかった。男は千晶の腕を引き千切り、飛び散った血を嬉しそうに舐め取った。
「…っ、兄さ……っ。」
千歳は息苦しさに襲われコンクリートに倒れた。その時だった。夜の闇の中を一筋の閃光が走り男をかすめた。男はキシッと笑うと千晶の腕を持ったまま夜の闇へと姿を消した。
「クソッ、逃がしたか!」
夜の闇の中から同じように真っ黒の服を着た十六夜が現れた。十六夜は千晶の無残な姿を見、次に倒れている千歳に目をやった。
「君は自分が何をしたかわかっているのか。」
十六夜の声は怒りが混じっていた。しかし千歳の目はもうほとんど何も映してはいなかった。悪魔の力で無理やり動かされた身体は本来より早く限界を迎え千歳は死へと誘われていた。
「君にはきちんと罪を償ってもらう。永遠の時の中でね。」
十六夜は手にしていた鎌で千歳の身体を貫いた。
千歳が目を覚ますと最後に時計を見た時から一時間ほど経過していた。雛依は相変わらず千歳の腕の中で寝息を立てていた。千歳は雛依をそっとベッドに寝かせると病室を出た。
「なるほど、あれが俺の罪ってやつか。」
千歳は階段の段に座り込み頭を抱えた。
「俺は兄さんを殺したって事か。それも自らの願いと引き換えに悪魔に差し出したってか。」
一般に死神に転生する人間は死ぬ間際に死神へのバージョンアップのような事が行われる。しかし千歳は悪魔の影響でバージョンアップが行われないまま死に至り十六夜の力により死神としての転生を果たした。しかしその事により記憶等の引き継ぎに不具合が起き、千歳には兄と自分に起こった事の記憶が閉ざされてしまった上、能力を使用した際身体への反動が大きくなるという弊害が生まれてしまった。しかし記憶は全て開かれた。千歳はゆっくり立ち上がると雛依の部屋へと戻っていった。
千歳が部屋に戻ると雛依はベッドの上で胸を押さえうずくまっていた。千歳が思わず駆け寄ると雛依は汗のにじむ顔で困ったように笑った。
「大丈夫、…いつもの事だから…っ!」
息も荒く雛依の大丈夫は強がりでしかないのは一目瞭然だった。千歳は黙ってバイオリンのケースを開けた。そしてバイオリンを肩にのせる。
「癒しの旋律《聖母の祈り》。」
そう呟くと千歳はバイオリンを弾き始めた。ファンタジーにおける魔法のように呪文の詠唱は必要ないが能力の使用の際能力のイメージ力を高める為どんな能力を使うかを声に出す死神は多い。柔らかな音色は雛依のみならず病院の隅々まで行き渡る。病や怪我の治療まではできないが痛み等の症状の緩和はできる。雛依は胸の痛みが嘘のように楽になった。雛依はベッドの上で身体を起こした。千歳の演奏が終わるまでゆっくり耳を傾けた。千歳はバイオリンをケースに片付けるとベッドに腰かけ、雛依はタオルを手渡した。
「千歳君は大丈夫なの?顔真っ青だよ?」
「俺は大丈夫。…うん。」
千歳自身雛依のみで抑えるつもりが能力の調整が上手くいかなかった様子で少し消耗していた。
「嘘吐かないでよ。私千歳君が能力使ったら具合悪くなるのわかってるよ。」
千歳は無言だった。しかし目だけは『何で知ってる?』『誰から聞いた?』と雛依に疑問を投げ掛ける。雛依は千歳の肩に頭を預けた。
「千歳君が倒れた日に十六夜さんに私が何かできる事はないかって。」
雛依は千歳の手の上に自分の手を重ねた。
「千歳君が何か苦しんでるんじゃないかって。でも私にできる事なんて特になくて。その後で気付いた。私はただ千歳君にずっと傍にいてほしかっただけなんだなって。」
雛依は何か格好悪いなと呟くと困ったように笑った。誰も来ない病室に舞い込んだ自分にしか見えない存在は依存するにはうってつけだった。
「そうやって誰かの為にって強がって生きてきたんだな。」
千歳は自分の中に死神になってから初めての何か不思議な感情が芽生えたのを感じた。雛依を守ってやりたい、そう強く思った。母の為に自分の為に何かどうにか出来ないかと自分の苦しみを圧し殺し力になろうとする姿はどうしようもなく愛しく感じた。
「俺は自分の事は自分でどうにかできる。だから心配しないでおやすみ。」
千歳は雛依をベッドに寝かせ頭を優しく撫でた。
夜になり悪魔が最も活発になる時がきた。強力な悪魔が近くにいるらしく小物もいつもより凶暴化している。千歳は屋上に立ち暗い空を睨み付けた。
「よう、久しぶりだな。お前死神になったのか?」
聞き覚えのある声に千歳は身構え、バイオリンの弓はその姿を変え死神の鎌となった。声の主は夜の闇からぬっと姿を現した。
千歳はその姿を見て自分の目を疑った。そこに立っていたのはあの日自分の兄を死に至らしめたあの悪魔ではなかった。
「兄…さん…?」
悪魔は千歳の兄、千晶の姿をしてそこに立っていた。驚き、目を見開く千歳を悪魔は笑った。
「あっは!信じられないって顔してるよなあ?姿はお前の兄貴でも中身は俺様だァ。」
千晶を殺したこの悪魔は悪魔でありながら人の形をしている。悪魔は強さで形状が変わり、強い者程人に近くなるという。千歳は鎌を握り直す。恐らく自分が食い止めなければ末期病棟の患者の魂は狩られ放題になってしまう。千歳はバイオリンを構えると弦を直接弾いた。すると千歳とバイオリンを中心に衝撃波が発生し、病院全体を走り抜けた。死神は悪魔と戦う際、結界を張り自分達の戦いに人間を巻き込まないよう細工する。千歳は悪魔に鎌を向けてはいるが攻撃へと踏み込めていない。千歳にはまだためらいがあった。そんな千歳を見て悪魔はまた笑った。
「あっは!わかった!お前俺が兄貴の姿してるから殺れねえんだろ?あっはっはっは。」
千歳は自分に『これは仕事だ、私情にかられてる場合じゃない。』と必死に言い聞かせていた。すると未だに動けずにいる千歳めがけ、悪魔は高く飛び上がると鋭い爪で襲いかかった。
「…くっ!」
千歳は鎌の柄でそれを受け止めた。まるで金属が触れ合ったようにパチパチと火花が飛び、千歳は後方に飛んだ。悪魔は長く伸びた爪で頭を掻いている。
「なーんか拍子抜けだわあ。お前今死神の中でも1、2を争う強さって聞いたからわざわざ来たのによう。」
悪魔は赤黒い爪をペロリと舐めた。
「まあいいや。兄弟揃って俺様の腹におさめてやるよ!」
悪魔は千歳との間合いを詰めるべく駆け出した。千歳は再び襲いかかってきた悪魔を避けようと後方に飛ぼうとしたその時、千歳は目眩に襲われた。体勢を崩した千歳を見て悪魔はニヤリと笑い爪を振り下ろした。
「ぐあっ…!」
悪魔の爪は千歳の右肩の服と皮膚を突き破り、闇夜に鮮血の紅が舞う。千歳は肩を押さえ後ずさる。身体には倦怠感が絶えずのし掛かる。さっきの能力の反動だ。
「ちくしょう、なんだってこんな時に!」
千歳は焦り混じりの声で吐き捨てた。千歳は鎌を握り直し悪魔を睨み付けた。悪魔は爪に付いた千歳の血を嬉々として舐め取っていた。たとえ兄の姿をしてはいても目の前にいるのは悪魔でしかない。あれを野放しにしてしまうとここにいる人々を危険に晒す事になる。千歳は意を決し鎌を構え悪魔へ突っ込んでいった。
「ようやく戦る気になったか。だが。」
千歳が鎌を振り下ろそうとした瞬間悪魔の表情が変わった。千歳の動きが一瞬止まる。悪魔は微笑んでいた。千晶が千歳にしていたように。
「しまっ…。」
しまった、そう思った瞬間千歳は横から巨大なハンマーで全身を殴られたような衝撃で壁に叩き付けられた。ゴバッという音と共に千歳は大量に血を吐いた。
「どうだァ?俺様の必殺技。圧縮した空気ででけえ衝撃を作り出すんだ。まあ一つの戦いで一回しか使えないが今のお前ならこれ一発で充分だよなァ。あはははは。」
悪魔の高笑いを聞きながら千歳の意識は遠退いていった。
雛依は何か嫌な気配を感じ目を覚ました。雛依の部屋からはちょうど屋上が見え、雛依が身体を起こした時に目に映ったのは見えない何かに千歳が弾き飛ばされるところだった。
「えっ!千歳君!?もうあの悪魔がきたっていうの!?早く行かなきゃ。」
雛依は思わず窓に駆け寄り、窓を開けようとしたが鍵はかかっていないのに窓は開かなかった。
「何で?鍵かかってないのに。」
特に立て付けが悪い訳ではない。普段普通に開け閉めしている窓だ。雛依は引き方を変えてみるが結果は変わらなかった。
「千歳君が張った結界だよ。」
十六夜はふっとわいたように現れた。
「十六夜さん!私を千歳君のところへ行かせて。」
雛依は十六夜にすがりつきそう言った。しかし十六夜は首を縦には振らなかった。
「それはできない。」
十六夜は雛依の手をそっとはがした。だが雛依は十六夜の手を振り払った。
「じゃあ何で私に今日の事を話したんですか。私を狙っている悪魔が千歳君のお兄さんを殺した悪魔でその悪魔は今千歳君のお兄さんの姿をしている話を!」
雛依は泣き出しそうな顔でまくしたてた。千歳が倒れた日、十六夜と雛依が話していたのはこの事だったのだ。十六夜は全て知った上で雛依に千歳をつけていた。十六夜は言葉が出ない。全ては自分の蒔いた種なのだ。十六夜自身雛依を巻き込んでおきながら未だに葛藤があった。雛依という只の人間を死神と悪魔の戦いの場に連れ出していいものかまだ迷っていた。あくまでこれは死神と悪魔の戦いであり、雛依のようなまだ普通の人間がただで済む100%の保証など死神の長である十六夜自身にもわからなかった。
「十六夜さんに葛藤があるのはわかってます。でも、それでも私は千歳君を助けに行きます。」
雛依自身は何の迷いもなかった。十六夜はふう、と一つため息をつくと首にかけていたペンダントを雛依の首にかけた。ペンダントにはエメラルドのような石がついていた。
「このペンダントをかけていれば君の周りに悪魔に対する結界ができる。よほど執拗に攻撃されないかぎり生者の君は大丈夫だ。」
十六夜は雛依の手を引いた。そして屋上へ続く階段を上り扉の前で何やら陣を書いた。
「ここから先は死神と悪魔の領域だ。気を付けて。」
十六夜の言葉の後雛依は黙って扉を開けた。
「もう終わりか?」
悪魔の言葉に失いかけた意識を取り戻し千歳は立ち上がった。幸い両足両腕は無事だったようだ。しかし出血が多くあまり長くは戦えないだろう。満身創痍の千歳を見て悪魔が千歳に追撃を加えんと腕を振り上げた瞬間千歳が張った結界がぐにゃりと歪んだ。突然の事態に悪魔は動きが止まり千歳は驚き、目を見開いた。結界の歪みの中心にいたのは雛依だった。
「人間じゃ〜ん。」
悪魔は突然現れた馳走に狂喜した様子で雛依へと突っ込んでいった。雛依は頭を抱えるようにして身体を小さくした。
「くそっ!」
千歳は地を蹴り勢いよく雛依の前へと飛び出した。鎌と爪がぶつかり合い金属音が辺りに響く。
「何しに来た!ここは人間のいていい領域じゃない!早く戻れ!」
悪魔を抑えながら千歳は叫ぶ。先程負った傷で千歳には余裕がなかった。雛依は震える声でだがしっかりと叫んだ。
「千歳君聞いて!千歳君のお兄さんの魂は今も浮かばれずあの悪魔の中にあるの!今ならまだ悪魔を倒せば千歳君のお兄さんは、お兄さんの魂は救われる。」
千歳が鎌を振り下ろすと悪魔は一度遠ざかった。雛依の身体は震えていて恐怖を隠しきれていない様子だった。それでも来たのだ。ただ一つの事を伝える為に。
「千歳君、見た目に惑わされないで。お兄さんをたすけよう?」
千歳はため息をつくと指を鳴らし呟いた。
「自動演奏《狂戦士》」
するとバイオリンは誰に弾かれる事もなく勝手に音色を奏でだした。曲が流れると同時に千歳の纏う雰囲気がガラリと変わる。
「下がってろ。」
千歳は雛依にそう声をかけ、雛依は黙って壁際へと下がった。
「あっは!やっと本気出すの。」
悪魔は笑いながら千歳を見た。先程の衝撃で両手足は無事でも内臓破裂と肋骨が何本も折れている。本来なら立ち上がる事さえ困難な程の身体。
「そんなんで俺様を殺れんの?」
悪魔がそう言った瞬間悪魔は背後からコンクリートへ激突させられた。悪魔は混乱した。悪魔が顔を上げると悪魔がいた場所では千歳が鎌をくるくると回していた。千歳は悪魔が立ち上がるのを待たず鎌を振り回しながら次々と斬撃を繰り出す。悪魔は爪で斬撃を反らし何とか直撃は免れていた。千歳は悪魔の顎を蹴りあげ悪魔を宙へ放り投げると自身も高く跳躍し空中で身動きが取れずにいる悪魔に向かって鎌を振り下ろした。悪魔はすんでのところで斬撃を避けた。
「こいつ、さっきまでと全然動きが違う!」
悪魔は焦っていた。兄の姿をしていれば攻撃できないとたかをくくり千歳の力量を読み違え必殺技を早く使いすぎた。悪魔は体勢を立て直し再び千歳へ向かって突進した。悪魔はこう考えていた。鎌のような長物だと懐のガードが疎かになると。
「鎌だったら懐に入っちまえば!」
千歳は悪魔の爪をひらりと避けると、悪魔の足元を蹴り足を払った。
「うおっ!」
悪魔は体勢を崩し前のめりになる。しかし悪魔は身体をひねり千歳に攻撃をしかけた。しかし金属音と共に悪魔の爪は途中で折れて飛んだ。千歳の手にはいつの間にか鎌ではなく短剣が握られていた。
「なっ!?」
千歳は短剣で悪魔の腹部を切りつけた。悪魔は血を飛び散らせよろよろと千歳から離れる。悪魔の表情に既に余裕はなく代わりに恐怖が張り付いていた。分が悪いと思ったのだろう、悪魔は千歳に背を向け逃げようと羽根を開いた。千歳は再び鎌を出現させると悪魔を背後から切り捨てた。悪魔は斜めに身体を裂かれた。悪魔の断末魔が響き悪魔の羽根ははらはらと舞い散った。悪魔の身体はコンクリートへと落ち千歳はその傍に着地した。そこでバイオリンの音色は止まった。バイオリンの音色が止まると同時に千歳は地に膝をついた。
「千歳君!」
雛依は千歳に駆け寄った。千歳は血にまみれていたがそれはもう千歳の血なのか悪魔の返り血なのかわからなかった。
「う…、千歳…。」
悪魔だったモノはゆっくりと千歳に手を伸ばした。千歳は悪魔だったモノをそっと抱き上げた。悪魔の魂は消え去り今この身体に残っているのは千晶の魂だけだった。千晶の頬に滴がポタポタと落ちた。
「ごめん兄さん。俺…二度も兄さんを…っ。」
千歳は苦しげにこぼした。自分の願いのせいで千晶は悪魔に殺され、喰われた。そして今は自らの手で千晶を死に追いやろうとしている。千歳の中には後悔という言葉では表せない程の感情が溢れていた。千晶はふっと微笑むと千歳の頭を撫でた。
「いいんだ千歳。俺の弱さが悪魔の付け入る隙を作っちまったんだ。お前は何も悪くない。」
千晶は黙って涙をこぼす千歳を何度も何度も優しく撫でた。雛依は黙ってその様子を見ていた。千晶は雛依に気が付くとある物を指差し、取ってきてほしいと頼んだ。雛依は黙って頷くと千歳のバイオリンを持って戻ってきた。千晶は千歳の腕の中から出て胡座をかいた。
「なあ、最後に聴かせてくれないか。千歳のバイオリンもう久しく聴いてないんだ。」
雛依は千歳の手を取るとそっとバイオリンを持たせた。千歳は黙ってバイオリンを構えた。
千歳の奏でた鎮魂歌は病院のみならず街をゆく人々の心までも穏やかにしていった。座ってバイオリンを聴いていた千晶だったがふいに立ち上がった。
「そろそろ逝くよ。」
千晶はそう言って千歳の肩に手を置いた。
「待ってくれ兄さん!俺まだ…っ!」
千晶は自分の腕にすがる千歳の額を指で弾いた。
「ばぁか。自分の仕事はちゃんとしろよ。」
生前二人であちこち駆け回った時千歳が仕事を面倒くさがった時に千晶がよく言っていた言葉だった。
「俺はまたお前のバイオリンが聴きたかっただけなんだ。もう未練なんてねえよ。」
千晶はにかっと笑った。千歳は額を押さえながら少し恨めしげに千晶を見た。雛依はその様子を穏やかに見守っていた。
「じゃあ逝くわ。また会えたらいいな。」
そういうと千晶は柔らかな光に包まれた。千歳と雛依は黙って千晶を見送った。
「お兄さん、ちゃんと行けたんだね。行くべきところに。」
千晶が消えた後雛依は呟いた。しかし返事は返ってこなかった。
「千歳君?」
雛依がそう声をかけた瞬間千歳の身体はぐらりと傾き鈍い音をたて倒れた。千歳の立っていた場所にある血溜まりに雛依は言葉を失った。
「あらぁ派手にやったわねえ千歳ちゃん。」
ふいに女の声が響く。雛依が驚いて背後を振り返ると緑の髪の女が浮いていた。そのすぐ後ろから現れた十六夜は顔をしかめた。
「狂戦士を使ったか!」
緑の髪の女は千歳の傍らに舞い降りるとため息をつく。状況が飲み込めず一言も話せずにいる雛依を見かねて十六夜は言った。
「雛依ちゃんは見ていたと思うが千歳君の自動演奏の中でも『狂戦士』はかなり危険なんだ。満身創痍の時にしか発動できない代わりに身体の限界を越えた力を発揮する。しかし千歳君のような能力の負荷が確実に身体に跳ね返る場合は危険度は並外れて高いんだ。」
十六夜の顔色から雛依は千歳が危ない状態なのは理解した。緑の髪の女は千歳に触れ千歳の状態を確かめた。
「十六夜さん、ギリギリだけどいけそう。」
十六夜は安堵したようにふうと息を吐いた。
「始めてくれ。飛鳥君。」
緑の髪の女、飛鳥はウエストバッグから釘のような太さの棒を束で取り出した。飛鳥は千歳を仰向けに寝かせると棒を上へと放り投げた。棒は千歳の身体へ急降下し両手の甲を始めツボと思われる箇所にドスっという鈍い音と共に突き刺さった。千歳は意識がないせいか身動ぎもせず、雛依は思わず目を背けた。
「ごめんねー雛ちゃん。痛そうだけど私の力を使うにはこれが一番効率がいいんだよねぇ。」
飛鳥はそう言うとふうと息を吐き、気を集中させた。飛鳥が千歳の身体に刺さった棒の上に手をかざすと淡い緑の光が輝きだした。
「私の力はねぇ身体にこうやって針を刺す事で私の持つ癒しの気を身体の中に入れるの。」
針は緑の光を自身に吸収し、消えた。
「さ、ここからが勝負だよ。」
飛鳥は十六夜に目配せし、十六夜は飛鳥へ手を伸ばした。十六夜の手からは電撃が放たれ飛鳥の身体を撃った。
「えっ!」
雛依は驚いた。飛鳥はその電撃をものともせず電撃を浴びているのは千歳の方だった。
「私の電撃は飛鳥の力を経由する事で千歳君の身体の内部の神経信号とリンクできる。身体の細胞を直接活性化するから中の怪我はこれでどうにかできるんだ。」
雛依は改めて死神は人智を越えた存在である事を認識した。
雛依は外出許可を取りある場所へ向かっていた。電車で一駅、隣町のあるマンションに雛依は入っていった。雛依はエレベーターが上昇するにつれ心臓の音が大きくなっていくように感じた。
「十六夜さん鍵はいつでも開いてるって言ってたけど大丈夫かなあ。」
雛依はエレベーターを降り、ある部屋の前で立ち止まる。雛依はごくりと唾液を飲み下した。恐る恐るドアノブに手をかけると扉は易々と開いた。
「お邪魔しま〜す…。」
雛依はそっと中に入った。中は最低限の家具とバイオリンの手入れの道具が並んでいた。部屋の隅に置かれたベッドにはまだ千歳が寝ていた。普段は蝸牛のようになっているのだが今日は普通に横になっていた。雛依はベッドの脇に座るとそっと指を伸ばした。千歳の頬をぷにぷにとつつく。十六夜曰くここは死神の住むマンションで街の人々はどこかの会社の社宅だと思っているらしい。運がよければ十六夜や飛鳥以外の死神にも会えるという。死神しかいないから鍵を開けっ放しでも大丈夫かといったらそうでもないのでは、雛依の千歳への疑問は膨らむばかりであった。人が勝手に部屋に入っても目を覚まさないあたり部屋の物色を許してしまいそうだ。
「勿論物色します。」
千歳が熟睡しているのをいい事に雛依は部屋の物色を始めた。まずはタンスを開ける。
「うわ、黒い…。」
タンスの中身は黒いTシャツに黒いカーディガン、黒いズボンと唯一ワイシャツだけが白かった。
「だよねーもうちょっと赤とかほしいよねー。」
雛依の背後からいきなり女の子の声がした。雛依が驚いて振り替えると雛依と同い年くらいの黒髪でゴスロリ少女が立っていた。
「千歳の担当の子でしょ?あたしは柊、死神だよ。」
柊はにかっと笑うと雛依に抱き付いた。
「うー!聞いてたより可愛い!」
雛依は柊の勢いに押され床に倒れた。
「ひっ柊さん、あんまり騒いだら千歳君起きちゃうよ。」
何やら奇声を発しながら雛依に頬擦りしてくる柊はけろっと普通に戻った。
「大丈夫よぅ、千歳昨日狂戦士使ったんでしょ?飛鳥さんと十六夜さんの治療受けた後でもしばらく気を失ったみたいに眠り続けるから平気よぅ。」
柊はさして気にも留めていないように言った。
「それにしても滅多に使わないのに。よほど早くケリつけたかったのねえ。」
柊は千歳をちらりと見た。柊が離れた隙に雛依はそろそろと逃げようとした。
「逃がさないよ雛依ちゃん。さあ、あたしの着せ替え人形と化すのだあ!」
雛依の悲鳴は声にならなかった。
千歳があまりの騒がしさに目を覚ますと目に飛び込んできたのは散らかった自分の部屋と鼻息を荒くした柊と柊に服を剥ぎ取られている雛依だった。千歳が目を覚ました事に驚いた雛依は顔を真っ赤に染めた。服を剥がれているのだから無論下着姿なのだ。少しの動きでたゆむ双丘は恐らくEカップ程はある。千歳は少し顔を赤らめた後、頭まで布団を被り目の前の現実から目を反らした。
「ちょっと!助けてよ千歳君!」
雛依は悲鳴を上げた。千歳は身体を起こしベッドから立ち上がると渾身の力を込めて柊の頭を殴り、首の根を掴んで窓からベランダへ放り出し鍵をかけた。
「寒いっ!入れてください!すいません!」
柊は涙ながらに懇願したが千歳は無情にもカーテンを閉めた。千歳は雛依に毛布を投げると再びベッドに潜り込んだ。雛依は慌てて服を着ると乱れた髪を直した。
「具合悪いのにごめんね。騒いじゃって。」
雛依は部屋を見渡した。入ってきた時にはきれいに並んでいた物が床に散乱しかなり散らかっている。
「自分で片付けるから置いといてくれるか。それより何しに来たんだよ。」
千歳はかなり苛立っているようで声が普段よりさらに低かった。
「心配だったから。十六夜は大丈夫だって言ってたけど私…。」
雛依は少ししょぼくれた様子で言った。外からはひっきりなしに柊の窓を叩く音が聞こえる。このマンションにいる間は人間らしくあらねばならないという決まりがあり、人間離れした身体能力は使ってはいけないらしい。つまりは柊は部屋の中の人物に中に入れてもらえないと寒空のした孤独に晒されるのだ。
「千歳ぇ、悪かったからぁ。寒いよぅ。」
あまりに柊が騒いだ為に千歳はもう一度布団から出るとカーテンを開け、窓を開け、そして柊の首根っこを掴み向かいの部屋に放り投げた。その上扉を閉めると鍵をかけチェーンまでつけた。窓を閉め、カーテンを閉じると千歳はベッドに座ってため息をついた。普段の千歳はあまり足音を立てずに静かに歩く。しかし今の千歳はあまりに腹が立っているのかバタバタと足音を立てていた。雛依は少し驚いたように固まり、そして笑った。
眠れなくなった千歳は雛依と部屋を片付けた後コーヒーを飲む事にした。
「ねえ千歳君。何故冷凍庫がアイス置き場になってるの?」
キッチンを物色していた雛依は冷蔵庫を見て首を傾げた。本来なら野菜や肉類等が入っている場所には何も入っておらず代わりに冷凍庫にはこれでもかという程のアイスクリームが詰まっていた。
「千歳君まさかアイスで生活してるんじゃ…。」
まるで隠し事がばれた時のように千歳はそっぽを向く。
「死神は人間程食事を摂らなくても大丈夫なんだ。だからアイスだけでも生活できる。」
雛依はキッチンを見渡す。コンビニ弁当や冷凍食品のゴミすら見つからない。どうやらこの死神は本当にアイスで生活しているようだ。千歳はコーヒーメーカーでコーヒーを淹れるとミルクも砂糖も入れずに口をつけた。雛依はそれを見てどれだけ黒に拘るのかと呆れに近い感情を抱いた。ふと雛依は疑問を感じた。
「千歳君って今何歳?」
見た目は雛依と同じぐらいに見える。
「死んだのが二年前で17だったからほんとなら19だな。」
千歳が事故にあってしばらくは週刊誌も喧しく記事を書き立てたが千歳が死ぬ間際の復帰は絶望的の記事を最後に千歳を取り上げる事はなくなった。死神になって周囲から千歳の情報が消えたという事だ。
「死神は人間程年を取らないから俺はまだあの時のままなんだろうな。」
千歳は少し遠い目をして言う。何か悪い事を聞いた気がして雛依が何か声をかけようとしたその瞬間玄関の扉が部屋の中に飛び込んできた。
「やあ、公爵!柊に珍しく起きていると聞いて見舞いに来たぞ!」
雛依は驚きのあまり必要硬直し、千歳は大きなため息をついた。扉があった場所には中世の貴族が着ていそうな服を着た金髪の男が立っていた。
「うむ!」
何やらポーズを決め得意気な男は次の瞬間怒りが爆発した千歳にアッパーカットで天井まで飛ばされた。
「姫君よ、紹介が遅れて申し訳ない。私はジャン・ピエールだ。生まれはフランスでれっきとした貴族の出さ。」
ジャンはそう言うと雛依の手を取り手の甲に口づけた。雛依が更なる驚きに石化した直後千歳に胸ぐらを掴まれジャンは小さく悲鳴を上げた。
「あんまり調子に乗るとあれを聴かせるぞ?今ならお前1人くらいなら狂わせてもいい気分だ。」
千歳は口元は笑っていたが目が少しも笑っていなかった。
「公爵、今の貴方はまるで悪魔の様だ。『狂』シリーズのコンプリートは勘弁願いたい。」
ジャンはぞっとした様子でそう呟いた。硬直状態から復帰したのか雛依は千歳の隣に座った。
「ジャンさん、何で千歳君は公爵なんですか?」
雛依がその言葉を発するとジャンは待っていましたとばかりに立ち上がった。
「死神の中では長の十六夜殿が一番強い、しかしその次に強いのは千歳殿。十六夜殿を王とするならばその次に力があるのは公爵という訳だ。」
雛依はジャンの話にうんざりした様子の千歳を見て苦笑いを浮かべた。それにしても今日の千歳は普段のクールでぶっきらぼうな印象とは違い怒りっぽく割りと感情が顔に出ていた。雛依はそれを見て少し嬉しく思っていた。
ジャンに扉を修理させ一息つくともう外はかなり日が傾いていた。雛依が腕時計を見ると時刻はすでに5時を回っていた。
「えっもうこんな時間!?大変早く帰らないと。」
雛依が慌てて帰り支度を始めるとそれまでベッドに転がっていた千歳はおもむろに服を着替えだした。一言も声をかけずに服を脱ぎだした為雛依は驚いて目を反らす。
「日が傾くと悪魔が活発になる。小物でも油断はできないから送っていく。」
雛依は後ろを向いて膝を抱えた。胸の音がやけに煩く感じる。顔がなんだか熱かった。千歳は着替えを済ませるとクローゼットからヘルメットを取り出した。そして柊の部屋のインターホンを押した。
「メット貸してくれ。」
すると程なく柊がにやにや笑いながらゴスロリにデコレーションされたヘルメットを持って玄関に現れた。「うふふふ。はい。」
柊は千歳にヘルメットを渡すとすぐに中へ戻る。
「何だよ気持ち悪いな。」
千歳は柊が部屋に入った後ボソリと呟き雛依にヘルメットを放った。
「わっわっ!」
雛依は何とかキャッチすると立ち上がり先を歩く千歳を追いかけた。マンションの裏の駐車場にあった千歳のバイクはやはり黒だった。
「後ろ、乗れよ。」
千歳は先にバイクにまたがると雛依に声をかけた。
「えっ!?う、うん。」
雛依はどうにかヘルメットを被り千歳の後ろにまたがり千歳の肩に手を置いた。
「ちゃんと腹つかまっとけよ。途中で落ちるぞ。」
千歳はそういうとエンジンを吹かしバイクは走り出した。
「えーっ!?待ってよ!あうぅ。」
雛依は慌てて千歳に抱きついた。自然と密着する形になる。千歳の体温を感じて心臓の音は高まるばかりで雛依は千歳にこの音がどうか聞こえませんようにと祈っていた。
電車で一駅の距離の為病院にはあっという間に着いてしまう。雛依は少し名残惜しい気持ちになった。柊にヘルメットを返してくると言って千歳はバイクの向きを変え走り去った。千歳の背中を見送りながら雛依はため息をついた。雛依は1人病室に帰ると寝間着に着替え今日の事を思い出していた。
「あんなに感情むき出しの千歳君初めて見たなぁ。」
するとどからともなく十六夜が現れた。
「千歳君は君と出会った事で人間らしさを取り戻しつつある。いい傾向だよ。」
何やら機嫌がよさそうな十六夜に対し雛依の方は不信感が露になった表情だった。雛依はベッドに腰かけると少し歪んだ笑みを見せた。
「全て目論見通りに進んで気分がいいですか?貴方は本当に性格が悪いです。」
そう言うと雛依からは皮肉げな笑みすらもなくなった。
「あと半月もすれば命が尽きる私に恋なんて気持ちを芽生えさせるなんて。」
十六夜は少し困ったように眉を傾けた。
「まあ、そこは私には専門外だな。あとの半月をせめて満足のいくように過ごしてくれ。」
十六夜はそう言うと姿を消した。雛依はベッドから暗くなる空を見上げ一筋の涙を流した。
「どうした?何で泣いてる。」
背後から突然千歳の声がして雛依は驚いて振り返った。
「えっ!帰ったんじゃなかったの?」
千歳はため息をついた。
「柊にメット返してくるって言っただろ。死神も余ってる訳じゃない。寝ないんなら仕事するさ。」
千歳はそう言うと雛依の隣に腰掛け、雛依の涙を指でそっと拭った。
「死神って死ぬ前に願い事を一つ叶えてくれるって本当?」
雛依は千歳の肩に頭を預けながらそう聞いた。
「ああ、まだ言ってなかったな。この世に未練を残さない為にある程度の事は叶える。」
この世への未練があると魂が上手く行くところへ行かず悪魔の餌食、または悪魔そのものの種になる事がある。そういう事を減らす為に確立された業務だ。世界征服など他者に迷惑がかかったり実現不可なもの以外は大抵叶えられる。雛依はそれを聞いて心を決めた。雛依は千歳に向かってキチンと座り直し深呼吸をした。
「私の願い、聞いてくれますか?」
千歳は黙って雛依に向き直った。まっすぐ見つめられ雛依の心臓は足早に鼓動を打つ。全身の血液が頭に昇ったように顔が熱く感じた。
「残りの時間私を千歳君の恋人にしてほしいの。」
極度の緊張で呼吸も危うい中、雛依はその言葉を捻り出した。二人の間にしばらくの沈黙が流れる。時計の秒針が時を刻む音がやけに大きく響いた。雛依の中には期待と不安が入り混じり心境は複雑だった。
「…本当にそれでいいのか?…後悔…しないのか?」
千歳の言葉に雛依は静かに頷いた。千歳はどこからか小さな手帳とペンを出すとさらさらと白いページにペンを走らせた。
「ここに書いた事が実行されたらその人間は未練がなくなったという事になる。」
千歳は手帳をしまうと再度雛依に向き直った。
「願いを叶えるよ。……雛依。」
千歳が最後まで言い終わらない内に雛依は千歳に抱きついていた。
「二人ともまだ知らないんだね、あの事。」
マンションの屋上で柊は呟いた。隣に立っていたジャンは鉄柵にもたれニヤリと笑った。
「十六夜殿の性格だ、土壇場になってから真実を告げるのだろう。」
それを聞いて柊は笑った。
「だろね。あの人の性格の悪さは筋金入りだし、そのくせ儚い恋愛とか好きだから二人なんていいカモだね。」
柊は手にぶら下げていたヘルメットを被ると何処からともなく箒を取り出した。
「魔法少女を気取るなら帽子を被ったらどうだ?」
箒にまたがり地を蹴り空へ飛び立たんとする柊に向かってジャンはそう言った。柊は箒から降りるとそのまま箒でジャンを殴った。それも何度も。
「魔法少女とか狙ってないし!単に空を飛ぶイメージを沸かせる為に箒乗ってるだけだもん!」
ゴスロリ少女に箒で殴られる貴族の青年という状況は何ともシュールな光景だった。
明くる日千歳は本屋にいた。立ち読みしていた雑誌にはデートの名所や恋人付き合いを円滑にする方法が書かれていた。雛依の願いを叶えるとしたものの生前はバイオリニストの仕事が忙しく恋人付き合いなどした事がない千歳には少々手強い願いだった。千歳はレジに行くと精算を済ませ本屋をあとにした。病院に入ると千歳は受付で面会者の欄に名前を書き雛依の病室へ行った。雛依から出された条件の一つに雛依と行動する際は常に姿を現すというものがあり、千歳が雛依にのみ姿を現すというのは妙な誤解を生みかねないという事だった。千歳が雛依の病室へ入ると雛依は点滴の最中だった。眠っているのか雛依は目を閉じている。千歳はベッドの脇の椅子に腰掛けため息をついた。千歳は先程購入した雑誌を取り出しパラパラとページをめくる。
「来てたんだ。起こしてくれればいいのに。」
しばらくして目を覚ました雛依は千歳を見るとそう言った。千歳は雑誌を閉じるとふうと息をついた。
「まだ昼だし具合いいならちょっとどこか散歩でも行くか?」
千歳がそう言うと雛依はきょとんとした表情の後耳まで赤くなり口元を手で覆った。
「一條さーん、点滴終わりましたか?」
そんな少し間延びした声と共に看護師が中へ入ってきた。看護師は千歳の姿を見ると少しぎょっとした顔になった。
「一條さん不良とお付き合いしてるの?」
看護師は雛依に耳打ちする。雛依は少しショックを受けたようで何ともいえない顔をしている。年格好は雛依と変わらないのにまるで老人のような真っ白の髪は看護師には不良が脱色したように見えたらしい。千歳には聞こえないようにしたつもりらしいが千歳はしっかり聞いていた。
「この髪の事ですか?これには少し訳がありまして……っ。」
千歳は暗い表情をして少し俯いた。
「えっ、ごめんなさい。そんなつもりじゃ。」
看護師は申し訳なさそうにそう言うとてきぱきと点滴を片付けるとせかせかと部屋を出ていった。看護師が部屋を出ていった後千歳はため息をついた。
「強いショックを受けると髪が一気に白くなる現象があるだろ。あれだよ。」
そう言った直後千歳は部屋の中に流れる暗い空気に気が付いた。普段は明るく振る舞っている雛依は今はぼんやりとどこか焦点が定まらない様子だった。
「大丈夫か?」
千歳が声をかけると雛依ははっと我に返った。
「ごめんね、何かぼんやりしちゃって。」
雛依は困ったように笑った。
「まるで夢の続きを見てるみたい。千歳君が私の恋人になってくれるなんて何だか現実味がないなあ。」
雛依がそう言うと千歳は雛依の前髪をかきあげ額を指で弾いた。
「痛い!何するの!?」
雛依が額を押さえ涙目で文句を言うと千歳はふっと少し口角を上げた。
「安心しろ、現実だ。」
雛依はまた顔が赤くなった。普段無表情な千歳が微笑んだのだ。
「着替えるから待ってて。すぐ行くから。」
雛依に言われて千歳は病室を出た。
「寒い!」
外に出るなり雛依は叫んだ。ある程度の快適な温度に保たれた病院から出ると外はより寒く感じるのだろう。一応コートは着ていたがマフラーは巻いていなかった。千歳は自分のマフラーをほどくと雛依の首にそっと巻いた。
「巻いとけ、風邪ひいたら大変だからな。」
雛依はマフラーに顔を埋めるとふふふと笑った。海が近い為二人は海へ行く事にした。冬の海はほとんど人がおらず千歳と雛依は二人だけで砂浜を歩いた。砂浜に二人の足跡が寄り添うように点々と刻まれていく。それをさざ波がまるで飲み込むように消していた。
「誰もいないねえ。」
雛依は白い息を吐きながら呟いた。千歳は辺りを見回し伸びをした。
「冬だからな。寒くないか?」
雛依は首を振った。特に風は吹いておらず波も穏やかだった。二人は海の家の階段に座った。
「ねえ、バイオリン弾いてよ。」
千歳が肩からバイオリンケースを下ろしたのを見て雛依は言った。千歳は一瞬面倒くさそうな表情をしたがすぐにケースを開いた。中には丁寧に手入れされ光沢を放つバイオリンが収まっている。弓とバイオリンを取り出し、ケースを閉じると千歳は立ち上がりバイオリンを構えた。
「何が聴きたい?」
雛依は少し考えるとパッヘルベルのカノンをリクエストした。千歳はふうと息を吐くと弓を弦に滑らせた。柔らかな音色が溢れだし浜辺を優しく撫でていく。雛依も目を閉じ聴き入った。道を歩いていた人も立ち止まり耳を澄ませる。能力を使わなくても千歳が奏でる音は人を惹き付け癒す力があるのだ。千歳が曲を弾き終わると周りから拍手が起こった。弾いている間目を閉じていた千歳は目を開くと驚きの表情を浮かべた。いつの間にか浜辺に人が集まり雛依と共に自分に拍手を送っている。その光景は生前演奏会を回っていた記憶と重なり千歳の胸を打った。千歳は少しはにかむと深々とお辞儀をした。雛依はそれを少し複雑な表情で見守っていた。一昨日の出来事を経て千歳は人間らしさを取り戻した。まずは涙、悲しみ、怒りそして笑顔。出会った時は会話すら成立しなかったのに今では雛依とも普通に会話している。千歳が変わっていくのを嬉しく思う反面身の内に沸き上がる感情は悲哀に満ちていた。雛依の顔からは笑顔が消え、代わりに涙が一筋頬を伝った。
「どうかしたか?」
千歳は雛依の隣に腰掛けると雛依の涙をそっと拭った。
「昨日も泣いていたじゃないか、何か理由があるなら言ってくれないか。」
普段の少しぶっきらぼうな話し方ではなく優しく話す千歳に雛依は気持ちを押し隠す事ができなくなった。雛依は千歳の膝に頭を預け、目を閉じた。
「お母さん、延命治療受けさせてくれたらよかったのになあ。」
延命治療を受けたところで劇的に体調が良くなる訳でも寿命を大幅に伸ばす事ができる訳でもない事は雛依にもわかっていた。そして延命する事でその間母親にお荷物扱いされるくらいならこのまま命がなくなってもいいとすら雛依は思っていた。しかしいつの間にかそんな気持ちは彼方へと消え少しでも長く千歳の傍にいたいという望みが大きくなっていく。雛依は黙って涙を流した。千歳は少し躊躇したが雛依の頭を優しく撫でた。千歳が何気なく空を見上げたその時だった。
「雛依、見てみろ。」
千歳に促され雛依が顔を上げると空からちらほらと白い雪が舞い落ちてきた。雛依はそっと腕を伸ばす。雪はまるで時の流れが変わったようにゆっくりと雛依の手のひらへ落ち、そして溶けた。少し残念そうな表情を浮かべた雛依の手に千歳は自分の手を重ねた。千歳の手は温かく雛依の冷えた手を温めていく。
「この温もりはあんたがくれたようなものだ。あの時雛依が来てくれなかったら俺は死んでたからな。十六夜の言葉ではいまいち信じられなかったさ。兄さんの魂がまだ助けられるなんてな。」
唐突な千歳の言葉に雛依は何とも言えない表情になった。十六夜は千歳にかなり入れ込んでいるように見えたのに千歳自身は十六夜を全然信用していなかった。雛依から見ても性格が悪く目的の為なら手段を選ばないような人物だ。実際に長く関わっていると尚更信用ができなくなるのもわかる気がした。
「そうだね、あったかいね。」
雛依は少し困ったように笑った。多分不器用な死神の紡いだ感謝の言葉、それは頬の涙の跡に滲みる潮風より雛依の胸に染みた。
「帰ろうか。」
少し照れたような表情の千歳を横目で見ながら雛依は千歳の手を握り締めた。
「いい感じですねえ。十六夜さん。」
手を繋いで帰る二人を見送ってから飛鳥は皮肉たっぷりにそう言った。隣には十六夜がカンフー服を身に纏い怪しげな拳法の型をやっていた。飛鳥は太もものホルダーから針を数本抜き取る。それを見て十六夜は気をつけの姿勢を取った。
「可哀想、こんな性悪にいいように遊ばれて。」
飛鳥の目はまるで汚い物でも見るかのように十六夜を見据えていた。
「一応生前に伝えてはいけない決まりだし。千歳君に言ったらうっかり雛依ちゃんに言ってしまいそうだからねえ。」
十六夜はニヤリと笑う。
「だから私は雛依ちゃんを利用したのさ。」
飛鳥は十六夜の表情にため息をつく。
「やっぱり十六夜さんはゲスですね。」
飛鳥がそう言うと十六夜は上顎を出っ歯のように突き出し言った。
「そうでゲス!」
飛鳥は呆れて言葉が出なかった。
病院に戻り雛依の病室へ入ると雛依に小学生くらいの子供が飛び付いてきた。
「ねーちゃん!」
雛依は驚いて目を丸くした。
「え、翔太!?どうしてここに…。」
雛依はベッドを囲むカーテンの向こうの人影に気が付いた。
「もしかして。」
雛依の表情は来客を喜ぶものではなく新たなトラブルの出現に衝撃を受けているようだった。カーテンを開いて出てきたのは長身でブランド物のスーツを着た男だった。千歳もあまりいい印象を抱かなかった。その男は雛依の義理の父親だった。
「どこへ行っていたんだ。お前は病人だろ。」
父親の言葉は疑問符がなかった。そっけないというには妙に相手に対する圧力がある。雛依はビクリと身体を震わせる。雛依の様子を見ると雛依は義理の父親に対し心を許していないどころか怯えているようにすら見える。父親自身も親として雛依を見舞いに来たような様子には見えない。身体の具合を尋ねるより先に出歩いていた事を咎めているようだ。父親は雛依の少し後ろに立っていた千歳をジトリと睨んだ。
「何だこいつは。」
父親は雛依に視線を移しまた疑問符のない質問をした。父親の言葉の圧力に雛依は声が出なかった。
「一條さんがこちらに移る前同じ病棟にいた者です。気分転換に散歩を少し。」
千歳は雛依の前に出るとそう言った。普通の人間に死神だという紹介は必要ない。
「翔太、少しロビーで待っていなさい。」
父親はそれまでとは違う優しい笑みを浮かべ翔太に話しかける。翔太は首を傾げながらも部屋を出ていった。翔太が部屋を出てある程度部屋から離れたのを確認すると父親は千歳を押し退け雛依の前に立った。そして腕を振り上げ雛依の頬を殴った。雛依の身体は1m程飛ばされ壁に激突した。「雛依っ!?」
千歳は驚き雛依に駆け寄る。雛依は唇の端が切れ、血が出ていた。千歳が雛依の頬に触れると雛依は痛みに顔を歪めた。
「病人のくせに出歩くとはどういうつもりだ。お前は俺達にどれだけ迷惑をかけてるかわかってんのか!」
千歳の脳裏に以前母親が雛依に対して言った言葉が甦った。二人共親という立場にありながら病を患った娘を迷惑なお荷物としか思っていない。雛依の頬を伝う血を見ながら千歳はマグマのようなモノが身体の奥底からせりあがってくるのを感じた。父親は怒りが収まらない様子で再び拳を振り上げた。雛依が頭を覆ったその時だった。ゴッという鈍い音が響き、少量の血が床に飛び散った。
「千歳君!」
父親も驚いたようで目を見開いていた。
「…連れ出したのは俺です。殴るなら俺を殴ってくれませんか。」
口元の血を拭いながら千歳はそう言った。千歳は爆発しそうな怒りをどうにか理性で抑え込んでいた。自分が怒りに任せて父親をのしたとして雛依を取り巻く環境は変わらない。父親ははっと鼻で笑うと千歳の鳩尾に拳を叩き込んだ。千歳が床に膝をつくと父親は病室の扉を開けた。
「さっさと死ねよ穀潰しが。」
千歳は左手で自分の右の手を押さえた。千歳の右手は手のひらに爪の跡が残るくらい強く握り締められていた。父親は病室を出ていった。雛依は身体を起こすと千歳の頬に触れた。口元は少し痣ができている。
「ごめんなさい、私のせいで。」
雛依の顔は青ざめて声は消え入りそうな程小さかった。千歳に触れている手は冷え切っている。
「俺の方こそ悪かったな。余計な事しちまったみたいで。」
千歳は雛依の方に向き直りそして悶絶した。
「ぐうっ!」
千歳の手は胸の辺りを押さえていた。
「どっどうしたの!?」
雛依は千歳の顔を覗き込む。千歳は悩ましげな表情で言った。
「肋骨イってんの忘れてた。」
雛依はポカーンとした顔をした。どうやら父親の一発が効いたらしい。千歳は胸を擦りながら苦笑いした。
雛依は母親の事は話しても父親の話には触れなかった。雛依にとって父親は母親以上に嫌悪し恐怖し語る事を拒みたい存在であり母親以上に雛依を虐げていた。口答えをすれば折檻が待つ。それで雛依は家政婦としか関わりを持たなかった。
「何で来たんだろ。」
雛依は千歳に絆創膏を貼りながら呟いた。千歳は首を傾げた。
「あっ動かないでよ!」
どうも貼りたかった位置とずれてしまったらしい。千歳は反対側に首を傾げた。
「そういう事じゃない!」
雛依は憤慨して千歳の胸元をぽかぽかと軽く殴った。千歳は悶絶し口を真一文字に結んだ。
「やめてくれ結構響くから。」
千歳は雛依の肩を押さえる。雛依の肩は痩せて細く少し力を入れれば容易く折れてしまいそうだった。あの父親はこんな雛依を殴り飛ばしたのだ。それを思うと千歳の中にまた黒い感情が沸き上がる。
「千歳君は優しいね。」
雛依は千歳の手を開いた。再び握り締められていた拳にはうっすらと血が滲んでいた。
「死神は相手の周囲の人間関係には相手が望まない限り介入出来ない。」
千歳は悔しそうに呟いた。その時ふいに千歳の携帯が鳴った。千歳が携帯を開くと相手は十六夜だった。
「もしもし?」
千歳が電話に出ると十六夜は少し切羽詰まっているような声だった。
「すまないがジャン君の応援に向かってくれ。雛依ちゃんには柊を付けるから。私は別の用件で行けないんだ。」
千歳は電話を受けながら雛依をちらりと見る。雛依は少し困った顔で微笑んだ。
「場所は?」
千歳はあまり遠くない所を願いながら尋ねる。
「イギリスに飛んでくれ。死神のテレポートを使えばすぐだろう。」
電話はそこで切れた。千歳は携帯を床に叩きつけたい衝動をどうにか抑え携帯をポケットにしまった。
「悪い、野暮用で少し傍を離れる。柊が来てくれるらしいからそれまで待っててくれ。」
千歳は焦っているのか早口でそう言うと窓を開け外へ飛び出した。雛依が窓に駆け寄ると千歳の姿はもうなかった。
「雛依ちゃーん!」
雛依が一人窓の外を呆然と見ていると背後から柊がおぶさってきた。今日は甘ロリと呼ばれるピンクと白のロリータだった。ジャンもそうだが皆の格好は死神のイメージからはかけ離れている。
「柊ちゃんお茶入れるね。」
雛依はそう言うと窓辺から離れた。
「千歳今頃ジャンと合流したかなあ。」
柊はティーカップを両手で持ち中をくるくると揺する。雛依はストールを少し手繰り上げた。
「またあんな危ない事するのかな。」
少し不安気に雛依は空を見上げる。柊はクスッと笑うと雛依の肩を軽く叩いた。
「こないだは悪魔に惑わされたみたいだけど普段の千歳は狂戦士使わなくても悪魔に反撃の隙さえ与えない半端ない強さの死神だよ?平気よぅ。」
死神の間では千歳はずば抜けて戦闘力が高く能力の種類も多い事で有名で十六夜もよく他の死神の窮地に千歳を呼びつける。千歳の名は悪魔の間でも有名で悪魔達にしてみれば真の死神と言っても過言ではないだろう。
「そういえばジャンさんが言ってたんだけど千歳君の狂シリーズって何?」
雛依が聞くと柊は指を折りどうやら数えているらしい。考えがまとまったところで柊は口を開いた。
「雛依ちゃんも見た事がある狂戦士は能力を暴走させる事で限界を越えた戦いを可能にする。次の狂宴は悪魔を高揚させ判断力を失わせる。大勢で攻めてきた時に使ったら有効ね。3つ目は狂信者は洗脳に近いわ。相手を服従させる事ができるの、ジャンもよくされてるわ。」
狂信者と狂宴の合わせ技が一番恐ろしいと柊は語った。
「元々楽器を使った能力者は能力が多いけど千歳は攻撃に特化したのが多いからねぇ。」
まだあるけど思い出せないわと柊は記憶のサルベージを諦めた。雛依が想像力を働かせてみると形容し難い光景が目に浮かんだらしく雛依は頭をぶんぶんと振った。柊はそんな雛依を見てまたクスッと笑った。
「雛依ちゃんは千歳の事が好きなんだね。」
柊がそう言うと雛依は照れくさそうに笑った。
「まだ生きていた時からだと3年位片想いしたかな。最初は憧れだったかも。」
恥ずかしそうに頭を掻きながら話す雛依を見て柊は少し困った顔をした。あの事が知れた時雛依は自分達に怒りを感じるだろうか。それとも不信感を持つだろうか。それでもあの事は雛依に伝えてはならないのだ。柊は頭を振り暗い思考を吹き飛ばした。
「狂戦士使う程守りたかったんだなぁ。」
雛依の照れている姿を眺めながら柊はため息をついた。
千歳はジャンの元へたどり着いた。死神のテレポートというのは死神なら誰でも使える能力で目的地に瞬時に移動する事が出来る。場所が特定できなくても同じ死神の座標さえ感知できればその人物のところにつける。千歳が着くとジャンは既に何ヵ所か骨が折れており戦闘は難しい状態だった。悪魔は人型でかなり強力のようだ。
「すまない公爵。」
普段の偉そうな態度とはうって変わりしおらしくなっている。
「気にするな。」
千歳は悪魔を睨み付ける。悪魔は切れ味の悪そうな大剣を持っていた。モーションは振り回す型で懐に入るべきだと千歳は判断した。千歳は体勢を低くすると勢いよく悪魔へ向かって突っ込んだ。
「新手か。」
悪魔が大剣を振り上げた瞬間、千歳は振り上げた事によりガードが甘くなった懐に入りナイフを出すと悪魔の腹を連続して切りつけた。削ぎとられた肉が飛び血が噴き出す。
「なっ速い!?」
動揺した悪魔を尻目に千歳は背後に回り片手剣を出し悪魔の羽を切り落とす。
「ギャアアアッ!」
悪魔が悲鳴を上げたその時だった。千歳は何か背中が泡立つような感覚を覚え後方へ飛んだ。その瞬間千歳の身体を数本の何か槍のような物が貫いた。
「公爵、こいつの能力は針だ。針を飛ばしてくる!」
ジャンが思い出したように叫ぶ。
「馬鹿か!そう言う事は先に言え!」
千歳は身体に刺さった針を引き抜いた。急所は外れていたが針を引き抜いた事で出血がひどかった。
「このサイズで針とか…。仕方ない。さっさとケリつけるか。」
千歳は大腿に刺さった針を抜き、投げ捨てると指を鳴らした。
「自動演奏『雷神』。」
千歳のバイオリンケースが開きバイオリンは勝手に音色を奏で始める。バイオリンが演奏を始めると千歳の身体に沿ってパチパチと火花が散った。一歩踏み出すような動きをした瞬間千歳は悪魔の背後にいた。
「何だとっ!」
悪魔が背後を振り返ると千歳は既に前に回り鎌で悪魔の首を切り落とした。断末魔を上げる暇すらなく悪魔の身体は塵になった。バイオリンの演奏が止まると千歳の回りの火花も消えた。ジャンは身体を起こすとため息をついた。
「すまない公爵、あんたの手を煩わせるなんて。」
千歳は気にするなとでも言うように手をヒラヒラとさせた。ジャンは安心したように微笑むと立ち上がった。
「それでは仕事に戻る。帰りは気を付けて。」
そう言うとジャンはテレポートし消えた。千歳はそれを見送ってから自らもテレポートした。
千歳が雛依の元へ戻ると雛依は既に眠っていた。柊は千歳が帰ってきたのを確認するとごゆっくりと声をかけ部屋を出ていった。部屋の窓を閉め千歳はベッドの脇の椅子に腰を下ろした。そして自分が立っていたところを見ると直径50cm程の血溜まりができていた。屋外ならともかく屋内に血溜まりは流石にまずいだろう。千歳は拭き掃除を始めた。
「千歳君、千歳君の止血を先にしないと掃除は終わらないと思う。」
千歳が雑巾を絞ったところで呆れたような雛依の声が響く。千歳が振り返ると雛依はゆっくりと身体を起こした。血溜まりは依然として拡大を続けている。雛依はため息をつくと引き出しから救急箱を取り出した。
「多分足りないと思うけど。しないよりはましでしょう?してあげるからそこに座って!」
千歳は雑巾をバケツに戻すと椅子に大人しく腰掛けた。雛依は千歳を頭から足までじっくり眺める。
「早く脱いでよ。」
雛依は少し頬を染め千歳に指示を出す。
「…どこまで?」
上着を脱ぎかけ千歳はそう尋ねた。大腿に傷を負っている以上ズボンまで脱がなくてはならないのはわかっているが流石に雛依の前で下着だけになるのはまずいと考えたらしい。雛依は救急箱の角で千歳の頭を殴った。
「全部に決まってるじゃない!千歳君の馬鹿!」
流石に痛かったらしく少し涙目になりながら千歳は言われるがまま下着以外の服を脱ぎパンツ一枚になった。雛依は改めて千歳の傷だらけの身体を見て表情が暗くなる。恐る恐る雛依が千歳の傷口に触れるとじわじわと滲み出ていた血がピタリと止まった。
「な…!?」
千歳は驚いた。偶然止まったとは思えないタイミングで血はピタリと流出をやめたのだ。一方雛依はあまり気にも留めていない様子で傷口にガーゼを当てがい包帯を巻いている。雛依自身は何も動揺した様子もなく手当てを続けている為千歳はあまり深く考えないようにした。手当てが終わり千歳は急いでズボンだけ身に着けると拭き掃除を再開した。着替えも含め一度自分の部屋に帰れば良かったと千歳は少し後悔していた。
「千歳君パンツまで黒だなんてどこまで黒に拘ってるの?」
雛依はやはり呆れたように言う。
「男のバイオリニストは基本黒いタキシードだろ。だから生きてた頃も黒以外はなかなかしっくりこなくてな。学校の制服以外は基本黒だった。」
千歳は再び雑巾を絞った。自分の流した血を千歳は平然と掃除する。雛依はそんな千歳と雑巾から滴り落ちる赤い水を黙って見つめていた。千歳は自分が傷付く事を何とも思っていないようで雛依は少し怖かった。十六夜も恐らく千歳のそんなところを利用し他の死神のヘルプに当てている。その結果千歳の身体は傷だらけになり能力の反動で苦しむ日々を送っているのだ。「何処にも行かないで。危ない事もしないで。」雛依はそんな言葉を吐き出してしまいたくなった。そして彼が自分と関わりを持っているのが仕事だという事を思い出す。優しい言葉も父親から庇ってくれた事も全ては仕事。千歳は少しでも自分に対し愛情を抱いているのか聞きたい。言葉を放つ前から唇が震えた。雛依はベッドを降りて千歳に駆け寄り背後から抱きついた。千歳は雑巾を落としボチャッという音が静かな部屋に響いた。薄い寝間着越しに雛依の体温が血を流し冷えきった千歳の身体を温めていく。千歳は何も言葉が出ず二人は一言も話さず時計の秒針の音だけがやたらと大きく響いていた。沈黙を破ったのは千歳の方だった。
「早く布団に入れ。風邪をひく。」
それは普段のようなぶっきらぼうな少し突き放すような言い方だった。雛依の腕に少し力が入り胸に回っていた手が千歳の肌に爪を立てた。
「千歳君にとって私は仕事の相手でしかないの?」
雛依はどうにか言葉をひねり出す。千歳は胡座をかいて座った。
「わからない。わからないんだ。」
仕事以上の感情は確かにあった。だが千歳はその感情がなんなのかわからずにいた。千歳は恋も愛も知らず死に感情を閉ざし2年もの間戦い続けてきた。ついこの間取り戻したばかりの感情に戸惑いがあっても無理はない。不意に雛依は千歳から離れた。千歳は一気に寒さを感じぶるっと身震いした。雛依は千歳の前に回ると千歳の頭を持ち上を向かせた。千歳がされるがままに上を向くと唐突に唇を塞がれた。雛依の心臓の音がやけに大きく響きつられて千歳の鼓動も早くなる。雛依の唇の感触に動揺し、千歳は唇を離した。雛依を見るとまるで蛸のように赤くなっていてすぐにそっぽを向いてしまった。
「……っ!」
自分がした事とはいえかなり恥ずかしかったらしく雛依は頬を両手で押さえ首をぶんぶんと振っていた。
「ごっごめん!私どうかしてた。」
雛依は慌てて立ち上がるとベッドに潜り込んだ。千歳はしばらくぼんやりしていたがバケツを持つと病室を出ていった。
千歳は雑巾をすすぎながらに言われた事を考えていた。自分が雛依に抱いている感情の正体もわからないまま、片想いの虚しさを抱えさせたまま雛依と関わっていくのは雛依には残酷な気がした。あと余命半月程しか残されていないというのに他のどんな願いよりも自分と恋人になりたいと希った雛依に対して失礼でもある。魂を救ってもらった恩義以上のこの気持ちを形容する術を持たない千歳は雛依に返す言葉がなかった。
「柊ちゃんから千歳君が直帰してきたって聞いてね。服くらい取りに行けばよかったのに。」
十六夜はいつものようにいきなり現れた。千歳が振り返ると十六夜は千歳に紙袋を渡した。十六夜が持ってきた紙袋には着替えと柊からのメモ書きが貼り付けられていた。メモ書きに興味津々な十六夜をちらっと睨んだ後千歳はメモ書きを開いた。
「自分の最後の切り札使うくらい守りたいって事はそれくらい好きだって事だろ。気付けバーカ。(`へ´)」
柊の女子らしい丸い文字が並ぶ。千歳は顔文字に少し苛立ちを覚えたが何故か妙に納得がいった。確かに雷神で運動能力を高めるだけで充分に戦える相手だったにも関わらずわざわざ狂戦士で暴走状態にしたのは無意識下だった。無意識で狂戦士を使う程深層心理には早くケリをつけて雛依を安全な場所に移動させたいというものがあったのだろう。千歳はメモ書きをたたみ、服を着ると少し間を置いて一人吹き出した。気付くきっかけがほんの一言のメモ書きでしかも顔文字混じりの真剣さに欠けるものだとは実に馬鹿馬鹿しく間抜けな話である。そしてそんな些細なきっかけがないと気付けない自分の愚かさに千歳は呆れを通り越して笑えた。
「はっ、あははっ。」
千歳は声を出して笑った。いきなり一人で笑いだした千歳を見て十六夜は不思議な顔をしていた。
「千歳君何だか気持ち悪いよ。」
十六夜はそう言うと姿を消した。千歳は用具入れにバケツを片付けると雛依の部屋に戻った。
雛依の部屋に入るとベッドの上には布団の固まりがあり、鼻をすする音が聴こえる。どうやら泣いているらしい。千歳は少し胸が痛くなる。今雛依が泣いているのは紛れもなく自分のせいなのだ。だがいくら自分の気持ちに気が付いたと言っても戸惑いの方が未だ感情を凌駕している。千歳はふと考えた。自分が葛藤している間にも雛依は死へと向かっていく。母親に見放され父親に虐げられ看取ってくれる者は誰もいない。そんな雛依がどんな思いで自分に恋人になってほしいと願ったのだろう。何よりも誰よりも自分に傍にいてほしかったのではないだろうか。千歳の中から雛依に対する愛しさがだんだんとこみあげてくる。千歳は雛依の髪を撫でた。よく手入れされた髪は指の間をするすると滑り抜けていく。
「雛依。」
千歳は優しく呼びかける。雛依は少し赤くなった目を開く。まばたきと一緒に涙が一筋頬を伝う。千歳は雛依の頬を優しく撫でた。
「やっと気付けたんだ。自分の気持ちに。」
千歳はゆっくりと話す。
「俺は雛依が好きだ。」
雛依は千歳が紡ぐ言の葉を静かに聞いていた。自分に向かう千歳の柔らかな雰囲気に雛依は穏やかな笑みを浮かべる。
「私もごめんね。子供みたいにわがまま言って。」
雛依は頬に触れている千歳の手に自分の手をそっと重ね、安心したように目を閉じた。
翌日千歳は朝早く自分の部屋へ帰った。服を着替えたとはいえあちこちにまだ自身の血や悪魔の返り血が付いたままの為一度シャワーを浴びる必要があり、朝は悪魔の力が最も弱まる時間で帰るならば今の内が最適だった。部屋に入り服を脱ぎ、包帯をほどいていると千歳は異変に気が付いた。
「…傷が…ない。」
雛依は血を止めただけだった筈が傷痕すら残さず傷がなくなっていた。千歳はふと嫌な予感が頭を過った。
「まさか、十六夜達の能力の効果がまだ残ってたんだろ。」
千歳は自分に言い聞かせるようにそう言った。シャワーの栓をひねり頭から湯を浴びる。仄かに赤い水が排水口へ吸い込まれていく。嫌な考えを洗い流すように千歳はガシガシと強く頭を洗った。
十六夜は千歳の部屋をちらりと除いてから自分の部屋へと戻った。十六夜の部屋は飛鳥が日頃から小まめに掃除をしている為きちんと片付いていた。十六夜は七色のスリッパに履き替え部屋に上がる。デスクに山積みになった書類の中から十六夜は分厚いバインダーを手に取った。
「薄々気付いてるんだろう?千歳君。」
悪どい笑みを浮かべながら十六夜はバインダーを開いた。バインダーには雛依の顔写真とプロフィールが綴じられている。バインダーの背には『死神候補者名簿』と書かれていた。
仮眠を取り千歳が病院に戻ると雛依はまだベッドの中にいた。昼食は手をつけておらず薬だけが封を開けられている。千歳はぼんやりと天井を見ている雛依を見て少し心配になった。
「…ちゃんと食べた方がいい。」
雛依は目だけを動かし千歳を見た。
「今日はちょっと具合悪くて。」
いつもの明るさは微塵も感じられない声で雛依は言う。ケアワーカーが食事を片付けに部屋を訪れまたすぐに出ていったが雛依はぼんやりしたままだった。千歳はそんな雛依を見て余計に不安を煽られる。雛依は明らかに様子がおかしい。確かに余命半月の事を考えればある意味この状態が正しいのかも知れないがあまりにも急な変わりように千歳は戸惑いを感じずにはいられなかった。千歳は椅子に腰掛けた。雛依はいつもなら千歳が部屋に入ってきただけではしゃいでいたが今は力なく横になったままで微笑みすら浮かべなかった。
「大丈夫か?」
千歳が声をかけても反応がない。雛依は次第にうとうとし始めゆっくりと眠りについた。千歳はそんな雛依の状態に少し思い当たる節があった。死神の能力の反動からくる体調不良と疲労感。千歳は拳を握り締めた。十六夜は知っていたからこそ雛依を巻き込み悪魔との戦いの場に放り出したのだろう。柊も知っていたからこそ千歳に恋心に気付くように促し、より親密になるように計らった。千歳だけが知らされず十六夜にいいように踊らされていたのだ。雛依が眠りだしどれほど経っただろうか。千歳がふと空を見るとあの日のように瘴気を纏った雲がどんよりと立ち込め稲光がところで光っていた。どうやら高位悪魔が雛依が弱ったのを狙いここへ近付いてきているようだ。その上千歳は複数の悪魔の気配を感じていた。
「…最悪な気分だ。」
千歳は悩んだ。悪魔を討ちに行けば雛依がこんな状態なのに傍を離れる事になる。恋人であるならばここは傍についていてやるべきだろう。しかし千歳は恋人以前に死神であり、悪魔と戦うのは宿命付けられている。そして奴等は雛依を狙ってここへ向かっているのだ。千歳は感情論を打ち消すように自分は死神であり悪魔と戦う為の存在だと強く自分に言い聞かせた。雛依は額に汗をにじませ時折うなされるように小さな呻き声を上げる。千歳は汗を拭ってやると苦しそうに顔を歪めた。感情と愛情を取り戻した故の苦悩。使命と感情の狭間。千歳はゆっくりと椅子から立ち上がり雛依に背を向けた。
千歳は屋上に上がるとバイオリンを取り出し弦を指で弾く。音色は輪を描いて街一杯に拡がっていった。千歳が感知した悪魔の気配は高位悪魔が四体、あとは雑魚と呼べるような悪魔が数えきれない程押し寄せていた。
「狂宴、幻影。」
千歳がバイオリンを弾き始めると下位悪魔達は動きを止めた。判断力を無くさせる効果に幻を見せる効果が合わさりお互いが死神に見えているらしい。下位悪魔達はたちまち同士討ちを始めた。無数の断末魔が辺りに響き渡りやがてそれは静かになっていく。そして下位悪魔が疎らになった頃高位悪魔が姿を現した。
「あぁ、やっとお出ましかよ。」
千歳は鎌を出現させぐるぐると振り回すと悪魔達をまっすぐに見据えた。
柊は病院に向かう途中妙な胸騒ぎを感じ、足を止めた。病院の周囲に異様な瘴気が立ち込めている。こだまする断末魔。そして複数の高位悪魔の気配に柊はそれが病院の屋上に集中している事に気付いた。
「まさか千歳一人で相手するつもり!?」
柊は病院へ向かって走り出した。その時だった。レーザービームと形容するしかない閃光が走った。柊の顔色が変わる。恐らく悪魔の能力が発動したのだ。直線的にしか発動出来ないであろうその能力を補う為に仲間を用意してきたと柊は分析する。残る三体がそれぞれ近接戦闘に長ける鋭い爪、固い皮膚を持っていた。パターンとしてはレーザーでの攻撃を避けた際に生じる隙を叩く、そんな戦いになるだろう。一対四という状況は最悪だった。雛依の病棟には現在雛依以外に一月以内に命を落とす人間がおらず千歳しか死神がいない。しかしこのまま戦いを続ければ最悪の事態になりかねない。柊は意を決し、再び病院へ走った。
千歳は肩で息をしながら前方の悪魔を睨み付ける。結界に閉じ込めているからこそ建物等には被害はないが今のレーザービームは直線上の建物を瞬時に隣街まで消滅させる事くらい容易いと感じさせる威力だった。その力を結界内で相殺するのは容易ではなく、千歳はかなり消耗していた。
「あら私のイカしたレーザー消しちゃったの?」
露出の激しい服を着て豊満な胸元を強調しているその悪魔はニヤリと笑った。
「あぁ、紹介しておいてあげる。この子達はねぇ悪魔の中でも有名な三人組で硬質の拳と鋭い爪と息の合った攻撃で何人もの死神を葬ってきたわ。」
女の悪魔は地面に降り立った。千歳は鎌を握り直すと女の悪魔へと走り出した。上へと飛び鎌を振り下ろすと金属音が響き渡る。肌を硬質化させた悪魔が女の悪魔を庇い千歳の鎌を弾いたのだ。千歳は一度着地し、崩れた体勢を直す。結界を強化する為に体力を温存しておきたかった千歳は能力を使っていなかった。皮膚の硬質化は厄介だった。
「くそっ、分が悪いにも程がある。」
今の千歳に増援を呼ぶ手立てはなく、呼んだとしても仲間を入れる為に結界を緩めその隙を突かれたら街はひとたまりもなく破壊されるだろう。千歳が一人で戦う覚悟を決めたその時だった。千歳の心臓が嫌な音をたて、千歳は地に膝をついた。昨日の雷神の反動が今更身体に現れたのだ。身体に電気を走らせ身体能力のリミッターを外す雷神は心臓等電気信号で動く臓器に異変を引き起こす。そしてそれは最悪なタイミングで起こった。ぐらついた身体を起こそうと力を入れた瞬間千歳の身体を悪魔達の爪が貫いた。
「なあにぃ?全然骨がないじゃない。」
女の悪魔はつまらなそうにそう言った。悪魔達が爪を引き抜くとボタボタと音をたて血が滴り落ちた。千歳はふっと微笑むと自らの手を傷口に突っ込んだ。
「っ!!」
千歳は手を引き抜くと血を辺りに撒き散らした。
「あはっ、頭おかしくなったんじゃない?」
女の悪魔は少し嬉しそうに騒いだ。千歳が何か呟くと辺りに赤い壁が現れた。その壁は四方を囲み空は狭まっていく。壁の出所は千歳が撒き散らした血からだった。
「最初っから……こうしときゃよかった……っ!」
千歳のその呟きに女の悪魔はようやく事態を把握した。辺りの赤い壁を見回し表情を変える。千歳はそれを見ると薄く微笑みを浮かべた。その微笑みは少し狂気を孕んでいた。
「気付いたところでお前らにはどうしようもない。お前らにこの結界…」
千歳はふと言葉を止めた。
「いや、血塊か。悪魔には解く事が出来ない死神の最終手段さ。己ごと悪魔を封じ込める。」
千歳が作り出した壁は巨大な立方体となり地面から切り離される。千歳の顔にはしっかりと隈が刻まれ息も荒い。死神と言えど傷を負えば消耗し戦闘不能にも陥る。千歳は既にボーダーラインを越えてしまっていた。循環器もまともに機能しておらず、傷口からは絶えず血が流れている。女の悪魔はふんと鼻で笑った。
「そんな身体で私らに楯突こうっての?とんだお笑い草だわ!」
女の悪魔は状況に戸惑っている他の悪魔を集め言った。
「あいつはゆっくりいたぶって殺す。精々痛め付けてあげてね。」
女の悪魔が微笑むと三体の悪魔はくるりと向きを変え千歳に襲いかかった。
柊は病院に着くと雛依の部屋へ走った。柊が雛依の部屋に入ると雛依は身体を小さく丸めて震えていた。雛依は柊の姿を見ると泣きそうな表情をした。
「何か悪いモノが蠢いている感じがするの。千歳君もいないし私どうしたらいいのか……。」
雛依のその言葉に柊はルールを破る決心がついた。柊は雛依の肩を掴むと言った。
「雛依ちゃん、お願いがあるの。私と一緒に千歳を助けに行って。」
雛依は少し驚いた表情だった。
「雛依ちゃん、貴女はね死神になる運命にあるの。」
まだ生者である雛依に対し死神になる事を告げるというのは死神の中にある掟に障る行為だった。柊には十六夜からの制裁が待っているが今は制裁を恐れている場合ではない。雛依は驚きに目を見開いた。
「ど、どういう事……。」
柊は事態を受け止められず呆けた表情をしている雛依に話を続けた。
「雛依ちゃんは死神には珍しい結界と癒しの能力に特化した死神になる。雛依ちゃんはあまりにも特別な存在だから十六夜さんは千歳に守らせてたんだ。」
雛依はとりあえず事態を飲み込んだらしい。すぐ助けに行くと言わんばかりに傍にあったカーディガンに手を伸ばす。柊は少し表情を曇らせる。
「今日の件は雛依ちゃんには無理強いは出来ない。」
雛依は少し戸惑ったように動きを止めた。
「何で?早く助けないとなんでしょう?」
雛依は慌ててカーディガンを羽織る。柊はポツリとその理由を口にした。
「人のまま死神の能力を使うと人としての寿命はそこで尽きる。そして決して楽には死ねないんだ。」
柊は拳を握りしめる。残りの半月を雛依が人として生きる権利は柊には奪えなかった。死神になるということは家族との繋がりを絶ち、人以上に悪魔の標的となり戦い続ける事になる。その上絶命する際も苦痛に苛まれ楽に死ぬ事はできない。そんな運命は少しでも先延ばしにしてやりたかった。雛依は優しく微笑んだ。
「柊さんは優しいね、私なら大丈夫だよ。それに私は千歳君の恋人だもの、恋人のピンチにはちゃんと傍にいなきゃ。」
雛依はベッドから降りると柊の手を取った。柊は立ち上がると雛依を連れ屋上へと向かった。
柊がドアノブに手をかけると屋上の扉は容易く開いた。柊は嫌な予感がして勢いよく扉を開いた。二人の目の前に現れたのは巨大な赤い立方体だった。
「あの馬鹿……っ!」
柊の目にはうっすらと涙が滲んでいた。柊は目の前の赤い壁に駆け寄ると壁を何度も叩いた。
「何で!何でこの方法を選んだんだ!これじゃ私達は何にも出来ないじゃないか!!」
雛依はその言葉にこの物体を作り出したのが千歳だと気が付いた。壁の色からして千歳が自分の血を使ったのは一目瞭然だった。
「『死の箱庭』っていうんだ。」
雛依の方に振り返った柊はポツリと呟いた。
「死神のどうしても悪魔が倒せないって時の最終手段。自分の血で作った結界に自分ごと悪魔を閉じ込めてその中で自分が喰われるまで戦うんだ。この結界はそうなるまで誰にも解けない。」
柊の手には血が滲んでいた。雛依は表情を曇らせる。
「千歳が死神になって戦ってくれてたおかげで死神はこれを使わなくて良くなった。どれだけの死神が千歳に救われたか。」
柊は拳を握り締めた。自分達が非力なせいで千歳に最後の手段を取らせてしまった。柊にはそれが何よりも辛かった。雛依はそんな柊の手を取った。
「柊さんは言ってたよね、私は死神には珍しい結界と癒しの能力に特化した死神になるって。」
柊は顔を上げる。
「結界の能力に優れているなら他人の結界への干渉もきっと出来るわ!」
雛依はそう言うと赤い壁に向かい手をかざした。そして目を閉じ意識を集中させる。すると不思議な事に身体の中から力が溢れてくるのを感じた。ついさっきまで死神の自覚など欠片もなかったのに土壇場になると身体も意識に順応してくるらしい。雛依は手に意識を集中させた。
「自動演奏『狂戦士』、リミッター解除。」
千歳はそう言った途端大量の血を吐いた。暴走状態に陥る狂戦士のリミッターを解除したのだから身体への負荷は計り知れない。千歳は斧を出現させると一体目の悪魔の頭を叩き割り、斧を器用に振り回しながら関節ごとに四肢を分断していく。
「ギャアアアア!!」
悪魔の悲鳴が響き渡る。能力のリミッターを外しているからこその動きだった。死神であってもこれ程の傷では普通は動く事は出来ない。悪魔が地に伏したその時だった。ピシッと音をたて壁に小さなヒビが入った。
「な……っ!」
千歳がヒビの存在に気付くと同時に女の悪魔はニタリと笑う。そしてゆっくりとヒビのある場所へ指を差した。悪魔の指先に淡い緑の小さな光の玉が現れた。玉の大きさから先程の街を破壊できる程の規模ではないだろうがヒビを狙い撃ちされれば結界は持たないだろう。結界を張り直す猶予はない。悪魔の指先からレーザーが発射される刹那、千歳はレーザーの照射地点へと飛び出した。
「ぐあ……っ!」
放たれたレーザーは千歳の胸を貫通し肺を焼き切った。そして千歳が倒れると同時に壁は砕け散った。千歳は落胆し頭を地に伏せた。
「千歳!!」
「千歳君!!」
聞き慣れた声に千歳が頭を上げるとそこに立っていたのは柊と雛依だった。柊と雛依は倒れている千歳に駆け寄ると血相を変えた。肺が焼き切られ千歳は満足に呼吸もできていなかった。その上脈は乱れ血を流しすぎて身体は冷えきっている。
「こんな……。」
柊は言葉を失った。雛依は千歳の胸に手を当てた。するとポウッと淡い光が現れ千歳の肺の傷を癒していく。呼吸ができるようになり千歳の表情はいくらか和らいだ。柊も安堵の表情を浮かべる。雛依はそっと涙を拭った。
三人を見て不利だと感じたのか女の悪魔はレーザーを練り始めた。三人を消滅させるつもりなのか最初に放った規模のものを射つらしい。
「ちょっと!私が射つまで時間を稼ぎなさい。」
残った二体の悪魔はニタニタと笑みを浮かべながらゆっくりと雛依達に近付いてくる。柊は斧を構えると千歳達の前に立った。
「私が時間を稼ぐ、雛依ちゃんは千歳を治して!」
柊はそう言うと悪魔へと走っていった。雛依は頷くと千歳に視線を戻す。千歳は荒い息をしているだけで一言も言葉を発しない。千歳は身体を起こすと鎌を杖代わりにしゆっくりと立ち上がった。まだ塞がっていない傷口からボタボタと血が滴り落ちる。
「千歳君まだ……っ!」
雛依が慌てて千歳の手を掴むと千歳はそれを振り払った。
「柊には……荷が重すぎる……っあの悪魔は……俺が倒す……。」
千歳は途切れ途切れにそう言うと雛依の制止を振り切り再び悪魔へと向かっていった。
「はっ!死に損ないが!消し炭も残さず殺ってあげるわ!」
女の悪魔はそう叫ぶと千歳に向けてレーザーを放った。その刹那雛依は腕を伸ばし叫んだ。
「『リフレクト』!!」
一瞬にして千歳の前に薄い緑の壁が出現しレーザーを反射し、女の悪魔の下半身を消滅させた。
「ア…アアアアアッ!!」
悪魔の悲鳴が響き渡り雛依は耳を塞いだ。
「私の…私の足がぁ…。」
女の悪魔は地に落ち、ベシャッと鈍い音をたてた。千歳は女の悪魔の首を切り落としとどめをさした。そして柊が相手をしている悪魔を見ると鎌を斧に持ち替え頭を粉砕した。
悪魔は倒しきったものの屋上には重い空気が漂っていた。千歳はぼんやりと立ち尽くし、柊は膝を抱え、雛依は座り込んだまま皆言葉を失っていた。しばらくの沈黙の後その沈黙を破ったのは雛依が倒れるドサッという鈍い音だった。
「雛依ちゃん!」
柊は慌てて雛依に駆け寄った。雛依は全身を駆け巡る激痛に呻いた。雛依の人としての最後が近付いていた。柊は涙を浮かべ雛依を抱き締めた。
「ごめん、ごめんね。」
柊の腕の中で雛依の身体はガクガクと痙攣を起こし目の焦点はゆらゆらと定まらない。千歳の表情が今にも泣き出しそうなものへと変わり、屋上には雛依の悲痛な悲鳴が響き渡る。
「嫌あああ!痛い、痛いぃっ!」
楽に死ねないと聞かされ覚悟を決めてここへきたはずだった。しかし身体を襲う激痛は雛依の覚悟などすぐに打ち砕き、こらえていた悲鳴を呼び覚ます。悲鳴を上げれば千歳が傷付き苦悩するとわかっているのに。千歳は地に膝をつき、顔を両手で覆った。
「何で……何で来ちゃったんだ!!わかって……わかっていたんだろう!!」
千歳は絞り出すように叫んだ。千歳にはバイオリンを弾く力も残っていなかった。柊がこぼす涙は雛依の頬に落ち、筋を描く。そして長い、長い時間が過ぎた。身体の痙攣が止まり、雛依はゆっくりと千歳の手に触れた。
「ごめんね、千歳君。」
雛依は最後にそう言って息を止めた。瞳が光を失い、力が抜けた手がパタリとコンクリートを叩いた。
「終わったようだね。」
雛依が死んだその瞬間いつもの通り十六夜は何処からともなく現れた。
「やはり思った通り素晴らしい能力の持ち主だ。」
十六夜が発したその言葉は柊と千歳の怒りに火を点けた。十六夜は見ていたのだ、全てを。柊は冷たくなった雛依を抱き締め十六夜を睨んだ。人を小馬鹿にしたようないつもの笑みが今は悪魔のように見えた。
「あぁ、柊君今回は君への罰則は免除だ。君のおかげで半月を待たずして強大な能力を持つ死神を手に入れる事ができたのだから。」
その言葉は柊の心を突き刺す。柊は雛依の身体をより強く抱き締めた。千歳はゆっくり立ち上がると十六夜の胸ぐらを掴んだ。
「十六夜、あんた人の命を何だと思ってるんだ。」
あまりの怒りに千歳は声が震えた。十六夜は強い能力を持つ死神候補をより早く死神にする為にわざと能力を使わざるを得ない状況を作り出した。千歳の力を削ぎ、一人で戦えなどしない敵を相手に雛依の助けを求めざるを得ない状態に陥らせる。十六夜がした事はそういう事だった。
「あれだけの高位悪魔、あんたが見逃す筈がない。こうなる事を見越してわざと俺の力を削いだんだろ!」
千歳の言葉に十六夜はふっと笑いを漏らした。そして胸ぐらを掴んでいる千歳の腕を払った。
「当たり前じゃないか。全ては今日の為に仕組んだ事だよ。」
そう言うと十六夜は千歳の胸ぐらを掴んだ。
「わざと雛依君が持っていた君が生きていた頃の痕跡を残し、二人を出会わせ、雛依君に君の兄の事を話し、そして恋をさせたのも全ては君を助ける為に雛依君が能力を使う事を見越して私が仕組んだ事さ。」
十六夜が一言話す度に千歳の表情は絶望に染まる。十六夜の目論見に早く気付いていたならば雛依の願いを受け入れなどしなかった。昨日の助っ人にも行かなかった。
『雛依の人としての生命を奪ったのは俺自身?』
千歳の頭の中に考えたくない事がぐるぐると渦巻く。そして千歳の中で何かが音をたて壊れた。千歳は十六夜の手を振りほどくとテレポートを使い姿を消した。
「逃げた、か。」
十六夜は千歳が立っていた場所を見つめ少し残念そうに呟いた。十六夜は柊へと視線を移す。柊は雛依の瞼を優しく閉じた。
「雛依ちゃんは一度私の部屋に連れて帰ります。」
そう言うと柊は雛依を背負って姿を消した。1人屋上に残された十六夜は肩をすくませ指を鳴らした。するとコンクリートにこびりついた血がさっと消え、ヒビや砕けたコンクリート片も全て元に戻っていく。後片付けを終え、十六夜は1人佇む。
「余計な事はするもんじゃないでしょう?十六夜さん。」
空からゆっくりと下降しながら飛鳥は言った。飛鳥の手には指の間に針が挟まれ、すっかり臨戦体勢だった。十六夜は飛鳥を見るとふっと笑った。
「君まで私を嫌うのかい?」
飛鳥は同じようにふっと笑うと針を頭上へ放り投げ落ちてきた針を受け止めた。
「貴方が余計な事をするのは今に始まった事ではないですけど、今回は少し度が過ぎています。僭越ながらお灸を据えさせていただきますね!」
飛鳥が針を構えると十六夜は両手を上げた。
「降参だよ、君に針を刺されると身体に電気が溜められない。抵抗すら出来ないじゃないか。」
飛鳥の針はアースの働きをし、十六夜の電気を外へ受け流してしまう。飛鳥は死神の中で唯一十六夜を攻撃不能にし、一方的にいたぶる事ができる存在だ。飛鳥は針をしまうとため息をついた。
「今回はいえ、今回も貴方の思惑を早く気付く事が出来なかった私の責任でもあります。アフターケアは私が引き受けましょう。」
飛鳥は踵を返し十六夜に背を向ける。
「貴方では傷口に塩を塗りかねませんから。」
そう言うと飛鳥はテレポートで姿を消した。再び1人取り残された十六夜は空を見上げた。
死神になる人間は絶命すると同時に人間から死神へのバージョンアップが行われる。雛依の場合はイレギュラーで人である間から能力が開花し、初めての実戦で見事にそれを扱ってみせた。それは死ぬ前から死神としてのバージョンアップが成されていたという結論を出さざるを得ない事実である。柊の部屋に着いた飛鳥は口元に手を当て考え込んだ。柊は既に落ち着きを取り戻し、雛依の病院を整理しに行っていた。柊の憔悴しきった表情に飛鳥は罪悪感にかられる。
「本当に、どうしようもない事をしてくれたわね。」
飛鳥はため息をついた。ベッドに横たわる雛依の身体はぼんやりと淡い光に包まれている。バージョンアップの最終仕上げらしい。第一段階では能力の開発・開花が行われ、第二段階では人間の時の身体をベースに悪魔との戦いに耐えられるよう身体を作り替える。
「この子はちゃんとバージョンアップできてるみたいね。」
飛鳥はそう呟くと空を見上げた。
「人の身体のまま戦い続けている千歳君はそろそろ限界ね……。」
千歳は誰一人訪れる事のないような場所を目指しただ飛んでいた。血が止まらず視界が靄がかかったようにぼんやりしたまま千歳は飛び続けていた。どれだけ飛び続けていただろうか。千歳はとある山小屋を見つけるとそこへ降下した。山小屋は誰もおらず、既に捨ていかれた物だった。千歳は山小屋の中に入るとそのまま床に倒れ込んだ。荒い息をしながら千歳は携帯を取り出すと上体を起こし、勢いよく床に叩きつけた。バキャッと音を立て携帯は粉々に破壊された。千歳は再び床に倒れるとふっと笑いを漏らした。携帯を投げた手を見ると手相とは別のヒビが入っていた。
「もう限界か。」
死神が持つ携帯は死神のGPS機能がついており死神達はそれでお互いの居場所を知る。それを壊した千歳の居場所はもう誰にも掴めない。千歳はぼんやりと雛依の事を考えていた。今頃は身体のバージョンアップをしているところだろう。息が苦しくなり千歳は身体を丸めた。意識が遠退き始め千歳は目を閉じた。
雛依が目を開けると飛鳥が傍らに座っていた。あの激痛は嘘のように消え、付きまとっていた倦怠感もなく雛依は身体の軽さに驚いた。雛依が身体を起こすと飛鳥は目を開けた。
「目が覚めたのね。」
雛依は辺りを見回した。ゴスロリに染まったインテリアで恐らく柊の部屋だと雛依は結論付けた。
「柊ちゃんは今雛依ちゃんの病室の整理に行ってるわ。」
飛鳥の言葉を聞きながら雛依は千歳の姿を探していた。
「飛鳥さん、千歳君はどこにいるんですか?」
雛依の問いに飛鳥は表情を曇らせる。雛依は飛鳥の肩を掴んだ。
「私、千歳君に謝らないと……千歳君はどこにいるんですか?」
飛鳥は雛依の震える手をそっと撫でた。
「ちゃんと受け入れられる?」
飛鳥の問いに雛依は黙って頷いた。飛鳥は一つため息をつくとゆっくりと話し始めた。
「貴方本当に悪魔みたい。」
未だに1人屋上で佇んでいた十六夜はそう声をかけられ振り返った。振り返った先には冷たい目をした雛依が立っていた。黒いワンピースに黒いコートを羽織り既に死神の風格は充分だった。
「今回は失敗しなくてよかったですね。」
穏やかな物言いをしてはいるものの雛依の身体からは凄まじい怒気が発せられていた。十六夜は無表情だった。普段の取って付けたような笑顔は微塵もない。
「貴方が私達にした事は全部聞きました。そしてそれが一回目じゃない事も。」
十六夜はコンクリートに腰を下ろした。雛依はつかつかと十六夜の傍へ行くと十六夜のコートの襟を掴んだ。怒りと悲しみで潤んだ瞳が十六夜を真っ直ぐ睨み付ける。
「千歳君の時は千歳君の心の弱り具合を把握できずに悪魔に干渉を許し、無関係のお兄さんまで死なせてしまったというのに何故?何故再び同じような事をするの!」
飛鳥の告げた真実、それは『千歳も十六夜の謀略により産み出された死神』という事だった。死神になる前に悪魔の干渉を受け身体のバージョンアップを行えなかった千歳は人間の身体のまま能力を使い続け身体を襲う能力の反動に苛まれる日々を送った。しかし今回の件で千歳の身体は限界を越え、もう長くないという事だった。十六夜は何も話さない。雛依は更に怒りがこみ上げてくる。
「確かに悪魔の言葉に負けてしまったのは千歳君の罪だったかも知れない。でもお兄さんは貴方が殺したようなものじゃない。貴方は自分のした事の後始末を千歳君にさせたのよ」
命を削らせてまで。最後は言葉にならなかった。雛依は手を離すと怒りを鎮めるために一度深呼吸をした。
「千歳君携帯を壊したらしくてね。GPSを使えなくしたという事は彼は恐らく死ぬつもりだ。」
十六夜はポツリと呟くように言った。雛依は十六夜を睨み付けるとふっと鼻で笑った。
「私は必ず見つけてみせるわ。」
雛依はそう言うと屋上から飛び降りた。
人であった時の付きまとうような倦怠感がなくなり身体がかなり軽く感じた。空を飛びながら見る、足元に広がる光景は新鮮で雛依は死神になった事を実感した。そしてふと千歳はあの倦怠感以上のものを引きずって戦い続けていたのだと胸が痛くなる。雛依は意識を集中し千歳の気配を探した。死神GPSが使えない今、千歳を見つける事が出来る保証は誰にも出来ない。それでも雛依は千歳を探しだしたかった。意識を集中させながら暫く飛ぶと雛依は街からかなり離れた森の木の上に血の跡が点々と付いているのを見付けた。雛依は森へ降り立ち、血の跡を追った。そして一つの小屋に辿り着いた。玄関の扉へ続く低い階段にはべったりと血が付いており雛依は息を飲んだ。動揺し激しく拍動する心臓を落ち着かせようと雛依は深く息を吸い込み扉の取っ手に手をかけた。ゆっくりと扉を開けるとそこにあったのは砕けた携帯と石のようになり静かに横たわる千歳の身体だった。雛依は恐る恐る声をかける。
「千歳……君?」
千歳は雛依の呼び掛けには応えなかった。雛依は千歳の傍に行くとゆっくりと膝をついた。千歳の身体は石膏像のように白く冷たくなっていた。ヒビの入った手にそっと触れると千歳の手は手首から音を立てて崩れた。
「……っ!」
慌てて手を引っ込めると同時に雛依の目から涙が溢れ出す。触れた手の冷たさから雛依は自分の能力でもどうしようもない状態である事を直感した。雛依は震える手で携帯を取り出した。アドレス帳に入っているただ1人の人物に電話をかける。
「……雛依ちゃんかい?」
静かな十六夜の声がスピーカーから響く。雛依は震える声で問うた。
「死神が死んだらどうなるんですか?」
雛依の問いに十六夜は状況を理解した。十六夜はため息をつくとテレポートを使った。十六夜がテレポートした先で見た光景は十六夜が想定していたより悪い、最悪なものだった。血溜まりに沈んで横たわる石化した千歳の崩れかけた身体。その傍で踞る雛依の姿は十六夜にこの計画が破綻しかかっている事を知らしめる。十六夜は眉間に皺を寄せるとため息をついた。
「死神は悪魔に魂を喰われない限り死ねない。どんな姿になってもだ。」
石化し身体が崩れていっても千歳は死ねていない。つまりはそういう事だった。
「わかっていてここまでさせたんですか。」
雛依の声は怒りを通り越し呆れているようだった。雛依の手には千歳の手の欠片が握られていた。血が結晶化し窓から差し込む光を受け煌めいた。雛依はそれを握り締め呟く。
「悪魔、近くにいませんか?」
雛依のその呟きは十六夜の度肝をぬいた。
「まさか千歳君の魂を悪魔に喰わせる気なのかい!?」
雛依は十六夜の方に振り返ると千歳を指差した。
「こんな姿になっても死ねないなんて残酷だと思いませんか?」
雛依の目は本気だった。雛依は立ち上がりナイフを出現させると十六夜へ向けた。十六夜は一歩も動かなかった。
「邪魔をするなら貴方をすぐには動けないようにしてから千歳君を殺します。」
雛依は十六夜の首筋に刃先を沿わせた。十六夜は微動だにしない。
「後悔しないかい?」
十六夜は掠れた声でそう言った。雛依は唇を噛み締める。冷静なふりは長くは続かない。泣き叫びたくなるのを必死で堪え、雛依は言葉を絞り出す。
「私には治せない。治せる範疇を越えてる。他に千歳君を楽にできる方法はないでしょ?」
十六夜はゆっくりと床に腰かける。十六夜の動きに合わせ雛依のナイフも下へと移動する。十六夜は再びため息をついた。十六夜がちらりと雛依の顔を見ると固く閉じられた唇が震えているのが見えた。
「私は千歳君を助ける方法は見当がつかない。だが飛鳥君ならば何か案があるはずだ。飛鳥君をここへ呼ぶよ。」
「そうなると思っていました。」
十六夜が話し終わると同時に飛鳥は姿を現した。雛依はナイフを消すとふうと息を吐いた。飛鳥は雛依の様子と床に横たわる千歳を見ると顎に手を当てた。
「雛依ちゃん、貴女の能力じゃ治癒はできないと判断したの?」
飛鳥の問いに雛依は黙って頷いた。
「組織が死んでいたら私でも治せない、そういう事です。」
雛依は静かにそう言う。飛鳥は暫く考え込んだ後言った。
「じゃあ体組織の再生の後なら『治癒』できる?」
「えっ?それ……って。」
飛鳥の提案に雛依は少し戸惑った。飛鳥は雛依の頭に手を置くとにこりと笑った。
「千歳君が狂戦士を使った後を思い出してごらん?」
雛依は暫く首を傾げていたが何か思い当たる節があるらしく口に手を当てた。あの時、千歳の兄を喰らった悪魔を倒した後の千歳を治した方法では身体に電流を通し細胞を活性化させ傷口の再生を行っていた。体組織・体細胞の再生が出来たならば治癒能力を使い千歳を元に戻せる可能性はある。十六夜もその手があったかと言いたげな表情をしていた。
「まさか、対策も練らずにこんな馬鹿な真似した訳ではないですよね?」
飛鳥の言葉に十六夜はぐうの音も出なかった。十六夜の想定以上に千歳の状態が急激に悪化した事で今回の計画は破綻しかけている。計画では千歳が1人で死を選ぶなどありえず、雛依が死神になってすぐ千歳を全快させる事が出来たはずだった。そもそも千歳を助けるはずのこの計画が何故こうなってしまったのだろうか。十六夜は再びため息をついた。
飛鳥は注意深く千歳に針を刺していく。右手は少し触れただけで崩れた事もあり、再生を施すにもかなり神経を使う。千歳を仰向けにするのも三人がかりでかなり慎重に行った。雛依が胸に耳を当てると千歳の心臓は弱々しい鼓動をかろうじて刻んでいた。雛依は少しほっとしたのも束の間胸にチクリと痛みを感じた。雛依の苦しげな表情に気付いた飛鳥はそっと雛依の肩を擦った。
「ごめんね、もう少し早く来てあげてたら千歳君を死なせるなんて考えなくて済んだのに。」
飛鳥の言葉に雛依は黙って首を横に振った。
「私も冷静じゃなかったので……もう大丈夫です。」
飛鳥はその言葉に少しほっとしたように微笑むとすぐに真剣な表情になった。
「十六夜さん、お願いします。」
飛鳥に促され十六夜は針の上に手をかざし微弱な電流を放つ。微弱な電流は針を伝い、千歳の中へと流れていく。組織の再生が出来なければ最終手段を取るしかない。三人は張り詰めた緊張感の中千歳の身体を囲む。ぼんやりとした青白い光が千歳を包み込みパチパチと音を立てる。どれだけ経っただろうか。固まっていた千歳の手がパタリと床に降りた。そしてそれを合図のように身体全体が弛緩した。
「成功……した?」
十六夜の呟きと同時に雛依は千歳の手に触れる。冷えきってはいるが確かに人の手の感触だった。雛依がチラリと飛鳥を見ると飛鳥はゆっくりと頷いた。雛依が息を深く吸い込むと雛依の茶色の髪は千歳と同じ白へと変わった。瞳も赤へと変わり室内は淡い光で照らされた。十六夜と飛鳥は目を見開く。
「まさか……雛依ちゃんは千歳君と対だっていうの?」
飛鳥の呟きに十六夜は静かに頷いた。雛依が千歳の身体に手をかざすと千歳の身体を丸く薄い緑の結界が覆った。雛依は指を噛み、結界に血を垂らした。そして祈るように手を組み目を閉じた。結界に垂らされた血は緩やかな波紋を描き結界に吸い込まれていった。結界の中は温かな液体で満たされ、まるで母親の胎内で羊水に包み込まれているようだった。
千歳が目を覚ますと見慣れた天井が目に映った。目だけを動かし千歳は周囲を見回す。
「……俺の部屋……?」
千歳は視線を天井に戻すとそう呟いた。ベッドに横たわったまま千歳は前髪をかきあげ、自分の手を見て目を見開いた。何の痛みもない身体に違和感を覚え千歳は身体を起こした。服は普段千歳が部屋着にしている長袖Tシャツに着替えさせられており血すら付いていない。服を捲ると傷痕だけを残し、傷は治っていた。ベッドの脇のテーブルには新しい携帯とバイオリンケースが置かれ、バイオリンケースに付いた血痕があの出来事が現実である事を千歳に自覚させた。手にあったヒビもなくなり身体も治っているという事は雛依が能力で千歳を救ったという答えへと思考を導く。千歳は両手で頭を抱えた。脳裏に焼き付いて離れない雛依の悲痛な悲鳴と絶命する瞬間の記憶。千歳は頭をかきむしり、ベッドから降りると着替えを始めた。着替えが済むと千歳はボストンバックにタンスの中身とバイオリンの手入れの道具を詰め、バイオリンケースを持ち玄関の扉に手をかけた。
「何処へ行くつもりなの?」
千歳は背後から声をかけられ振り向いた。振り向いた先には黒いワンピースに身を包んだ雛依が立っていた。千歳は顔から血の気が引き、思わず一歩後退った。
「きっとこうなると思った。」
雛依はそう呟くと片足を軸に円を描くようにくるりと回った。すると淡い光が部屋の中を駆け巡っていく。
「ここから出られないように結界を張らせてもらったわ。」
もう既に死神としての能力を使いこなしている雛依を見て千歳の表情は更に陰った。千歳は雛依から目を背けた。
「ここから出してくれ、俺はあんたにあわせる顔がない。」
「何でそんな事……。」
手を握ろうとした雛依の手を千歳は冷たく振り払う。雛依は表情を曇らせる。
「俺は雛依の人でいられる時間を守れなかった!だから……」
千歳は雛依に背を向ける。雛依の悲しげな表情は千歳の心を揺らす。
「俺に雛依の傍にいる資格なんてないんだよ!」
吐き捨てるように叫ぶ千歳の肩は震えていた。
「だから、ここから出してくれ。」
雛依は背後から千歳を抱き締めた。雛依は千歳の背に額をつける。
「ごめんなさい。」
嗚咽混じりの声で雛依は言った。千歳を抱き締めている腕に力が入る。千歳の心臓の鼓動はバクバクと音を立てる程に早くなった。
「ちゃんと覚悟した筈だったのに、千歳君が傷付くのもわかってたのに私痛みに堪えきれなかった。」
千歳は雛依の手をそっとほどくと雛依の方に向き直り雛依を強く抱き締めた。千歳の目から一筋涙がこぼれる。
「守りたかった……最後まで……っ。」
こぼれた涙がパタリと床を叩く。願いを叶える為の契約上の恋人という肩書き。しかし千歳は雛依をいつの間にか愛してしまっていた。愛故に人としての生を全うさせられなかった自分が許せなかった。あと半月だったとはいえ雛依には人として生きる権利があった。二の句が次げない千歳を見て雛依は少し身体を離し、千歳の唇に自分の唇を重ねた。
「傍にいる資格がないなんて言わないで。私は千歳君が傍にいてくれなきゃ嫌だよ。」
雛依は再び千歳を強く抱き締める。
「俺……雛依の傍にいていいのか?」
千歳は恐る恐る呟く。雛依は微笑むと言った。
「私は千歳君と一緒にいたくて死神の運命を受け入れたの。だから千歳君がいてくれないと何も意味ないんだよ。」
雛依の言葉に千歳は静かに頷き、目を擦った。
「俺二週間も寝てたのか?」
雛依からあの後の事を聞いた千歳は目を丸くした。あの後身体の再生・回復は成功したもののあまりにも無茶な戦い方をしたせいか消耗が激しく、結果今日目覚めるまでの二週間千歳は昏睡状態に陥ったのだった。
「それでね、私と千歳君が対だって言ってた。……対って何?」
勝手に千歳の買い溜めていたアイスクリームを取り出すと雛依は疑問を投げ掛ける。
「対ってのは十六夜と飛鳥さんみたいにお互いの力を高めたり抑えたりするのに適した死神の事だ。」
千歳はベッドに腰かけるとごろっと横になった。雛依は傍に腰かけるとアイスクリームを口へ運んだ。
「分かりやすく言うと飛鳥さんが針を打ち込んでから十六夜が電流を放つと狙いを定める必要なく真っ直ぐ標的へと届かせる事ができる。ただし十六夜自身に針を打つとアースとなって電流を受け流してしまう……とまあこんな具合だな。」
千歳は隣で黙々とアイスクリームを頬張る雛依の額を指で弾いた。
「うう……じゃあ私達の場合はどうなんだろ。」
雛依は額を押さえながら目を潤ませる。千歳はため息をつくと雛依の頭を撫でた。
「戦闘に特化した俺と回復に特化した雛依が組んだら最強だろうさ。」
千歳がそう言った時いきなり部屋の扉が開きジャンが飛び込んできた。
「公爵、十六夜殿から文を預かってきた。」
ジャンは白い封筒を千歳に手渡すとすぐに部屋を出ていった。
「一体何なんだアイツは。」
千歳はそう呟くと封筒の封を切った。
『これを読んでいるという事は君は無事生還したという事だね。まずはおめでとう。雛依君の事は君は許してくれないだろう。しかし、君の身体を作り替えられなかった事で君の対になる死神を探す事は急を要する事案だった。もう気付いているかも知れないが君自身も雛依君と同じく私の策略によって生まれた死神だ。君が事故に遭ったのは偶然だが悪魔を野放しにし君に能力を使わせようとしたが為に君の兄を悪魔の手にかけてしまった。悪魔の誘いに乗ってしまったのは君の罪だが君がどれだけ追い詰められているかに気付けなかった私のミスだ。そのミスを埋め合わせる為に今度は君自身を利用した。雛依君の気持ちも君の揺らぎも全部利用した。許されるとは思っていない。死神の中の私への不信感が最近強くなっている事もあり、私は死神の長の座を君に明け渡す事にした。君が眠っている間に手続きは済ませてある。私の部屋の鍵を同封しておいた。君なら私より上手くやるだろう。雛依君は君の補佐官として働いてもらう。新人だから君がいろいろ教えてあげればいい。私は隠居してスイスで暮らす。何かあれば来てくれ。では頑張りたまえよ。』
二人はあまりにもトントン拍子に事が進んでいる事に驚きを隠しきれず黙ったまま封筒を逆さにした。中からは十六夜の部屋の鍵と写真が一枚入っていた。写真には某名作アニメと同じように広大な自然に囲まれ山羊と戯れる十六夜の姿があった。雛依はそれを見て硬直し千歳は写真を握り潰した。
「十六夜の野郎、俺に仕事押し付けて高原生活たぁ……。」
千歳は怒りを露にしたがすぐにいつものポーカーフェイスに戻った。
「俺が寝てる間にやらかしたって事は仕事はかなり溜まっているだろう。とりあえず十六夜の部屋に行くぞ。」
「千歳くーん、たまには顔出してくれよぅ。」
「人が立場的に携帯の電源切れないのをいい事にいちいちかけてくるな、隠居じじいが!」
千歳は書類片手に携帯に向かって怒鳴りつけた。あれから半年が過ぎ千歳を死神の長として新たな体制の下それぞれが死神の仕事に励んでいた。しかし皆が忙しくしている為誰も十六夜に会いに行かず十六夜は嫌がらせのように千歳に電話をかけ続けている。
「ちー君イライラはあんまりよくないよー。」
奥から雛依がマグカップを2つ持って現れた。雛依はというと自ら両親と弟の記憶を消し、憑き物が落ちたようでほにゃーんとした性格になり、千歳をちー君と呼ぶようになった。千歳自身はあまりちー君を歓迎はしていないようで呼ばれる度に不思議な表情をする。
「イライラもするさ。」
千歳はマグカップのコーヒーを一気に飲み干す。
「十六夜の野郎自分だけのんびり隠居生活楽しみやがって。仕事押し付けられた側にもなれっての。」
千歳はマグカップを置くと再び書類に目を通す。余命が残りわずかになった人間のプロフィールが束になって送られてきて千歳は今猫の手も借りたい忙しさである。雛依はマグカップを片付けながらふふっと笑いを漏らした。
いかがでした?
今回は短編で完結となりますがシリーズ物で柊達にスポットを当てたものを作成中です。
投稿がいつになるかわかりませんがそちらもよろしくお願い致します。