カフェキュウビの日常1話6
数を減らした今、妖怪たちの間にも一族や派閥のようなものはもう存在しないという考えも有り得る。
椿は一息つくと、冷めたお茶をすすり、淡々と告げた。
「お前らが争うのは勝手じゃがな、妾の店をめちゃくちゃにしたのは看過できぬ。
よって──しばらくこの店で、働くのじゃ」
「えぇぇぇ!? なんで俺が……!」
「や、やですよ! こんなカフェで働けるわけ……」
「異論は受け付けぬ」
椿がにっこりと笑いながら、煙管をくるりと回しただけで、2人は黙った。
その口元は微笑んでいても目はまったく笑っていなかった。
こうして──二人は、交代制でカフェ・キュウビの“お手伝い”をすることになった。
再び顔を合わせて喧嘩にならないよう、キヌと権助は一日交代で店に立ち、もう片方は屋台を営業するという取り決めだ。
再びぎゃあぎゃあと騒ぎ立てる二人だったが、椿がギロリと睨むと、途端に小さくなって承諾した。
光太は思わずため息をつく。
翌朝──
カフェ・キュウビの前に、光太が到着したのは午前7時50分。ドアを開くと、中から湯気の立つ香ばしい匂いが漂っていた。
「……あれ?」
店に入ると、キヌがすでに制服姿で働いていた。テキパキと厨房と客席を行き来して、慣れた手つきでテーブルを拭いている。ポニーテールがゆらゆら揺れている。
「おはよう、光太。遅いよ、私もう全部終わっちゃった」
昨日あったばかりで下の名前で呼ばれて少し驚くが、椿もそうだったように妖怪には名字で呼ぶ習慣がないのかもしれない。
「……いや、俺、10分前に来たんだけど……」光太はぼそりと言った。
「ふふ、冗談冗談」
キヌは軽く舌を出して笑った。キヌはコミニュケーション能力が高いようだ。
仕事が始まると、二人は互いを補佐するように動いていた。
光太が一人では持ちきれない皿を抱えていると、キヌがすっと現れ、
「持てない分は私が持っていくよ」
とさりげなく声をかけて手伝ってくれる。
その姿を見て、光太も見習うようになった。
キヌが注文の多いテーブルに料理を運んでいるときは、光太がもう一皿を持って後ろからついていった。
──よく周りが見えてるなあ、と光太は感心した。
ランチタイムが終わり、休憩に入る。
二人とも居間のちゃぶ台に向かい合って座り、賄いのオムライスを食べていた。
今日の賄いはオムライスだ。
白い皿の中央にどんと、黄色い卵のドーム。
スプーンを入れると、中からとろりと半熟の液体が流れ出し、湯気が立ち上る。
ケチャップライスの鮮やかな赤が食欲をそそる。ケチャップライスの具は玉ねぎピーマンマッシュルームそして鶏肉。バターの風味と香りがそれらをやさしく包む。しばらく無言で二人は食事をした。一口食べるたびにキヌは笑顔になる。そんなキヌの表情を光太は眺めていた。いくら見ていても飽きなかった。キヌの大きな瞳が刻一刻と変化する様子が楽しかった。
「さっきは手伝ってもらって、ありがとうございます。キヌさん」
光太が頭を下げると、キヌは口をもごもごさせながら返した。耳が赤い。
「あー、キヌでいいよ。こそばゆいから。敬語もなしで」早口でそういった。
「え、あ、うん……わかった。キヌ」
「そ、それにしても、ここの賄いはうまいな~!」
キヌはオムライスの上のケチャップをスプーンでなぞりながら言った。
「いっつもこんなにうまいの食ってんの?」
「うん、いつもこんな感じだよ。椿さんの料理はどれも美味しい」光太は食後のコーヒーを一口啜った。
「うわー、いいなぁ。こんなの毎日食べられるなら、給料とかいらないからここで働こうかなぁ……」
──割と真剣に悩んでそうだな、と光太は思った。
キヌは大人しくしていれば可愛らしい女の子だった。
表情がコロコロ変わるし、明るい性格なので、自然とこちらも前向きになれる気がする。昨日の権助との喧嘩のときとはえらい違いだ。
「ねぇ、光太? 」
「なに?」
「光太はなんで、ここで働いてるの?」
光太は少し考えて、正直に話した。相手が妖怪だということが気を楽にさせた。学校の知り合いならこんなには素直になれなかったと思う。
学校のこと、家のこと、働こうと思ったきっかけ──包み隠さず話した。
「そっかー、人間も色々あんのね」
キヌは感心してるのか、なんとも思ってないのか、光太にはよくわからない。
しばらく沈黙が続き、壁掛け時計の無機質なカチカチという音だけが響いた。
「私ね、人間が好きなんだ。特に、食べ物。カレーにパスタにラーメン、それにオムライス!」
そう言って、嬉しそうにオムライスの皿を指差す。
「他にも他にも、たっくさん美味しいものがあるんだよー。
こんな美味しいの食べたら、もう山の生活には戻れないなぁー!」
キヌは手足をばたばたさせながら天井を見上げた。
「光太は? 何が好き?」キヌは天井を見上げた状態から光太の方に顔を向けた。
「僕かぁ……なんだろうな。最近だと、コーヒーが好きになってきたかも。まだよくわかんないけど」
「えー! コーヒー!? 苦いじゃーん!」
キヌは体をのけぞらせて、ぶるぶると身震いした。
しばらくして、キヌはぽつりと言った。
「美味しいものって、いいよね。幸せになれる」
「……幸せに、か」
「どんな辛いことや悲しいことがあってもさ、お腹はすくじゃん?
そうなるともう、頭ん中は食べ物のことだけになる。
豚骨ラーメン、チーズハンバーグ、トロの握り、ビーフシチュー……。
色々悩んで、でも今日は豚骨ラーメンだ!って決めてさ、ラーメン屋に駆け込む。
食券を買って、席につく。この待ってる時間が異様に長いのよね。
いよいよラーメンが出てきて、まずはスープを一口──うまっ!
あとはもう、無我夢中でラーメンをすするの!」
キヌはうっとりと目を細めていた。
──本当に食べることが好きなんだな、と光太は思った。
「妖怪もさ、色々あんのよ。でもさ、美味しいもの食べてるときは、嫌なこと全部忘れられるんだ」
「へぇ……そういうもんか」
「そうよ! 私の作る“キツネそば”だって美味しいんだから!」
キヌは突然身を乗り出して言った。
「でーっかいお揚げがドーンってのってて、それが甘くてジューシーで熱々でね。
口の中にジュワーって広がるのよ。
お揚げ、蕎麦、お揚げ、蕎麦。
もう気づいたら、ツユまで飲み干してるんだから。最っ高!」
「美味しそうだね」
「自信あるもん! 今度作ってあげるね!」
「そりゃ楽しみだな」
光太が笑うと、キヌも満足げに笑った。
なんだか、ちょっとだけ“友達”ができたような気がした。
翌日。
今日は権助が店の手伝いをする番だった。
光太はいつも通り、開店の10分前にカフェ・キュウビに到着した。だが、店内には誰の気配もない。椿も奥で準備中らしく静かだ。
「……来ないのかな」
ふと、不安がよぎる。
そのとき入口の引き戸がカラカラと音を立てて開いた。ちょうど開店時間ぴったりだった。
「ちわーす……」
現れたのは、ぼさぼさ頭に寝癖のついた男──狸の権助だった。片目をこすりながら、眠そうにふらふらと店に入ってくる。
「光太だっけ? よろしくな」
軽く頭を下げたものの、どこかめんどくさそうな態度。
昨日のキヌとは打って変わって、権助は動きも遅く、気だるそうに店内を見回すばかりだった。光太がテーブルを拭いていても、特に手伝うそぶりも見せない。
椿はカウンターの奥から一瞥し、ため息をついて言った。
「権助、おぬしは厨房に入ってくれ。ホールは向いておらん」
「へいへい」
気乗りしなさそうな態度に見えたが、いざ厨房に入ると、権助の動きは驚くほどテキパキしていた。テキパキしてるというか無駄な動きがなかった。
包丁さばきは的確で鍋の音や油の弾ける音が心地よく響く。料理が完成すると、黙って皿をカウンターに置き、手早く次の支度に取りかかる。
──へえ、と光太は関心した。
結局その日から、キッチンは権助、ホールは光太、椿は両方を適宜補佐するという体制に落ち着いていった。
ランチタイムが終わり、客足も落ち着いた午後。
厨房からひょっこり顔を出した権助が、無表情のまま尋ねてきた。
「カツ丼くえるか?」
「え? はい、食べれます」
「よし」
それだけ言うと、権助はさっと奥へ引っ込んだ。
鍋の音、卵の割れる音、ジュワっと揚げ物が煮込まれる音──どれも手慣れたリズムだった。
そしてものの数分で、見事なカツ丼が三人分、ちゃぶ台に並んだ。
光太、椿、そして権助の三人は、奥の居間で静かに食事をとった。
丼の中では、ふんわりととじられた玉子の下に、黄金色のカツがどっしりと鎮座している。衣はほどよく汁を吸って柔らかくなっているが、まだサクサクとした歯応えが少しだけ残っていた。甘辛いタレがご飯に染みて、箸が止まらない。
「……うまいですね、これ」
「そうかい」
権助は照れるでもなく、ただ黙々とカツ丼をかき込んでいた。
椿もゆったりとした動作で食べながら、「やはりおぬしは料理だけは一人前じゃな」とつぶやいた。
光太はカツをひと切れ口に運びながら、この不思議な「カフェキュウビ」の日常が、少しずつ自分の中に溶け込んできているのを感じていた。