第10話 ☆4.5の世界の入口
北方辺境。
馬車の旅は三日間続いた。
王都の華やかさが嘘のように、景色は日に日に素朴になっていった。石畳の街道が土の道に変わり、密集した建物が点在する農家に変わり、やがて広大な牧草地と深い森が視界を埋め尽くした。
そして——ヴァンシュタイン辺境伯領に入った時。
空気が変わった。
文字通り、空気が変わったのだ。澄んでいて、冷たくて、どこか甘い。森の樹木と、遠くの雪山から降りてくる風の匂い。
「……きれい」
思わず呟いた。
ゲームのCGでは「辺境の荒涼とした風景」として描かれていた場所だ。レビューには特に言及もなかった。追放エンドのプレイヤーは物語に夢中で、背景など見ていなかったのだろう。
でも実物は——息を呑むほど美しかった。
緑の丘陵が波のように連なり、その間を銀色の川が流れている。遠くには雪を被った山脈。空は、王都では見たことがないほど高く、青い。
「気に入ったか」
馬上のルシアンが、淡々とした声で聞いた。でも——その声に、かすかな誇りが混じっていることに、私は気づいた。
「ええ。とても」
「……そうか」
ルシアンが前を向いた。耳が赤い。
三日間の旅路で、私はいくつかのことを学んだ。
ルシアンは照れると耳が赤くなる。
ルシアンは早起きで、夜明け前に馬車の周辺を見回りしている。
ルシアンは甘いものが苦手だが、道中で買った蜂蜜菓子を「不味くはない」と言って全部食べた。
全て、wikiに書いていなかったことだ。
全て——ゲームには存在しなかった、ルシアン・ヴォルフ・ヴァンシュタインの真実だ。
*
辺境伯の屋敷は、想像していたよりもずっと温かい場所だった。
石造りの堅牢な建物だが、窓からは暖かい光が漏れ、入り口には色とりどりの花が飾られている。
「おかえりなさいませ、若様——おや、お客様ですか」
白髪の老執事が出迎えてくれた。ルシアンの帰還を待っていたようで、驚きはするが慌てはしない。
「マルクス。客人だ。しばらく滞在していただく。最良の客室を用意してくれ」
「かしこまりました。……失礼ですが、お嬢様のお名前を」
「セレスティア・フォン・エーデルシュタインよ。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
「とんでもございません。若様がお客様をお連れになるのは初めてのことですので——むしろ、喜ばしい限りで」
マルクスがにこりと笑った。ルシアンが軽く咳払いをした。
「余計なことを言うな」
「はい、はい」
——ルシアンには、このような柔らかい関係を持てる人がいるのか。
ゲームではただの「冷たい辺境伯家の嫡男」だった。でも実家に帰ると、こうして家臣に突っ込まれて少し照れている。
人間だ。データじゃなくて、人間。
この当たり前のことが、五ヶ月間クソゲーの世界で過ごした後だと、泣きそうになるほどありがたかった。
*
客室に案内され、荷ほどきをした。
窓から見える景色は——あの広大な牧草地と、遠くの雪山。
「セレスティア様。お風呂の準備ができましたの」
メルが嬉しそうに報告してくる。三日間の旅で疲労困憊のはずなのに、新しい場所に来たことで目が輝いている。
入浴を済ませ、着替えた後。
ノックの音。
「——セレスティア。夕食の準備ができた」
ルシアンの声だった。直接呼びに来たらしい。……執事に任せればいいのに。
食堂に案内される。質素だが温かみのある部屋。暖炉に火が入り、テーブルには辺境の料理が並んでいた。
向かい合って座る。
「口に合うかわからないが」
「いただきます」
一口食べて——止まった。
「……おいしい」
素朴だけれど、素材の味がしっかりしている。王都の華やかな宮廷料理とは正反対の、飾り気のない、でも確かな味。
「辺境の食材は質がいい。ただ流通が悪いので王都には出回らない」
「もったいないわ。この味を知らないなんて」
「同感だ」
静かな夕食。
暖炉の火が爆ぜる音。食器がかちゃりと鳴る音。
——この空間に、嘘がない。
リリアーナの計算も、アレクシスの偽善も、取り巻きたちの追従もない。ただ、温かい食事と、穏やかな時間と、向かいに座る人の灰色の瞳があるだけ。
「ルシアン」
「何だ」
「……ここは、いいところね」
「ああ」
「レビューでは——いえ、何でもない」
レビューでは、辺境の描写はほとんどなかった。追放エンドに辿り着いたプレイヤーたちは、辺境の美しさではなく、ルシアンとの隠しイベントに夢中だったから。
でも——辺境そのものが、こんなに美しい場所だったなんて。
☆4.5の評価は、物語の展開だけではなかったのだ。
この場所の空気。この食事の味。暖炉の温もり。そして——
向かいに座る人の、静かな眼差し。
そのすべてが、☆4.5の世界を構成している。
*
夕食後。
ルシアンが屋敷の中を案内してくれた。図書室、応接間、庭園。そして——屋敷の裏手にある、小さな薬草園。
「この薬草園は、領の薬師が管理している。聖氷花の試験栽培もここで行われた」
足が止まった。
「聖氷花……!」
「あなたが以前、友人の弟の病気のことを話していただろう。必要な薬草がここにあるなら、手配する」
——覚えていたのか。
私がローゼリアの弟のために聖氷花を探していると、中庭での会話でちらりと話したことがある。あの時ルシアンは「そうか」としか答えなかったのに——
裏で、ちゃんと準備してくれていた。
「ルシアン、あなた——」
「困っている者を助けるのは当然のことだ。以前、どこかの王子が同じことを言っていたな。あちらと違って、俺は実行するが」
アレクシスへの痛烈な皮肉。ルシアンが冗談を言うのは珍しい。
笑いが込み上げてきた。そして——涙も。
「あなたは本当に……ずるい人ね」
「ずるいとは心外だ」
「だって。私がまだお礼を言い終わらないうちに、次の恩を重ねてくるんですもの」
ルシアンが口を開きかけて、閉じた。
暗がりの中で、彼の耳が赤くなっているのが——かろうじて見えた。
「……礼は要らない。あなたがここにいてくれるだけで、十分だ」
その言葉が、静かに胸に落ちた。
石のように重く、でも——温かく。
ゲームの「追放エンド」では、悪役令嬢は一人で辺境に辿り着き、一人で新しい生活を始める。そのことに☆4.5がついたのは、「自由を手に入れた」からだ。
でも、私の追放エンドには——自由だけじゃない。
友人がいた。忠実な侍女がいた。そして——
この人がいた。
「ルシアン」
「何だ」
「ここで、がんばるわ。新しい人生。あなたの領で」
「……ああ。歓迎する」
夜空に星が瞬いていた。
王都では見えなかった星々が、辺境の空いっぱいに散りばめられている。
☆1.2のクソゲーは終わった。
私は今——☆4.5の世界の入口に立っている。
そしてその隣に、レビューでは語り尽くせなかった☆0.2が——いてくれる。
「さて」
星空を見上げて、小さく笑った。
「☆4.5の攻略、開始です」
第一章・完
最後まで読んでくれてありがとうございます!
「面白かった」と思ってもらえたら、★★★★★やブックマークで応援してもらえると嬉しいです。




