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第3話 攻略wikiに載っていなかった笑顔

 入学から一週間が過ぎた。


 学園生活には、恐ろしいほど順調に適応していた。


 成績は学年首席。社交は公爵令嬢の名にふさわしく。ローゼリアとの友情は日に日に深まり、クラスメイトたちとの関係も良好。ゲームの「悪役令嬢」とは程遠い、模範的な学園生活を送っている。


 ——と言いたいところだが、問題はあった。


 ヒロイン・リリアーナの好感度イベントが、予想以上のペースで進行している。


 入学初日の「教室での出会い」に続き、三日目には「図書館での再会」、五日目には「訓練場でのハプニング」。いずれもゲームの最速チャートに沿った進行だ。


 攻略wikiの最速チャートにはこう書いてあった。


 『全イベントが最速進行した場合、断罪イベントは入学後約六ヶ月で発生。通常プレイだと八ヶ月~一年。なお、悪役令嬢の行動でイベント速度は変動しない(プレイヤーに選択権がないため)。クソゲー(2回目)』


 つまり、早ければ六ヶ月後に追放される。


 ……意外と近い。準備を加速しなければ。


 そう考えながら、放課後の庭園を歩いていた時のことだ。


 学園の東棟には、一般生徒があまり立ち入らない小さな中庭がある。古い噴水と、手入れの行き届いた薔薇の生垣に囲まれた、静かな空間。


 ゲームでは「背景CG」としてしか登場しない場所だ。レビューに「現実にあったら最高の読書スポットだろうな」と誰かが書いていた。


 実際に来てみたら、本当にそうだった。


 石造りのベンチに座り、教科書を開く。穏やかな午後の光。噴水の水音。薔薇の香り。


 ——クソゲーのくせに、空気感だけは一流だ。


「珍しい。ここに来る者は少ない」


 声がした。


 低く、落ち着いた声。抑揚は少ないのに、不思議と耳に残る。


 顔を上げると——噴水の向こう側に、ルシアン・ヴォルフ・ヴァンシュタインが立っていた。


 黒髪灰眼。長身。入学式の日、並木道で一瞬だけ目が合った、あの青年。


「……ヴァンシュタイン卿」


 心臓が、不本意にも跳ねた。


 落ち着け。これはファン心理だ。前世で散々「ルシアンルートを実装しろ」とフォーラムに書き込んだ人間の、バイアス込みの反応だ。


「先客がいたか。失礼した」


 踵を返そうとする。


「あ——お待ちください。私が後から来たわけではありませんが、この場所を独占するつもりもございませんの。どうぞ、お気になさらず」


 ルシアンが足を止めた。灰色の瞳がこちらを見る。


 ——この瞳。


 ゲームの立ち絵では「冷たい灰色の瞳」と表現されていた。だが実物は違う。冷たいのではなく、静かなのだ。湖面のように凪いだ、深い灰色。


 攻略wikiのルシアンの項目を思い出す。


 『ルシアン・ヴォルフ・ヴァンシュタイン。辺境伯家嫡男。学年次席。性格:冷静沈着。他者との交流を避ける傾向。ヒロインへの好感度初期値:0(他の攻略対象は+20~+30)。唯一ヒロインの嘘を見抜く描写あり。攻略不可。開発の怠慢』


 「他者との交流を避ける傾向」。wikiにはそう書いてある。


 でも今、彼は立ち去ろうとしたのに、私の言葉で足を止めた。


「……では、お言葉に甘えよう」


 ルシアンが噴水の反対側のベンチに座った。手には一冊の本。


 沈黙が流れる。


 不思議と、居心地は悪くなかった。


 互いに本を読む。噴水の水音だけが、二人の間を静かに流れていく。


 ——これは、ゲームにはないシーンだ。


 当然だ。ルシアンには攻略ルートがないのだから、悪役令嬢との個別イベントなど存在しない。wikiにも、フォーラムにも、レビューにも、この場面の記述はどこにもない。


 今、私はゲームの「外」にいる。


「エーデルシュタイン嬢」


「はい?」


「一つ、聞いてもいいだろうか」


「何でしょう」


 ルシアンが本から目を上げた。灰色の瞳がまっすぐにこちらを向く。


「あなたは——あの男爵令嬢を、どう思う?」


 心臓が跳ねた。今度はファン心理ではなく、純粋な驚きで。


 あの男爵令嬢。リリアーナのことだ。


 攻略wikiには「ルシアンはヒロインの嘘を見抜く唯一のキャラ」と書いてあった。だがそれはゲーム終盤の描写であって、入学一週間目でこんな質問をしてくるとは記載されていない。


「どう、と申しますと?」


「先日の授業中。あの令嬢が殿下に助けられた場面がいくつかあった。あなただけが、平静だった」


 ……観察力が鋭い。


 他の令嬢たちが嫉妬や好奇で顔を歪めている中、私だけが無反応だったのを見ていたのか。


「私は殿下に特別な感情を持っておりませんので」


「そうか」


 短い応答。でもルシアンの目が、ほんの少し——本当にほんの少しだけ、和らいだ気がした。


「正直な方だ。この学園では珍しい」


 そして——彼は笑った。


 微かに。唇の端がわずかに上がっただけの、小さな笑み。


 でも確かに、笑った。


 攻略wikiには「ルシアンが笑うCGは存在しない」と書いてあった。


 フォーラムには「ルシアンの笑顔を見たいがためだけに全ルートクリアした。なかった。訴訟を検討する」という投稿があった。


 そのルシアンが、今——私に笑いかけている。


 wikiに載っていない。レビューにも書かれていない。攻略チャートのどこにも記録されていない。


 この笑顔は、ゲームには存在しなかったもの。


「——っ」


 頬が熱い。


 いやいやいや。これはゲームキャラへのバイアスだ。前世でルシアンルートを熱望した人間の正常な反応だ。推しに笑われて顔が赤くなるのは、オタクとして至って健全な——


「どうした? 顔が赤いが」


「庭園の日差しが……少し」


「日陰にいるが」


「……気のせいですわ」


 ルシアンが不思議そうにこちらを見ている。あの凪いだ灰色の瞳に、微かな——本当に微かな、興味の色が浮かんでいる。


 ——このやりとりも、wikiには載っていない。全てが未知の領域だ。


 それが少し怖くて、でも——不思議と、心地よかった。


「また、ここに来てもいいだろうか」


 帰り際、ルシアンがそう言った。


「……ええ。もちろん」


 彼が去った後、私はベンチで一人、額を手で押さえた。


 ゲームでは「冷たい脇役」だったはずの人が、笑顔を見せてくれた。


 レビューにもwikiにも書かれていなかった、その笑顔が——やけに胸に残っている。


「……ねえ、前世の攻略wiki民の皆さん」


 誰にも聞こえない声で、呟く。


「ルシアンが笑うと、とんでもなく綺麗ですよ。訴訟は取り下げてあげてください」


 噴水の水音が、小さく笑ったように聞こえた。


 ——次にここに来た時、彼はいるだろうか。


 攻略wikiには、その答えは載っていない。

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