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004

 壁にもたれかかり、ずるずると床に座り込む。荒く息を繰り返していると、ぽたりと汗が落ちた。

 隣の部屋から聞こえていた声や音はしばらく前から聞こえなくなっていた。

 彼女はどうなっただろう。そんな他人行儀な考えが浮かびかけ、意に反して頬が引き攣るように持ち上がった。


「どうなったも何も……わかってるくせにさ」


 あれがただの錯乱? 高熱による意識混濁? 襲われた女性もそれなら多少傷を負ったくらいだろうって?

 わかってる。気づいてたんだ……それなのに。


「どうしたら」


 ああ、駄目だ。


 天井を仰ぐ。視界が揺れていた。目尻から頬を伝うあたたかさに僕は目を瞑った。

 

「逃げた」


 言葉にしてみると、やけにあっさりしていた。

 逃げた、ただそれだけだ。

 助けられたかもしれない。無理やりでも立たせれば何か変わっただろうか。

 頭の中なら、いくらだってやり直せる。けれど現実には、もう一度同じ場面に戻ることなんかできない。

 顎から垂れた涙が胸元を濡らしていた。それを手で拭う気力もなくて、僕はそのまま頭を壁に預けた。

 

 気がつくと夜は明けていた。隣の部屋はずっと静かなままだった。


 ずっとこのままでいるわけにもいかない。

 ようやく身体を起こすと、膝がわずかに震えていた。身体の節々が痛み、顔を顰めながらゆっくり体勢を整えて息をつく。

 座り込んでいたせいで靴が脱ぎ散らかってしまっていた。

 それが妙に気になって、ひとつひとつ向きを揃えた。


 何をやってるんだろう。


 そんなことを思いながらも、やめなかった。


 手を洗い、顔も洗う。鏡に映った自分の顔色はひどいものだけれど、見なかったことにしてタオルで適当に水気を拭きとった。


 時計を見れば、朝の七時を少し過ぎたところだった。


「大学……」


 呟いてみて首を振った。

 今日は無理だ。講義を受けて、ノートを取って、友達と昼を食べて。

 そんなことができる気がしない。外に出ることすら……今は。


「……休もう」


 そう決めると、胃のじくじくとした感覚が少しだけ薄れた。


 キッチンへ向かう。冷蔵庫を開け卵とベーコンを取り出す。油を引いたフライパンを火にかけ、食パンはトースターへ。

 じゅう、と油の弾ける音。匂いもする。いつもの朝と同じ匂い。

 皿に盛り付けテーブルに置いたあと、僕は条件反射的に手を伸ばしかけ、


「うっ……!」

 

 男の顔が浮かんだ。


 恋人にためいなく噛みつこうとしたあの瞬間の横顔。開かれた男の歯の上下に唾が糸を引いていた。

 途端、胃液がせりあがってくる感覚がした。口を押さえて唾を飲み込む。鼻で浅く息を繰り返しながら、どうにか込み上げてくるものを耐えた。

 こんな状況にいて何が《《いつもの朝》》だって言うんだ。

 そんなはずない。だって、僕は、


「死にかけたんだ」


 死にかけた。

 それがどれほど荒唐無稽なことであれ、僕は危うく死にかけたし、しかも、僕を襲ったアレは事実として化け物だった。

 ゾンビだった。ゾンビに襲われたんだぞ?

 完全に死んだ人間が生きているだなんてことは言わない。それでも想像だにしなかった事態がすぐ隣の部屋で起きて、今この瞬間もきっと続いてる。

 それどころか、僕自身が──。


「っ!!」


 思わず自分の腕を掴んだ。

 袖をまくる。肘のあたりまで乱暴に引き上げて掴まれたあたりを中心に皮膚を見た。

 何もない。赤くもなっていない。噛み跡も引っ掻き傷も。

 それでも、もう一度確かめた。手首、手の甲、指のあいだ、爪の縁。


 ……ない。


 唾液は? 飛沫で感染するウィルスだったら?


「吐き気、今のは。でも大丈夫。大丈夫なはず」

 

 熱は、感じない。

 感染したとして潜伏期間はどれほどだろう。数日、あるいは数ヶ月単位で発症しないままの可能性だってある。

 専門家にかからないかぎり知りようのないことだ。

 未知のウィルスに侵されてるかもしれないんです、先生。凶暴化して他人を襲うゾンビになっちゃうんです──。


「そんな相談……馬鹿げてる」


 そもそもウィルスかどうか、感染の有無もわかっちゃいないのに。

 困惑する医者の顔が目に浮かんで少しだけ肩の力が抜けた。


 顔を両手で擦る。気分は変わらず良いとは言いがたいけど、それでも多少はマシになってきた。

 リモコンを手に取り、ボタンを押す。部屋の静けさが嫌だったからだ。


『──朝7時になりました。“ニュースステーション:エブリ7”のお時間です』


 陰鬱な気分とは裏腹に、流れてくる音楽はあまりにも軽快だった。

 番組は始まったばかりのようで、音楽を背景にキャスターやアナウンサーが揃って頭を下げる。

 昨日と同じ顔ぶれが並んでいる。そのことに一瞬安堵しかけて、けれど、普段に比べてどこか硬く見えるその表情に僕はひとつ、言葉にできない予感を覚えた。


『全国各地で傷害事件が相次いでいます』


「傷害……」


『警察によりますと、容疑者はいずれもその場で取り押さえられましたが、全員が共通して錯乱状態にあるとのことです。原因はわかっていません。しかし、そのうち数名はなんらかの病感染症も指摘されており、現在、都内複数の医療機関、研究機関へと協力の要請がなされています』


 テレビの音量を少し上げた。


『被害者は確認できている範囲でも死者一名、重傷者三名にのぼり、また、その多くが噛みつきなどによる負傷を負っているとのことです。警察は一連の事件との関連を調べています。一方、SNSでは──』


 SNS──そうだ、スマホ。


 咄嗟に周囲を見渡し、ベッドの上に転がっていたスマホに手を伸ばした。

 信じられないことばかり起こって気が動転していたのだと、ことさら実感した。

 自分の身に起きたことが他の人の身に降りかからないともかぎらない。ニュースの情報が真実なら、一刻も早く注意喚起するべきだったのに。


 画面をタップする。と、


「……え」


 ずらっと表示された通知の数に思わず声が漏れた。


 メッセージアプリの未読表示がいくつも並んでいる。グループチャット、大学のサークル、バイト先、全部合わせれば数十件に及ぶ。

 内容は似通っている。

 大半がSNSに投稿された動画を共有するなか、時折、実際に見たという人もいて、件数が多いのはそういう人に周囲が食いついて詳しく聞きたがっているからだ。

 どこか面白がっているような空気がある。真剣に捉えることの方がむしろ過剰だろうと、そういう認識がきっと。


 でも、毛色の違うメッセージもいくつかはあった。スワイプする中で見慣れた名前が目に止まった。

 颯太。それから、カレン。

 短い時間に何件ものメッセージが入っている。連絡のつかない僕を心配する内容が多く、特にカレンからは電話の着信履歴も残っていた。

 僕は留守番電話の欄を押した。


 そこに残されたカレンの声は酷く憔悴したものだった。

 

『ユウくん、起きてる? あの、あのね、相談したいことがあるの。いつでもいいから、これに気づいたら電話お願い』


 音声が切れ再生ボタンが停止マークに切り替わったあとも、しばらくは画面を見つめたまま指が動かなかった。

 予感が膨らんでいく。

 でも、確認しないわけにはいかなかった。発信ボタンを押す指が震え、画面に当たった爪が小さく音を立てた。

 コールは長く続いた。ひとつ鳴るたびに数を数えていると、十を過ぎたあたりで留守番電話に切り替わった。


 もう一度かけ直す。けれど、今度もさっきと同じだった。


「……」


 もう一度。


 胸の奥の震えが止まらない。どうして、出てくれないんだろう。

 朝早いから?

 でも、留守番電話の履歴は6時を少し過ぎになってるんだ。起きてないはずない。

 電話に出れる状況じゃない?

 そういうときにはメッセージのひとつも送ってくれる。僕の知る彼女はそういう人だ。

 

「だったら、なんで」


 わからない。けれど、それは今の状況を考慮に入れなければの話だ。

 人が人を襲っている、それも関連が明らかにされないままに。

 ただ普通に生活している人がふとした瞬間に渦中に放り込まれる。確かな事実としてそれはあって、みんな同じ状況に置かれている。


 僕のように。

 

「頼むよ……」


 五度目か六度目か、電話は結局繋がらず僕は耳に当てたスマホを下ろした。

ブックマークつけてくれた方、おってくれている方(ニッチすぎているかわかりませんが笑)ここまで読んでくださってありがとうございます。

報告なんですが、投稿の際の都度のログインが面倒に思えてきてしまってカクヨムの方での連載に切り替えたいと考えています。明日には「なろう」上のものは削除する予定です。

申し訳ありません。ご承知いただけると幸いです。

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