003
「……のっ! すみま…んっ! お願…します!」
入浴を終えて少し落ち着き、電話はやっぱりもう少し関係性を詰めてからかななんて考えながらテレビを観ていたとき、不意にドアを激しく叩く音がした。
切羽詰まった様子で叫ぶ女性の声も。聞き覚えのある声だった。
隣の人だ。
「は、はいっ!」
何も考えず、僕は玄関へ走った。
内鍵を開ける間も焦ったような声は続いていた。いつもなら警戒のひとつもしていたかもしれないけど、いかにも尋常じゃない様子に気圧されていたのもあって。
チェーンも外し急いで扉を押し開く。と、案の定、隣の部屋に住む女性が焦った様子で立っていた。履き物はスリッパのまま、肩が大きく上下して、うまく息が吸えていない。
「あの、どうしたんですか?」
「わ、私、あの、知人が倒れて!」
視線が僕の顔と足元とをせわしなく行き来し、言葉ばかりが前のめりに飛び出しているような、そんな感じだった。
「熱がすごくて、40度、超えてるんです!」
「40度!?」
「話しかけても反応鈍いし、すごく苦しそうで! 病院に電話しても繋がらないし……もう、どうしたらいいか」
それは、大事だ。
「解熱剤持ってませんか!? 冷えピタとか、熱を冷ませるものなら何でもいいんです!」
市販のものでよければと尋ねると、女性は素早く頷いた。
「氷も買いだめしてる分があるので持ってきます!」
「お願いしますっ!」
慌ただしく部屋へ戻る彼女を見送り、僕も踵を返した。
40度、相当な高熱だ。超えてるって言っていたからまだ上がっているのかもしれない。インフルエンザだろうか。でも、急に倒れたって言ってた気もする……体調がそこまで急激に悪化するとは考えにくいけど。
でもゼロじゃないはずだ。きっと珍しいことじゃない。そうだ、珍しくない。落ち着こう。
引き出しを開け、常備薬の袋を探る。解熱剤、あった。未開封の冷却シートもある。氷は冷凍庫の大袋ひとつ分。
「大丈夫、大丈夫」
誰に言うでもなく呟きながら、まとめてビニール袋につっこむ。
隣の部屋のドアは開け放たれていた。
「あの、失礼します!」
返事はなかった。奥のほうから荒い呼吸音が微かに聞こえるだけだ。迷わず靴を脱ぎ捨て踏み込んだ。声は正面の扉の向こうからした。
通り過ぎざまに見たシンクにはペアの箸や夫婦茶碗が置かれ、水が張られていた。
床に敷かれたラグの上にその男は横たわっていた。
年の頃は二十代後半だろうか。シャツは汗でぐっしょり濡れ、首元まで真っ赤だ。目は半分開いているのに焦点が合っていない。
飲みかけのペットボトルを口にあてがい、女性が水を飲ませようとしていたが、うまくいかずにシャツばかりが濡れてしまっていた。
部屋に入ってきた僕を見て、女性が彼の肩を揺すった。
「ねえ、聞こえる? 薬、もらってきたから、ね?」
返事はない。ただ、喉の奥でひゅう、と擦れるような音が鳴った。
袋を床に置き、解熱剤を取り出す。
「水、ありますか?」
「はい、ここに……!」
震える手からペットボトルを受け取って、錠剤をシートから押し出した。指先がわずかに汗ばんで滑りかけたものの落としはしなかった。
上体を起こそうと男の肩に触れる。その瞬間、思わず手を引きかけた。
熱い。
火傷しそうなといったら誇張になるけど、明らかに異常な熱だった。身体の内側で何かが暴れているみたいな、そんな感じ。
「すごい、熱ですね」
「さっき測ったときは40.8度でしたけど……今はもっと上がってるのかも」
女性の声はほとんど泣きそうだった。
「飲めますか? 聞こえます?」
ゆっくりと肩を支え上体を少し起こす。口元に錠剤を近づけると、男の唇がわずかに動いた。
「……ぁ……」
掠れた声。返答かどうかは判断がつかない。
「大丈夫です。薬ですよ、飲めますか?」
錠剤を唇の間から押し入れ、水を少しずつ口に含ませる。
数秒後、ごくりと喉が上下するのを確認してようやく、胸の奥に溜めていた息を吐きだした。
「あの、とりあえず冷やしましょうか。脇と首と、あと太ももの付け根とか、太い血管が通っているところを重点的にです」
「は、はい」
女性に声をかけ、氷を入れるジップロックとタオルを用意するように伝えた。
状況はあまり変わらないものの、薬を飲ませられたのが多少の気休めになったのか、少し落ち着きを取り戻してきた女性の様子に僕も安堵した。
待っている間に冷却シートを額に貼ると、男の体がびくりと小さく震えた。熱で真っ赤な首筋に顎のあたりから垂れた汗が伝っていく。
「救急、僕のほうでもう一回かけてみますね」
奥のほうから「ありがとうございます」と返答があった。
119を押し耳に当てる。少ししてコール音が鳴り始めた。
「……」
長い。
普段なら数秒のはずなのに、やけに長い。夜だからだろうか。
コールの合間に雑音が混じる。電話に応じられないほど切迫した状況にあるとか?
ほどなくして、通信状況のためか電話が切れた。
「変だなあ」
時計の針は11時を指している。もう一度、119にかけ途切れ途切れのコール音を聞きながら電話が繋がるのを待った。
その間、僕は男から目を離していた。
それだって、ほんの数秒のことだった。けど、その数秒が何か決定的な変化を生じさせてしまっていた。
不意に手首を強く掴まれたのは、僕がもう一度時計に目をやったときだった。
「っ!?」
ハッと視線を向けると、男の目は開いていた。
さっきまで焦点が合っていなかったはずの目が妙にはっきりと天井の何かを捉えるように見開かれていた。
充血した白目のなかで、大きく散大した瞳が黒々と孔を開けている。
不意に、視線が動いた。
ゆっくりと、こちらへ。ぴたりと目が合って背筋が粟立った。
何かを見ている目じゃない。
何かを探している目でもない。
ただ、ひどく乾いた、空洞みたいな光。
「……っ」
無意識に喉が鳴った。耳の奥で心臓が早鐘を打つ音がする。
衝動的に手を引こうとして、けれど、男の掴む力が強く振り解くことができずにいると、奥から女性が戻ってきた。
「あ、あの、タオルとジップロック……あ」
その目が男の顔にとまって、不安げに寄っていた眉がわずかに緩んだ。
「よかった、起きてたの」
安堵したようにそう言いながら、女性は急いでこちらへ寄ってくる。
「ねえ、大丈夫? ほら、冷やすもの持ってきたから」
男は何も答えなかった。ぎこちなく首だけをそちらへ向けた。
その動きが、妙だった。機械的な関節だけで動いているような不自然さ。
女性は気づいていない。
「ほら、氷。ここに入れて──」
言いかけて、僕の顔を見て首をかしげた。
「どうしました?」
「……いや」
言葉がうまく出てこない。男の手が、ぎり、とわずかに力を強めた。
骨が軋む。
熱のせいだ。きっとそうだ。高熱で意識が混乱しているだけだ。
そう思おうとはしているのに、胸の奥のどこかが強く警鐘を鳴らしていた。
男の口がゆっくり開いた。
「ねえ、聞こえる? 大丈夫? どっか辛いの?」
女性が顔を覗き込んだ、その瞬間だった。
男の首が、ぐい、と彼女のほうへ伸ばされた。勢いよく、あまりにも強烈に。
僕は反射的に声をあげていた。
「──下がって!」
握られたままの手首を後ろへ引き、そのままの勢いで振りほどく。
座り込んだままの女性に駆け寄り、僕はぐっと手を引いた。
「な、何?」
「立って、はやく!」
状況を飲み込めていないのだろう彼女の心情は一目でわかった。
当然だ。当然だよ。高熱で倒れた恋人が自分を襲おうとしたんだ。しかも、噛みつこうとした。
「はやくっ!」
そんなの、僕だって一緒だ。
背後で、布が擦れる音がした。男が起きあがろうとしているに違いなかった。
女性が立ち上がるのを待つ暇はない。そのまま引きずっていくつもりで部屋の扉へ向かおうとする。と、僕の手からするりと彼女の手が抜けた。
振り返る。
男は四つ這いでなっていた。頭がぐらりと揺れ、焦点の定まらない目が座り込む女性に向けられていた。
喉の奥で、ひゅうと乾いた音が鳴る。
「……宏くん」
女性の口から小さな声が漏れた。
男の腕が床を掻くようにして彼女へ伸びた。
その動きは、人が立ち上がろうとする動きとは少し違っていた。もっと乱暴で、もっと原始的な、相手を害することだけを考えているみたいに。
女性は動こうとしない。
「くそっ!」
仕方のない状況だって言い訳はたつ。それでもその選択がもたらしうる事態をまったく想像しなかったわけでもない。
僕は、背を向けた。
ふたりに背を向け、部屋を飛び出した。すぐ隣の自室に駆け込み、そのまま内鍵とチェーンをかけた。
薄い扉越しだ。どうしたって音は聞こえてくる。つんざくような悲鳴が聞こえたのは次の瞬間だった。




