第6話 ☆0.2の価値
入学から二ヶ月。
中庭は、もはや「私たちの場所」になっていた。
放課後、東棟の小さな庭園。古い噴水のベンチに、向かい合うように座る二人。銀髪の公爵令嬢と、黒髪の辺境伯家嫡男。
最初は互いに本を読んでいるだけだった。
やがて一言二言、言葉を交わすようになった。
今では——普通に、会話をしている。
「今日の魔法理論、教授の説明に誤りがあった」
「気づいていたのね。第三定理の適用条件を一つ飛ばしていたでしょう」
「ああ。……気づく生徒がいるとは思わなかった」
「生徒会副会長のあなたが言うと嫌味に聞こえるわ」
「次席の発言が嫌味なら、首席の発言は暴力だな」
「……そう来る?」
噴水の水音の向こうで、ルシアンの唇がかすかに動いた。笑った、のだと思う。あの微かな表情の変化を読み取れるようになったのは、いつからだろう。
攻略wikiには「ルシアンの表情変化はほぼない」と書いてあった。
嘘だ。
彼の表情は変わる。ただ、変化が極めて小さいだけだ。眉の角度が一ミリ動く。瞳の奥の色合いが変わる。唇の端がわずかに上がる。それを読み取るには——じっと見つめていなければならない。
つまりwikiの記述は正確に言うと「ルシアンの表情変化を読み取れるほど、彼に注目するプレイヤーはいない(ルートがないので)」ということだ。
……私は読み取れているわけだが、それは前世からの推し補正であって、決して特別な意味は——
「エーデルシュタイン嬢」
「なに?」
「先日の件。廊下の一件」
濡れ衣事件のことだ。
「あなたは、あらかじめ証人を用意していた」
——鋭い。
ローゼリアの証言は「たまたまその場にいた友人」で通るが、クラリッサの証言は「事前に頼んでいた」と考えるほうが自然だ。クラリッサと私は特に親しくないのに、ピンポイントで証言を求めた。
「……なぜそう思うの?」
「あの場でのあなたの反応が、あまりにも冷静だった。驚きがなかった。つまり——起きることを予測していた」
ルシアンの灰色の瞳が、静かに私を見つめている。
測るような光。でも——敵意はない。純粋な知的好奇心。そして、その奥にある何か温かいもの。
「……あの男爵令嬢のやり方を、見ていたから。彼女が次に何をするか、ある程度予測できた。それだけよ」
「観察眼が鋭いな」
「あなたほどではないわ」
「俺は——」
ルシアンが言葉を切った。珍しい。彼は言葉を選ぶ人間だが、途中で止めることはほとんどない。
「俺は、あの男爵令嬢を信用していない」
——wikiの記述通りだ。「唯一ヒロインの嘘を見抜くキャラ」。
でもwikiにはこう書いてあった。『ルシアンがヒロインの嘘を指摘するのは終盤イベント。それまでは黙って観察している』
終盤ではなく、今この瞬間に——私に打ち明けてくれた。これもまた、ゲームにはない展開だ。
「私も、信用していないわ」
「……そうか」
短い返答。でもその声には、安堵が混じっていた。同じことを考えている人間がいたという、静かな安堵。
「この学園で、あの令嬢の本性に気づいているのは——多くない」
「二人だけ、かもしれないわね」
目が合った。
灰色と紫。
噴水の水音が、やけに大きく聞こえる。
「……ヴァンシュタイン卿」
「ルシアンでいい」
「え?」
「卿は堅苦しい。同じ秘密を共有する者同士、名前で呼んでくれ」
心臓が、大きく跳ねた。
同じ秘密を共有する者同士。
ゲームでは、ルシアンが名前呼びを許すイベントは存在しなかった。そもそも彼のルートがないのだから、親密度が上がるイベント自体がない。
フォーラムには、こんな投稿があった。
『ルシアンに名前で呼んでもらえるシーンがあったら、私は全ての推しを捨ててこのゲームに忠誠を誓った。なかった。二度と許さない』
……あのフォーラムの人、今の私を見たら「忠誠を誓え」と言うだろうな。
「では……ルシアン」
名前を呼んだ瞬間、彼の表情が——本当にわずかだけど——動いた。
いつもの凪いだ灰色の瞳に、微かな温度が灯る。
「ああ。——セレスティア」
私の名前が、彼の声で紡がれた。
低く、静かで、でも確かに温かい声で。
顔が、赤くなる。
今度こそ言い訳ができない。日陰にいるし、気温は適温だし、体調も万全だ。これはファン心理でも推し補正でもない。
ただ——この人に名前を呼ばれて、嬉しかった。
「……その。これからも、ここで会えるかしら」
「俺の方こそ。あなたがいなければ、この庭園はただの庭だ」
——そういうことを、無自覚に言う人なんだ。
前世のwikiには「ルシアンは無自覚に口説く」なんて書いていなかった。もし書いてあったら、レビューの☆は0.5くらい上がっていたと思う。
「ルシアン」
「何だ」
「あなたは——レビュー以上の人ね」
「……レビュー?」
「独り言よ。気にしないで」
薔薇の香りが風に乗って流れてきた。
噴水の水音。午後の光。そして——向かいのベンチで本に目を落としながら、時折こちらに視線を送ってくる黒髪の青年。
☆1.2の☆0.2。
その意味が、前世とは違う重みで胸に響いている。
前世のプレイヤーたちは、ルシアンの存在に☆0.2を献上した。キャラクターとしての魅力に対する評価として。
でも今の私にとって、この☆0.2は——。
……まだ、言葉にはできない。
できないけど、彼が中庭にいてくれることが、この☆1.2のクソゲーを生きる上で最大の救いになっていることだけは——確かだった。




