ナフサの血流
「ナフサは、足りてるんだよね?」
三國純は、紙コップのコーヒーを片手に、新聞記事の見出しを指で押さえた。
「政府はそう言ってる。中東以外からも輸入を増やす。調達済みのナフサや、ナフサ由来の川中製品の在庫もある。さらに、原油備蓄を使って国内でナフサを精製する。だから、年を越えて供給は続く見込みだって」
向かいに座る櫻未來は、窓の外を見ていた。
五月の夕方だった。
街の灯りが、ガラスに薄く映っている。
******
「でも、純くん」
未來はゆっくり振り返った。
「それだけでは、現場は安心できないんです」
「どうして? 量があるなら、解決じゃないの?」
「水なら、そう考えやすいですね。足りない場所に水を運べばいい。でも、ナフサは水とは違います」
「液体だよね?」
「液体です。でも、一種類ではありません」
純は眉を寄せた。
「一種類じゃない?」
「ナフサは、石油から取れる軽い成分の集まりです。産地によって中身の性質が違います。軽いもの、重いもの、エチレンを作りやすいもの、芳香族を取りやすいもの。工場ごとに、合うナフサと合わないナフサがあります」
純は記事をもう一度見た。
「つまり、日本全体でナフサが何万キロリットルある、という話と、工場が欲しいナフサが届く、という話は別?」
「そこが大事です」
未來はテーブルの上にペンを置いた。
「ニュースの表面だけ見ると、こう見えます。中東情勢が不安定になった。ナフサの輸入が不安になった。政府が対応した。だから大丈夫」
「うん。そう見える」
「でも、現場はこう見ています。必要な成分のナフサが、必要な量で、必要なタイミングに、設備に合う形で届くのか」
純は小さく息を吐いた。
「条件が多いな」
「工場は、魔法の箱ではありませんから」
未來は少し笑った。
「ナフサを入れれば、何でも自由に出てくるわけではないんです」
「ナフサから何ができるんだっけ」
「エチレン、プロピレン、ブタジエン、ベンゼン、トルエン、キシレン。そこからプラスチック、合成ゴム、接着剤、塗料、断熱材、包装材、衣料、医療用品、車の部品までつながります」
純の目が止まった。
「そんなに?」
「はい。だから、ナフサ不足は石油会社だけの話ではありません」
未來は紙ナプキンを一枚取り、簡単な線を描いた。
「ここがナフサ。ここが石油化学メーカー。ここから樹脂メーカー、建材メーカー、食品包装メーカー、自動車部品メーカー、町工場、建設会社へ流れていきます」
「血管みたいだ」
「いい例えです。ナフサは、素材産業の血液に近いです」
純はペンの先を見つめた。
「じゃあ、政府が『血液はあります』と言っても、指先まで届いていないかもしれない」
「その通りです」
******
しばらく沈黙が落ちた。
店内では、誰かが氷をかき混ぜる音がした。
「でも、政府の対応にも意味はあるよね?」
「もちろんあります」
未來はすぐにうなずいた。
「政府が『量は確保できる』と発信する意味は大きいです。供給不安が広がると、企業が普段より多く注文します」
「買い占めみたいなこと?」
「企業版の買いだめですね」
「それが起きると?」
「本当に必要なところへ回りにくくなります。流通が詰まります。政府が落ち着くよう呼びかけるのは、パニックを防ぐためでもあります」
純は少し納得した顔をした。
「じゃあ、メリットがある人もいる?」
「います。中東以外から調達できる商社、代替素材を扱う企業、在庫を多めに持っていた大手企業は相対的に動きやすいです」
「調達ルートを持っている会社が強いんだ」
「ええ。こういうときは、安く作る力だけではなく、複数の仕入れ先を持つ力が問われます」
******
「でも、困る人もいる」
「むしろ、そちらのほうが多く見えます」
未來の声が少し低くなった。
「特に厳しいのは、中小企業です。樹脂、塗料、接着剤、包装材、建材を使う会社は多い。けれど、価格が上がってもすぐに販売価格へ転嫁できません」
「大企業なら値上げ交渉できるけど、小さい会社は難しい?」
「そうです。取引先との力関係もあります。納期を守れなければ信用に関わる。でも、高い材料を買えば利益が消える」
純はコーヒーを飲もうとして、やめた。
「逃げ場がないな」
「建設業も影響を受けます。塗料、防水材、断熱材、塩ビ管、接着剤。どれか一つが足りないだけで、工事は止まります」
「全部そろわないと完成しないからか」
「そうです。家を建てるとき、柱だけあっても住めません。配管、塗装、断熱、防水、床材、壁材。細かい素材がそろって初めて完成します」
「なるほど……。ナフサ不足って、スーパーからプラスチック製品が消える話だと思ってた」
「それもあります。でも、もっと見えにくい場所に影響します」
未來は、窓の外の道路を指さした。
「道路工事、マンション建設、工場の部品、食品の袋、米袋、カップ麺の容器、病院で使う器具、車のゴム部品」
「生活の裏側だ」
「そう。生活の表面には出にくい。でも、値段や納期として現れます」
純はようやくコーヒーを飲んだ。
もうぬるくなっていた。
「国民への影響は、じわじわ来る感じか」
「はい。突然、明日から何も買えない、というより、少しずつ効いてきます」
「たとえば?」
「リフォームの予定が延びる。住宅設備の納期が遅れる。食品包装が値上がりして、商品価格に乗る。日用品の価格が上がる。修理部品が届きにくくなる。公共工事の費用が増える」
「物価高の一部になるんだ」
「その見方が近いです」
純は新聞の見出しを見直した。
「『量確保で即解決といかず』って、そういう意味か」
「ええ。ナフサは、ただ集めればいいものではありません」
「成分が合うか」
「工場に合うか」
「物流が間に合うか」
「川下企業まで届くか」
「それで、最終製品になるか」
未來は静かにうなずいた。
******
「純くん、もう一つ大事なことがあります」
「まだあるの?」
「中東依存です」
純の表情が引き締まった。
「日本は中東から多く輸入しているんだよね」
「石油もそうですが、輸入ナフサは中東依存が高いです。さらに、国内で作るナフサも、もとになる原油の中東依存の影響を受けます。だから中東情勢が揺れると、日本の素材産業まで揺れます」
「遠い国のニュースが、家の塗料や食品の袋につながる」
「そうです」
未來は紙ナプキンに、短く書いた。
中東情勢
↓
ナフサ調達
↓
石油化学製品
↓
建材・包装・部品
↓
生活費・納期・工事
純はそれを見て、ゆっくり言った。
「これ、ニュースの距離感が変わるね」
「変わります」
「中東の緊張って聞くと、原油価格とガソリンだけを考えがちだった。でも、ナフサはもっと広い」
「生活の細部に入り込んでいます」
店の外で、トラックが一台通り過ぎた。
荷台には、白い梱包材が積まれていた。
純はそれを目で追った。
「あの梱包材も、関係あるかもしれないのか」
「可能性はあります」
「見えないな」
「見えないから、怖いんです」
未來はそう言って、ペンを置いた。
******
「ただし、怖がりすぎる必要もありません。政府が輸入先を広げ、調達済み分や川中製品の在庫を確認し、企業に過剰発注を控えるよう求めていることには意味があります」
「じゃあ、今後の分かれ道は?」
「三つです」
未來は指を一本立てた。
「一つ目。中東以外からの輸入が予定通り増えるか」
二本目。
「二つ目。輸入したナフサが日本の設備に合うか」
三本目。
「三つ目。川下の企業まで、樹脂や溶剤や建材が滞りなく届くか」
純はそれを聞いて、短くまとめた。
「つまり、港にナフサが着いた時点では、まだ解決じゃない」
「その通りです」
「工場で使えて、材料になって、製品になって、現場まで届いて、初めて解決」
「よく整理できています」
純は苦笑した。
「先生みたいに言うなよ」
「先生ではありません。少し先に読んでいるだけです」
「それが先生なんだよ」
二人は少し笑った。
******
でも、純の顔には、まだ考え込む色が残っていた。
「未來」
「はい」
「これって、長引く?」
「中東情勢次第です。さらに、調達先の分散が一時的な対応で終わるのか、それとも日本企業の構造改革になるのかでも変わります」
「構造改革?」
「一つの地域に頼りすぎない。代替原料を検討する。リサイクル材を増やす。国内の石油化学設備をどう維持するか考える。そういう話です」
「でも、国内の石化産業って、縮小傾向じゃないの?」
「需要減、老朽設備、国際競争、脱炭素。課題は多いです。だから今回のナフサ不足は、単なる一時的な供給問題ではなく、日本の素材産業の弱さを見せたとも言えます」
純は、新聞を折りたたんだ。
「量が足りるか、だけじゃない」
「はい」
「必要な種類が、必要な場所に、必要な時間で届くか」
「はい」
「そして、それを使う中小企業や建設現場が耐えられるか」
「そこが生活影響につながります」
******
外はもう暗かった。
駅前の灯りが、いくつも重なって見えた。
純は席を立つ前に、紙ナプキンをもう一度見た。
中東情勢から生活費まで、一本の線でつながっている。
それは細く、見えにくい線だった。
けれど、切れれば暮らしに届く線だった。
「未來」
「なんですか」
「ナフサって、名前は地味なのに、社会の奥にいるんだな」
「ええ」
未來は静かに答えた。
「地味なものほど、止まったときに大きさがわかるんです」
純は、折りたたんだ新聞をかばんに入れた。
その紙面の向こう側で、工場が動き、船が動き、商社が走り、町工場が材料を待っている。
ニュースは、遠くの出来事ではなかった。
プラスチックの袋にも、家の壁にも、工事現場の足場にも、少しずつ染み込んでいた。
「じゃあ、この記事の本当の見出しはこうかもしれない」
純が言った。
「ナフサ不足、量ではなく血流の問題」
未來は小さく笑った。
「かなり近いです」
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「じゃあ、次に見るべきなのは?」
「輸入量だけではありません。エチレン設備の稼働率、樹脂の在庫、建材の出荷制限、包装材の値上げ、そして中小企業の価格転嫁です」
「生活を見るには、川下を見る」
「そうです。ニュースは上流から始まります。でも、暮らしへの答えは下流に出ます」
純はうなずいた。
今度は、はっきりと理解していた。
ナフサ不足とは、ただの原料不足ではない。
日本の暮らしを支える、見えない素材の流れが細くなることだった。
そして、その流れが細くなれば、最初に苦しむのは、声の大きな企業ではない。
現場で材料を待つ人たち。
値上げを飲み込む小さな会社。
工期を守ろうとする職人。
そして、最後に少しずつ高くなった商品を手に取る、ふつうの生活者だった。
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