焦燥感と白昼夢
忙しく動いていた右手が止まった。白いノートの左ページには乱雑に書かれた数式が並んでいるが、右側は未だ真っ白で気が急く。
数ヶ月前までクラスメイトの声で溢れていた教室が、今はしんと静かだ。ひとり、またひとりと進路が決まっていき、みんな学校に来なくなった。来週試験があるのは僕だけ。三年生の中で僕だけが学校に来て勉強をしている。
二つ離れた教室からは、授業を受ける二年生の声が聞こえた。内容までは聞き取れないが、きっと周囲の人と話し合いながら問題を解いているのだろう。対してこの教室にはクラスメイトの声がない。僕の呼吸音と紙の上を走るシャープペンの音がいつもより大きく感じた。まるでこの世界にたった一人取り残されてしまったようだ。
いいや、今はそんなことを考えている場合じゃない。試験は来週なのだ。ひとつでも多くの問題を解いて、ひとつでも多く理解しなければならない。
「やっぱり、焦ってるね」
一人だと思っていた教室に突如響いた声は、少しだけ笑いが含まれているように感じた。声の主を見上げて、僕は目を見開く。無造作な黒髪、垂れ下がった目尻、口角は微笑を形作っている。それは鏡や水たまり、教室の窓に映る顔と全く同じもの。つまり、『僕』だった。
驚いて固まっている僕を見て、『僕』は笑う。鏡があるわけじゃない。表情が違う。鏡は言葉を発しない。しかし、それなら今目の前にいる『僕』はいったい誰なんだ。夢を見ているのか。はたまた幻覚でも見えているのか。
「ねえ、今日は西暦何年の何月何日?」
「え、ええと、二〇二六年の二月十日です」
勢いに呑まれて反射で答える。『僕』は思った通りだというように満足気な笑顔を浮かべ、大きく頷いた。僕には何も理解ができない。
「君は誰? 僕にそっくりだよね」
「そっくりというか、本人だよ。一週間と二日後の君。もっと簡単に言うなら、未来の僕?」
意味がわからない。やはり夢でも見ているのだろうか。
「信じなくてもいいから、僕の話を聞いてほしいんだ」
『未来の僕』の笑顔が真剣な表情に変わる。彼が嘘をついているようには見えなかった。まさか、本当に未来の僕なのか。もしそうなら、彼はもう試験を終えているはず。
「試験はどうだったんですか……?」
聞きたい。聞きたくない。相反する気持ちが交差する。
「落ち着いて。とりあえず、ついてきてくれる?」
正体のわからない人についていくのは良くないことだろう。小さな子供だって知っているはずだ。それでも、一人取り残された世界に突然現れた、唯一頼れそうな相手なのだ。彼の言葉が本当なら、試験の問題だって知っているだろう。答えを教えてもらうことだってできる、と一瞬思ってはならないことが頭を過ぎった。
大人しく『未来の僕』についていく。教室を出て、靴箱へ。靴を履き替えて、学校の外へ。彼は目的を持って歩いているのだろうか。何を考えているのか全くわからない。ただ目に入った道を進んでいるようにしか見えなかった。
だんだんと苛立ちが募っていく。僕には散歩をする時間なんてない。来週の試験に備えて勉強しなければならないのだ。タチの悪い嘘だったのならば、早く白状してほしい。
「どこに向かってるの」
思いの外、隠す気のない不機嫌な声が出てしまった。『未来の僕』は、また顔に笑顔を貼り付ける。
「そんなに焦んないでさ、目を閉じて深呼吸してみなよ。それから周りをちゃんと見てみて?」
腑に落ちないが、言う通りにしてみよう。目を閉じてすぅっと息を吸い、吐く。吸って、吐く。また吸って、吐く。そしてゆっくりと重い瞼を持ち上げた。
「あれ。ここ、もう梅が咲いてたんだっけ」
こんなところに花なんて咲いていたっけ。今日はこんなに晴れていたっけ。なんだかさっきまで見ていた景色とは違うような気がした。
右足、左足と交互に動かして地面を歩く。昨日の夜に降った雪は、溶けきらずにまだ少し残っていた。誰かが作ったのだろうか、道の端には小さな雪だるまが三つ並んでいる。その隣にはあとから付け加えられたような雪うさぎが二つ。駐車場に止められた車の窓は結露して白く染まり、そこに子どもが指で落書きしたような跡が残っている。昨日まで見えなかった冬の景色が、今そこに広がっていた。
「ちゃんと見えたみたいだね」
『未来の僕』は青空を見上げたまま、ふぅと息を吐いた。白い息が空気に溶けてゆく。
「僕はずっと焦ってたんだ。教科書や問題集としか目を合わせなかった。不安で仕方がなくて、勉強ばかりだった」
きっと、今の僕の話だ。『未来の僕』から見た過去の僕であり、現在の僕の話。
「試験はどうだったか、って聞いたよね」
こっちを向いた『未来の僕』と目が合う。彼からは笑顔が消えていた。代わりに、元々垂れ気味だった眉が下がり、唇をぎゅっと噛み締めている。その表情で、聞かずとも結果が分かってしまった。
「駄目だったの?」
「単刀直入に言えば、そうだね。頑張りすぎちゃって、試験当日に体調を崩してしまったんだ。ほら、ここ最近の生活を思い出してみてよ」
今日までの生活を振り返ってみる。昨日は数学の問題集を解いていて、寝る頃には二時半を過ぎていた。今日は何も食べる気にならず、朝から何も口にしていない。息抜きに出かけたのは何ヶ月前だったか。最近は学校に行くときだけにしか外に出ていない。人とまともに会話をしたのはいつだ。もう必要最低限の話しかしていない。
振り返れば振り返るほど良くない生活をしていることに気付く。勉強に必死になるあまり、気付くことができなかった生活習慣の悪さ。完璧に問題を解けるようになれば大丈夫だと思っていた。けれど、そんな訳がない。体調を崩して試験を受けることができなくなれば元も子もないのだ。
「悔しかった。あれほど頭に詰め込んだのに、意味がなかった。悔しくて、やるせなくて、どうしようもなかった」
三年生の全てを費やしてきたというのに、それが意味もなく溶けていく虚しさ。想像をするだけで悲しくなる。
「熱に魘されていたんだけど、気付いたら学校にいた。なんとなく教室に行けば僕がいて、過去に来たんだと思った。夢でもいいから、頑張りすぎずに息抜きをしろって伝えたかったんだ」
現実的にあり得ないことだが、藁にも縋る思いで僕に声をかけたのだと言う。たとえ夢であったとしても後悔したくない、と行動に移したのだろう。
「勉強をしなきゃ不安だと思う。それでも、規則正しい生活をしてほしいんだ。これまでの努力を無駄にしてほしくない」
「今からでも、間に合う? 息抜きをしても試験は大丈夫かな」
「大丈夫、一年以上頑張ってきたんだ。今できていないのは、焦らずリラックスすること」
深く息を吸って、吐く。もう一度吸って、吐く。心の中のもやもやを、不安を、焦りを、全て吐き出すように、深く。
「わかった、やってみる。とりあえず今日は十時に寝るよ」
夜遅くまで起きるのをやめよう。早く寝て、その分早く起きて朝食を食べよう。息抜きに散歩を日課にするのもいいかもしれない。
「うん、その意気で頑張って。気を張りすぎず、試験に挑んでね」
すぅっと、遠のいていく意識の中で見たのは、『未来の僕』の笑顔。それは、嬉しそうにも悲しそうにも見え、彼の本音を知ることはできなかった。
意識が浮上する。いつの間にか、僕は教室の机に突っ伏して眠っていた。
今までのことは夢だったのだろうか。それとも、現実?
わからないし、知る由もないだろう。けれど、大切なことに改めて気付いた。たとえ夢だったとしても、改善するべきことに気付いたからには、行動しなければならない。
僕は広げていたノートと問題集を鞄にしまい、大きく伸びをした。今日は帰り道にあるカフェに寄って、好きな小説でも読みながらコーヒーを飲もうか。勉強はひとまず置いておいて、家に帰ってからにしよう。
ゆっくりと立ち上がった僕を応援するかのように、授業終了のチャイムが校内に鳴り響いた。
ご覧いただきありがとうございました。
焦りすぎず、一息吐いて。
誰かに届きますように。




