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翌朝、タイマーの音で目が覚めると同時、僕はゆっくりスマホを手に取った。
メールがきていないか一応チェック。表示されたのは各種アプリの通知のみだったから、そのまま枕元に置いてぐっとのびをした。
せいさんから返信があるのは毎回2、3日は空く。きていないならそれはそれで安堵する気持ちもあった。
テレビをつけて洗面所へ向かい顔を洗う。
『昨日未明、都内で三件の傷害事件が発生しました。警察によりますと、逮捕されたのは──』
なんとはなしにニュースを聞いていると、そんな話が聞こえてきた。朝っぱらから景気が悪いことこの上ない。
カーテンを開け、あくびをひとつ。空はよく晴れていた。雲ひとつない薄青。傷害事件だなんていかにも縁遠い平和な朝の色をしていた。
「こういうの、映画や漫画だとだいたいフラグだったりするんだけど」
ぼそっと呟いて、自分で苦笑した。何を基準に映画なんて持ち出してるのか。
キッチンで適当に食パンを焼き、インスタントのコーヒーを淹れる。トースターのチンという音がやけに大きく響いた気がした。
早朝だからかいつもより静かで、外の廊下から誰かがドアを開け閉めする音や足音などはまだ聞こえてこない。
ニュースはまだ続いている。
『なお、いずれも容疑者は錯乱状態にあり、襲われた被害者ほか、かけつけた警察官数名にも怪我を負わせたとのことです。同様の事件が東北、近畿でも数件発生しており──』
「日本も物騒になってきたなあ」
トーストをかじりながらスマホをもう一度見ると、同様のニュースが通知で来ているのに気がついた。
それはSNSでも同様で、興味本位に調べてみるとニュースで言っていた犯行の瞬間を捉えたらしい動画も投稿されていた。
マンションの中層階くらいから撮影された動画のようで、暴れる男をひとりの警官が必死に押さえ込んでいる。被害者と思われる女性が壁際でぐったりとしていて、肩に血がついている。
動画が被写体に寄るにつれ、思わずギョッとした。
犯人はまるで獣のように怒声をあげている。歯を剥き出して警官に噛みつこうとし、街灯の光をチラチラと反射する目にも理性はなく、同様に感じたのだろう投稿者のものと思われる「ヒッ」という細い声が入り込んだ。
襲われた女性の傷痕もよくよく見れば噛み跡に見える。
なんだか既視感があった。胸の奥がほんの少しだけざわざわするような。
「フェイク?」
最近のAIなら、こんなの朝飯前のはずだ。同じことを思ったユーザーの投稿者への煽りも多い。もちろん本物と捉えて、麻薬や精神疾患と関連付ける人も多いし、ドキュメンタリー映画のトレーラーみたいなんて不謹慎な呟きもある。
そのなかで目を引くのは「ゾンビ」の三文字だった。
アプリを閉じて、スマホを置く。朝からあんな凄惨な映像を見させられちゃうと気分も下がろうものだよ。
誰か知り合いに愚痴ろうかとも思ったもののやめて、メールが来ていないかを一応再確認、パンを口に放り込んだ。
食べ終えた皿を流しに置き、歯を磨けば準備は万端。財布、学生証、スマホ。充電は96パーセントで問題なし。
テレビでは現場映像が流れているらしく、画面の端にパトカーの赤色灯がちらついている。
『しかし、恐ろしい事件ですよねえ。どう思います? 宮木さん』
『あたしは違法薬物じゃあないかと思いますがねえ。最近、若者の依存が問題になってるって話もあったでしょう? まったく社会秩序の崩壊ですよ』
『それで言うと、ウィルスの線もありでしょうか。少し前に欧米でもおんなじようなことがありませんでした?』
『あぁ〜、あのシアトルかどこかの? そういえば、あれも急に人が倒れ始めて、原因がなかなか特定できなかったって──』
このまま行くと、アメリカの製薬会社がなんて陰謀論まで飛躍しそうだ。ニュースは物事を大袈裟に扱うのが仕事だし、それも気にならないわけじゃないけど、聞くにしても今じゃない。
大ごとになっても、せいぜい電車が少し遅れたりするくらいのことだろうとも思ったし。
玄関で靴を履き、ドアノブに手をかける。
「……」
ふと頭をよぎった考えに僕は苦笑した。
外は、いつもと変わらない朝だった。
◇◇◇
「でさぁー、兄貴ったらひっどいんだ。冷蔵庫にあるもん全部食べちゃうんだもん。楽しみにしてたにさあ」
「はあ、そりゃあ酷いっすね」
「でしょー? あんのヒキニートキモオタ豚野郎、今度あいつの同人誌燃やしてやろうかな」
バイト先の店は僕が通う大学から駅ひとつ離れたところにある。そこそこ人気もあるから昼間は結構賑やかになる。
なるはなるんだけど、誤解のないように言っておくと窓際のその一角はことさらにうるさかった。
男女のふたり連れで、愚痴る女性に男の方が適当な相槌をうっている。やたらに声がでかくて、周囲からたまに向けられる視線にも気づく様子はない。
「そんならどっかに保存用もないか確認したほうがいっすよ」
「保管用? なにそれ」
「ほら、オタクって人種の習性。使用、保管、布教の用途別に三つは持ってる可能性があるって」
「ふうん? 逆を言えば、あの口臭冷蔵庫荒らしに友達なんかいるはずもないから布教分の心配はしなくていいと……なるほど」
大声でなんて話をしてるんだ、あのふたりは。
「専門分野ですから。な? ユウ」
料理の配膳やらで忙しくしていた僕を呼び止めた男── 加瀬颯太を僕は努めて意識の外に置こうとした。
「悠くん? あー、映画?」
「そ。ガキんときからずっと。映画だ特撮だ語らせるとなっがいんすよ」
「へえ、あんまりそういうイメージないなあ」
「ないでしょ? あいつ外面だけはいいんで」
颯太はケラケラ笑いながら、勝手に話を広げている。僕はトレーを持ったまま、ため息をひとつ飲み込んだ。
「あのね。別にそんな語っちゃいないでしょうよ」
「へえ? 昨日『ホラー映画におけるゾンビは社会風刺のメタファーで〜』とかなんとか言ってたのは誰だっけ」
「それは、だってソウがお勧めしてくれたから」
痛いをところを突かれて、声が小さくなる。
「感想……伝えるのが義理かなあと思っただけで」
「義理で一時間ねえ。お気遣い痛み入るよ」
颯太がわざとらしく胸に手を当てた。僕と颯太の様子に女──梅宮カレンがくすくす笑いながらストローをくるくる回している。
「ユウくん、それはもう立派に『語り』だって。その、ゾンビがなんだっけ? メタファー?」
「……社会不安の可視化」
つい口が滑った。
「あ、出た」
颯太が即座に指をさす。
「油断も隙もないな」
「いや、だから別にそういう気はなくて」
「いいじゃん、聞きたい! そいやさ、今朝もニュースでやってたでしょ?」
カレンが身を乗り出した。窓から差し込む昼を受けて、瞳がきらきら輝いている。
「ねえ、ふたりとも見た? Twittyのあの動画」
「警官と揉み合ってるやつなら」
「僕も……見ました」
「あれ、ちょっと怖かったっすね」
「うん、なんか目がやばくなかった?」
その一言で朝見た映像がふっと蘇った。街灯の光を反射する焦点の合わない目。喉の奥から漏れる濁った声。
胸の奥が、またわずかにざわついた。
「まあ、演出が効いてたよなと。俺はそんな感じかなあ」
「演出って、あのねえ、ガチ事件だよ?」
「仮にフェイクだとしたらって話っすよ」
「フェイクぅ〜?」
颯太がスマホを取り出し、画面をスクロールする。
「あ、ほら。今も新しい動画上がってる。『都内別地点』って」
「やめときなよ、ソウ。飲食店だしさ」
「チラ見だけ。な?」
「あたしも賛成」
カレンも横から覗き込む。僕はトレーを持ったまま、仕方なしに視線を落とした。
映っているのは駅前のロータリーのようだ。数人が何かを取り押さえている。人の怒声が飛び交い、画面が揺れて悲鳴が混ざった。
「うわ……」
カレンが顔をしかめた。
「これ、さっきのと別人じゃない?」
「服装違うみたいだしなあ……タイムライン、同時多発って騒いでる」
「偶然が重なってるだけじゃないかな」
そう言いながら、自分でも声が少し硬いのがわかった。
店内のBGMはいつも通りのポップスで、エスプレッソマシンの蒸気音や食器の触れ合う軽い音もする。でも、それがどこか遠く聞こえた。
「ねえ? もし本当に感染系だったらどうする」
カレンが半分冗談めかして言った。
「ゾンビのパンデミック」
「ちょっと、縁起でもないですよ!
「ユウ、声」
思いのほか大きな声が出て、自分自身でも驚いた。
やらかした。店中の視線が集まってる。というか店長たちの視線が痛い。
仕事もせずおしゃべりしてるんじゃ当たり前のことだ。
「でもさ、噛みつきってもうテンプレじゃない?」
「もしそうなら、俺なんか《《いの一》》で死んじゃいそうだ」
「あたしも。錯乱して死ぬポジ」
こっちの都合なんかお構いなしで話をし続けるふたりの様子に、僕はそっとため息をついた。
「ごめんなさい。そろそろ仕事戻らなきゃ」
「謝らないでよ。あたしらが捕まえてただけなんだからさ」
「そうそう。気にすんな」
別に君に謝ってるわけじゃないんだけどな、そう言おうとしたら後ろで店長が咳払いをした。
「す、すみません、今すぐ!」
じゃあまた、と、ふたりに目礼をして来店してきた家族連れの対応に向かう。
「そういや、カレンさん。ランニング・テッドって知ってます? それもゾンビものなんすけど」
「んー? 走る……テッドさん?」
「あ、やっぱ知らないか。結構面白いんで、今度うちで観ません? ユウもさそって映画パーティみたいな」
「えー、いいね! じゃあ、日程はどうしよっか」
「俺はこの日とこの日は空いてますね。あとはユウの都合次第かな」
勝手に予定を決められている気がする。でも、今はそれどころじゃなくて僕はため息をついた。
正午も過ぎてお客さんが増えてきている。色々と仕事もあるし、店長からはちょっぴり睨まれているような感じもするし。
僕が悪いんだからこればっかりは仕方がない。
そこからは真面目に接客をして、30分ほど経っただろうか。颯太とカレンが席を立つのが見えた。
「じゃ、店員さん。お会計お願いします」
レジへ入った僕に、他人行儀な声色で颯太が伝票を手渡してきた。
「承知致しました。お客様」
僕も合わせてそう言ってやれば、隣でスマホを見ていたカレンが小さく吹き出す。
「お口直しに飴などいかがですか?」
「これはこれは、ご丁寧にどうも」
「いえいえ」
「いや、本当に申し訳ないなあ」
「勤めですから」
カレンが笑う。
「ユウくん。あんまりふざけて、またお店の人に怒られでも知らないよ? 店長さんもこっちのほう見てるみたいだし」
「いや、見てるってか、ありゃ監視だな」
「えっ!?」
そのとき、店の自動ドアが開く音がした。
いつも通りの駆動音。設置されたドアベルに当たって鈴の音がリンと鳴った。
反射的に目をやって、僕は一瞬動きを止めた。
スーツ姿の男がいた。より詳細を言えば、男はこの店に用があったわけではないようで、ドア横のガラスに手をついたまま荒く呼吸を繰り返していた。ネクタイは歪み、顔全体に玉のような汗。ひどく苦しそうな表情のなか、目だけが熱に浮かされたように爛々と見開かれていた。
店の入り口は通りに面していて、実際、視線は通りのむこうへ向けられている。どこかへの道すがらという雰囲気だから客ではないのだと思う。
ただ、異様だ。
「あの、大丈──」
カレンが遠慮がちに言いかけるも、何かに気づいたように息を呑んだ。
男はといえば店内からの視線を気にする様子もなく、ゆっくりと歩き始めた。あんな見るからに不調とわかる有り様でいったあどこへ向かおうというんだろう。
奇妙に思いながらもその姿を見送って、ドアが閉まるまでの間、僕はしばらく息も忘れていたような感じがした。
「ねえ……見た?」
誰にともなく、カレンが息を潜めるようにして言った。何をと僕が尋ねるより前に、颯太が眉を顰めて頷いた。
「袖口のとこ、血ついてた」
「え?」
「赤かったんだ。鼻血が垂れたとかそう言うんじゃなかったし……それに、あの人の首んとこ見えなかったか?」
「首……えと、カレンさんは?」
「あたし、見たけど」
言い淀むカレンのあとをついで颯太が言った。
「傷があったんだ。抉れてた。三日月型でグロい感じで、それがなんつーかさ」
「噛まれたみたいな感じだったの。まるで」
ヒトの歯形みたいな──。




